山口由美
2019年02月04日更新

仙之助編十三の一から最新話まで

仙之助編十三の一

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

早朝のヌウアヌ通りに男たちの足音が響き渡ったのは、一八六八年十二月初旬のことだった。十一月のサンクスギビングが終わって、クリスマスの準備を始める頃のことだ。

熱帯のホノルルにはクリスマスツリーにするモミの木もないが、それでも商店街ではせめてもの装飾を施してクリスマスらしい気分を演出する。商船の入港が多くなり、お祝いの食卓に欠かせない葡萄酒やシャンパン、砂糖漬けの果物などが入荷した知らせが新聞広告を賑わせる季節であるのは横浜と同じだった。

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。

軍隊の行進にも似た足音にホノルルの住人たちは、何事かと、鎧戸の中から様子をうかがった。まもなく、足音は、ある建物の前でピタリと止まった。

日除けの麦わら帽子を被り、汚れたシャツを身につけた、見るからに農園労働者といった風貌の背の低い男たちが十人ほど、鬼のような形相で立っていた。

コウラウ耕地のワイルダー・プランテーションに雇用された日本人移民たちだった。

足音に気づいた牧野富三郎が慌てて外に出てきた。
「おまえたち……、夜通し歩いてきたのか」

その質問には答えずに、先頭に立った男が答えた。
「モキチとヒョウベイが死んだ」

告げられたのは、コウラウ耕地に配属されたなかで年かさの二人の名前だった。
「えっ……、何だって」

富三郎の問いかけに男は罵声を浴びせるように言った。
「あいつら、お陀仏になっちまったんだよ」

男たちの突き刺すような視線に富三郎は言葉を失った。

サトウキビを収穫する仕事は過酷だった。陽の長い季節は早朝から夕暮れまで十二時間、夜明けが遅くなり、ようやく始業が一時間遅くなったが、それでも十時間は働きづめで、昼食の休憩も三〇分しか許されなかった。

もっとも、彼らが不当に過酷な待遇だったのでもなく、当時のサトウキビプランテーションの労働条件はみな同じようなものであり、明治中期以降の日本人移民も同じ待遇で働かされた。だが、後の移民たちの大半が農民だったのに対し、横浜で集められた元年者のほとんどが都市生活者で、畑仕事に不慣れだったことも、早々に不満が爆発した理由だった。

一日四ドルという給与は契約通りだったが、提供される食事が充分でなく、しかもコックが中国人であったため、脂っこい味付けが日本人の口にあわなかった。さらに彼らを憤らせたのが、横浜を出航する時に支給された揃いのお仕着せの代金を給料から差し引かれたことだった。ハワイの物価の高さも彼らには想定外のものだった。

仙之助編十三の二

最も多くの移民が入植したコウラウ耕地のワイルダー・プランテーションのことは富三郎も心にかけていた。彼らを送り込んで数週間後には仙之助を伴って再び現地に赴き、彼らの不満を直接聞いていた。

過酷な労働と食事が満足でないことは、どこも同じだったが、コウラウ耕地のルナ(監督官)はことさらに厳しく、いつも不機嫌だった。なかでも農園の責任者だと名乗ったジョーイがくせ者らしかった。富三郎や仙之助が訪問すると、多少もっともらしい態度をとるが、移民たちは口々にその非人情を訴えた。

しかも働き手は、喧嘩早い面々が揃っていた。ルナの強引な態度に黙ってはいなかった。だが、反発すればするほど、相手も強硬な態度に出る。

彼らがとりわけ訴えたのが、体の具合が悪い者に病欠を許さないことだった。ルナが小屋までやって来て、病人を畑に引っ張り出す。そうして働かされた結果、一人は仕事中に畑で倒れ、一人は、ある朝、胸が苦しいと言って息絶えたという。
「あいつら、殺されたようなものだ。ただでは済ませられない」

怒りに震えた男たちは、涙ながらに訴えた。

その前日、仙之助はかつてスクールボーイとして働いていたウィル・ダイヤモンドからワイルダー・プランテーションの噂を耳にしていた。

ウィルは声をひそめて言った。
「コウラウ耕地のワイルダー・プランテーションは呪われていると噂が立っている」
「どういうことですか?」
「おまえたち、日本人がコウラウに向かった前日に事件が起きた」
「事件とは、いったい……
仙之助は到着した日に、ルナのジョーイがみなホノルルに出払っていると、意味深な発言をしていたことを思い出した。
「いや、正確には、事故だな」
「事故?」
「工場のサトウキビを煮沸する釜に農園主のワイルダーの幼い息子が落下して死んだんだ」
「えっ、あのレンガ造りの立派な工場で、ですか」
「そうだ。最新鋭の巨大な釜で、どうにも助けられなかったらしい」
「そんな……

