物語 郊外住宅の百年

5

ハワードの「田園都市」を日本はいかに取り入れたのか

ハワードが一冊の本を書くまで

ハワードは、1898年に『明日——真の改革に至る平和な道(To-morrow:A Peaceful Path to Real Reform)』を出版し(1902年『明日の田園都市』と改題)、その翌年に田園都市協会を設立して実行に踏み切った。追って1903年に非営利の会社組織として第一田園都市会社 (First Garden City Ltd.) を設立し、受け皿となる組織整備をはかり万全の態勢を敷いた。このあたり逆から見ていくと、実に用意周到なもので、練りに練った計画だったことが分かる。

Ebenezer Howard The Most Excellent Order of the British Empire

ハワードは、今では近代都市計画の始祖と呼ばれているが、もともと都市計画者でもなければ、行政マンでも、不動産事業者でもなかった。「田園都市構想」を一冊の本にまとめるべく思い立ったとき、ハワードは50代に達したばかりの速記者だった。
ハワードを紹介する本に、「しがない初老の速記者によって」と記述されたものもあり、後年、ルイス・マンフォードが『都市の文化』(生田勉訳、鹿島出版会)に書いた、「合理的な都市成長の原動力について、健全な社会学的な考察を行った最初の現代都市思想家」と評価したことと、この時点におけるハワードとを結びつけるのはおよそ難しい。
都市開発における民主主義と公共性の関係を、これほど明快に解き明かした本はそれまでにないことで、「一介の速記者」によって著された事実自体、一つの驚きである。
速記の起源は、古代ギリシアの碑文に速記文字が発見されていて、知的奴隷が充てられた。速記を間違えると指を切り落とされたという逸話が残されている。この時点におけるイギリスは、議会と契約の国だったので速記は重視されたものの、社会的地位は低かった。貧しい家庭の見どころのある子は、まず給仕として雇用され、給仕より身分が高く、専門職である速記者はその階段の上にあった。
ハワードの青年期、ビクトリア女王から貧しい庶民の子どもまでが愛読した文豪ディケンズは、幼くして靴墨工場に働きに出て、給仕になり、速記者になり、新聞記者になり、そして小説家になったが、彼は、当時速記者になるには「六か国語をマスターするのに匹敵する」ほど困難な独習を必要としたと書いている。
速記者で生計を立てていたハワードが、一念発起、『明日——真の改革にいたる平和な道』(以下「明日本」と記す)の発行を思い立ったのは、1898(明治31)年である。タイトルに「To-morrow」を冠した。今日のことに直面して生きてきたハワードにとって、明日は遠くにあるものであって、ひとしおのものがあったに違いない。

日清戦争から4年後、夏目漱石が文部省から英国留学を命じられたのは、その2年後の1900(明治33)年のことである。漱石は、文部省への最初の報告書に「物価高真ニ生活困難ナリ十五ポンドノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と書いている。
「明日本」を発行するための出版費用は50ポンド(日本円で現在のお金に換算すると約19万円)だった。物価高のロンドンにあって、この出版費用を捻出するのは、ハワードとって大きなハードルだった。つまりを言えば、この時点のハワードは、この程度のお金に事欠いていたのである。
漱石は、授業料の割に面白くない大学の講義に出ないでディケンズの小説を読み漁っていたと日記に書いているが、ハワードは前のめりになり、人からお金を工面してまで、「明日本」の発行に奔走した。