びおの七十二候

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菊花開・きくのはなひらく

寒露次候菊花開

夏目漱石に、

ある程の菊投げ入れよ棺の中

という有名な句があります。かつて漱石の恋愛の対象であったとされる大塚楠緒子が、インフルエンザを拗らせて35歳の若さで亡くなったとき、手向に詠まれた句です。楠緒子は、漱石の友人と結婚してしまいました。胸中に去来する何かを解き放ち、菊の花に思いを託したのです。この句、漱石にしてはエモーショナルで、そのわけを知るとなるほどと納得します。

菊の花は、葬送の花であったり、墓前に捧げる花というイメージがついて回ります。これは西洋の習慣が日本に入ってきたためです。西洋において、菊は墓参の花です。この習慣の影響から、病気見舞いに菊の花を贈ることは、日本でもタブーになりました。

サクラが日本の春を代表する花であるのに対し、もともと菊は日本の秋を象徴する花でした。決して葬送の花ではなかったのです。『万葉集』には、菊は詠まれていません。もし、菊が葬送の花なら、防人の歌にもっと詠まれていたでしょう。菊は、『古今和歌集』や『源氏物語』あたりから登場するようになりましたが、そのときにおいてさえ、菊は葬送の花ではありませんでした。

後鳥羽上皇(鎌倉時代)は、ことのほか菊の花を好みました。そして自らの印として愛用しました。後の天皇が慣例として用いたことにより、「菊紋」は、やがて天皇家の家紋になりました。もし菊が葬送の花であったなら、天皇家の家紋になるわけがありません。

江戸時代は、葵紋は幕府により禁止され、それは水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」で知られたところですが、それとは対照的に菊紋の使用は自由とされ、一般庶民に愛されていました。店舗の商標や、和菓子の図案、仏具等の飾り金具などに多用されました。

菊の栽培熱は、江戸時代前期から高まりました。新たに多数の品種が生み出され、新花の品評がしばしば行なわれました。仕立ての様式や丹精の仕方なども発達し、菊花壇、菊人形なども観賞されるようになりました。世界的にみても、たとえば「江戸菊」のように、花弁が様々に動いて形そのものが変化して行く技法も現れて、幕末には、それによって本家の中国に逆輸入されて、中国の菊事情を一変させました。

明治時代に入ると、そうした花型の変化より、大輪の「大菊」を求める傾向が強まりました。花の直径が30センチに達するような品種も現れました。
大菊

秋はまづ目にたつ菊のつぼみかな  去来

この候の句は、向井去来(むかいきょらい/慶安4年〜宝永元年)のもの。
去来は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人です。
肥前国に生れ、長じて京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住みました。落柿舎は、芭蕉が『嵯峨日記』を執筆した場所として知られています。
この句は、秋の訪れを菊のつぼみに見ていて、当時、盛んになりつつあった菊の栽培熱を映し出しており、その興奮みたいなものが伝わってきます。菊花のつぼみは秋の到来を意味し、この時代、菊はこのように生きていたのだと実感させられます。

最後に菊花紋について触れておきます。
菊花紋章(きくかもんしょう)は、菊の花をかたどった家紋の総称であって、天皇家の家紋というだけではありません。160に近い種類があるそうです。天皇家の紋や、日本国発行の旅券は十六菊を使用していますが、変種も多く、たとえば自由民主党の党章は、十四影菊に自民字の丸だったりします。

自民党党章

自民党党章 from wikipedia

花弁により十菊や十二菊、裏菊、陰菊、菱菊、光琳菊、半分に割れた割菊や半菊、その半菊の下に水の流れが描かれた菊水などが、よく知られています。

日本のパスポート

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年10月13日の過去記事より再掲載)

コスモスと猫