仙之助はむごたらしい惨状を想像して顔をそむけた。
「生きたまま子供が釜でゆでられたなんて、地獄の沙汰だ。事故だとしても、ただごとではない。ワイルダーの夫婦は半狂乱になっている。ホノルルの社交界はその噂でもちきりだ」
…………

仙之助は言葉を失った。悲劇を聞いた翌日に、同胞の悲報を聞くことになるとは。

本当に呪われているのではないかと思いたくなる。

仙之助編十三の三

コウラウ耕地の日本人移民たちが、大勢でホノルルまでやって来て抗議をしたことは、地元の新聞にもとりあげられた。当時、過酷な条件で働く労働者はいくらもいたが、大きな声をあげて抗議する者はいなかったからだ。

彼らの言い分を記者に伝えたのが、仙之助だったことは言うまでもない。声を上げることで、少しでも事態の改善を図りたいたいと仙之助は考えた。

だが、事態はいい方向には進まなかった。

富三郎と仙之助がコウラウ耕地で亡くなった二人の同胞を弔い、再びホノルルに戻ってくると、まさかの訃報が再び彼らのもとにもたらされた。

マウイ島のウルパアク耕地で、またサイオト号の移民がひとり、命を落としたのだった。

しかも病死ではない。首を吊って自殺したのだという。

仙之助は富三郎と顔を見合わせて絶句した。

詳しい事情はわからなかったが、過酷な環境に耐えかね、未来を絶望して命を絶ったと聞かされた。サイオト号の船上でなくなった和吉とあわせて、わずかの間に四人の尊い命を失ったことになる。

重苦しい沈黙が続いた後、富三郎がぽつんと言った。
「何が天竺だ……地獄じゃないか」

眼には涙が浮かんでいた。
「俺は人殺しの片棒を担いだのか……
「富三郎、そんなことはない………
「じゃあ、なんで四人も死んだ」

見たことのないような形相で富三郎は怒鳴った。
「それは……

仙之助は言い返そうとするが、言葉がつなげない。

不安の中にいる仙之助と富三郎

「ゴクラクジョウドとは、結局、あの世のことだったのか……

ハワイをコノヨノゴクラクジョウドと呼んだのはユージン・ヴァン・リードだった。募集に応じた者たちは、それを聞いて天竺で一稼ぎできると信じた。
「天竺と信じて船に乗った者たちに何と言い訳すればいい」
…………

仙之助は、富三郎の心に自分たちはヴァン・リードに騙されたのではないかという疑念が生まれていることに気づいていた。揃いのお仕着せの代金をハワイに来てから給料から差し引かれたのが疑念のきっかけだった。

だが、仙之助はヴァン・リードを信じていた。彼によからぬ噂があることは知っていたが、少なくとも仙之助にとっては、未知の世界への扉を開いてくれた恩人だった。亡き仙太郎との思い出もたくさんある。

悲劇が続くなか、ヴァン・リードと初めて会った季節、クリスマスが近づいていた。

仙之助編十三の四

一八六八年の十二月二十四日、クリスマスイブの夜、仙之助は、前の勤め先であるウィル・ダイヤモンドに手伝ってほしいと声をかけられた。自宅に人を招いてパーティーをするのに手が足りないのだと言われた。

日本人移民をめぐる騒動は、ホノルルの小さな社交界ですっかり有名になっており、仙之助が渦中にいることはウィルもわかっていたが、だからこそ、気分転換させたい気持ちもあったのだろう。わずかの間に同胞を三人も亡くし、気落ちしていた仙之助は逡巡したが、世話になった相手から懇願されれば、断る訳にもいかなかった。

十二月のホノルルは、少し気温が下がり、朝晩は肌寒さも感じるが、日中の日差しは強かった。木枯らしの吹いていた横浜のクリスマスの頃とは全く異なる。

仙之助は糊のきいた白いシャツに着替えて、ウィルの家の玄関に立った。
「おう、センタロウ、よく来てくれた」

赤ら顔のウィルがウィスキーグラスを片手にあらわれた。
「もう飲んでおられるのですか」
「ハハハハ、今日はクリスマスだから特別だ」

見慣れたリビングルームには、大きなクリスマスツリーが飾ってあった。
「あ、……

仙之助は、思わず言葉を失った。
「どうした。クリスマスツリーを見たことがないのか」
「いえ、そうではなくて。私が生まれて初めて、横浜で見たクリスマスツリーにあまりによく似ていたので。赤いガラス玉と金色の星と……、」

クリスマスツリー

「そうか。でも、木は違うだろう。これはクックパインという南洋でも育つ松の木だ。横浜にモミの木(Fir Tree)はあったのか」
「わかりません。でも、ヴァン・リードさんは、これによく似た木を私の店に売りに来て」
「ハハハハ、ユージンはクリスマスツリーの行商人だったのか」
「はい」
「あいつは、いつも突拍子もないことを考えるからな。だから、誤解もされる」
…………
「あいつの悪い噂がたっていることは知っている。このたびのことは、いろいろと行き違いがあったのだろう」
「私にとっては……、恩人です。でも……
「あいつが本当は悪党なのか、誤解なのか。今はわからんな」
…………
「だがな、ものごとは、今何が一番大事か、優先するべきは何かを見極めることが大切だ。なあに、誤解なんてものは、いつかわかりあえる時が来る。心配するな」

ウィルはそう言って、仙之助の肩をぽんと叩いた。

仙之助編十三の五

クリスマスイブの夜、仙之助は、ウィルの客たちが帰った後も台所で皿洗いと片付けを一人で引き受けた。牧野富太郎のもとに帰りついたのは夜半過ぎだった。

事務所には、まだランプの火が灯っていた。
「まだ、起きていらしたのですか」
「ああ、救出嘆願書を書いていた」
「救出……、帰国を求めるということですか」
「もはや、それしかないだろう」
「誰にあてて書いているのですか、ヴァン・リードさんですか」
「俺たちは、あいつに騙されたんだぞ。その相手に手紙を書いてどうする」

富太郎は激高して声を荒げた。
…………
「仙之助さんがヴァン・リードを庇いたい気持ちはわかる。だが、だったならなぜ、助けを差し伸べてくれない。サイオト号の出港以来、なしのつぶてじゃないか」
…………
「俺たちの旅券は失効していると、移民局にも言われている。江戸幕府が発行した旅券だからだ。日本は今はもう、新政府の世の中になっている。日本でもそのことが問題になっているらしい。あいつのせいで、俺たちは、密航者になってしまった」

仙之助は、私と同じですね、と言いかけて言葉を飲み込んだ。
「もう、幕府の世ではないのですね」
「そうだ、だから、新しい政府に対して嘆願書を書くことにした」

月額四ドルの給与に対して物価が高すぎて生活が成り立たないこと、過酷な労働、不慣れな気候風土、生活習慣など、富太郎は、移民たちが口々に訴えた窮状を事細かく書き綴った。とりわけ感情が高ぶった表現になったのは、四人の仲間を失ったことだった。

そして、すべては、在日ハワイ総領事を名乗るユージン・ヴァン・リードが正しい情報を移民たちに伝えなかったことによる悲劇だと強い論調で断じていた。

びっしりと文字の並んだ書面をじっと見つめる仙之助に富太郎は言った。
「仙之助さんも嘆願書に名前を記してもらえませんか」
「えっ、私も、ですか」
「救出に動いてもらうためには連名のほうがいい。そう思いませんか」

仙之助は胸の鼓動が速くなるのを感じていた。ヴァン・リードの不正を訴える文書に名前を記すことへの逡巡、そして密航者である自分が公文書に存在を残すことへの不安だった。だが、移民たちにこれ以上の苦悩を与える訳にいかない。それこそが、ウィルの言っていた、優先すべきことに違いない。仙之助は決心して筆をとった。
「仙太郎」

少し震える手で自らの変名を嘆願書に記したのだった。

サインする仙之助

仙之助編十三の六

牧野富三郎が仙太郎と連名で記した最初の救出嘆願書は、一八六八年十二月二十五日付け、まさにクリスマス当日に書かれた。

その少し前、同年十一月二十四日に、実はもう一通、ハワイの日本人移民の窮状にかかわる上申書が日本政府に提出されていた。

送り主の宇和島藩士城山静一は、江戸の商人扇屋久次郎に雇われ、通訳としてサンフランシスコに渡った人物だった。

なぜ彼がハワイの日本人移民に関する上申書を書いたのか。

それはハワイの新聞に掲載された移民の窮状がサンフランシスコの新聞にも報じられ、元凶は元締めのユージン・ヴァン・リードであると書かれたことがきっかけだった。サンフランシスコから商用でハワイに渡航しようとしていた城山は、ヴァン・リードのよからぬ企みでハワイ駐在日本領事として着任すると噂を立てられた。城山は、そうした噂に何の関わりもないことを示したくて、ヴァン・リードを告発するかたちでハワイ移民の窮状を訴える上申書を書いたのだった。

移民たちの窮状を知ってもらおうとしたことが、情報が伝わるにつれ、さまざまな尾ひれがついていったのである。だが、富三郎の嘆願書だけではなかったことが、結果として政府が早く動く結果になったのかもしれない。

富三郎は政府に働きかけを続ける一方で、これ以上の犠牲者を出さないよう、移民たちが働くサトウキビプランテーションを頻繁に訪れた。

その後は、幸い悲劇はおこらなかった。

月額四ドルの給与が引き上げられることはなく、物価高は相変わらずで、勤務時間が短くなったこともなかったが、都市生活者だった移民たちが多少なりとも生活に慣れたことは大きかった。

仙之助は通訳としてプランテーション訪問には同行したが、その後は、少しずつ表に立つことをさけるようになった。嘆願書に「仙太郎」と記したときの逡巡と不安が、時がたつにつれて大きくなるのを感じていたからだ。

富三郎は、ヴァン・リードの策略にはまって無効の旅券で旅立つことになったと訴えるが、そもそも仙之助は、幕府の旅券さえ持たない、正真正銘の密航者だった。ヴァン・リードが何らかの策略で移民たちをハワイに送ったのか、その真偽はわからない。だが、少なくとも、仙之助は、ヴァン・リードに騙された事実はない。捕鯨船に乗って太平洋を北から南へと航海したこと、ハワイに来たこと、その全てを何も後悔はしていなかった。

埃っぽいホノルルのダウンタウンにいてもなお、吹く風は心地よかった。

港から吹いてくる海の風、ヌウアヌ通りの先から吹いてくる山の風。

炎天下の労働で亡くなった仲間たちのことを思えば不謹慎なのかもしれないが、この風に吹かれていると、この島を「コノヨノゴクラクジョウド」と呼んだヴァン・リードが大嘘つきとも思えない気がしてくるのだった。

仙之助編十三の七

一八六九年の新年が明けてしばらくしてから、仙之助は、再びウィル・ダイヤモンドの家でスクールボーイとして働くようになった。クリスマスイブの働きぶりに、ウィルがあらためて仙之助に戻ってきてほしいと懇願したことと、ユージン・ヴァン・リードに対する怒りが日々膨れ上がっていく富三郎と、毎日顔をつきあわせることが、仙之助にとって、いさかか気まずくなっていたことが原因だった。

富三郎は、仙之助を責め立てたり、文句を言うことは一切なかった。

嘆願書にも連名で署名を求めたように、むしろヴァン・リードの不正を共に訴える同志であることを強く求めていた。そのことを仙之助は痛いほどわかっていたし、命を落とした仲間のことを考えるならば、そうあるべきとも思っていた。だが、ヴァン・リードとの思い出は忘れがたく、個人的な心情としては、どうしても彼を悪党とは思えない。心の葛藤が、いよいよ苦しくなっていたのだった。

富三郎も、仙之助の心のうちをわかっていたのだろう。決心を伝えると、言葉少なにうなずいて、引き留めはしなかった。

年が明けてからも、富三郎は、なおも日本政府に複数の嘆願書をしたためた。

仙之助も署名した最初の文書では、雲を掴むような感じがあったが、宇和島藩の城山静一からの嘆願書もあり、富三郎は手応えを感じるようになっていた。

二人の立場を大きく隔てていたのは、富三郎と移民たちは、正式な移民としての渡航であると信じて、ヴァン・リードに手配をゆだねたのに対して、仙之助は最初から密航者として海を渡った事実だった。嘆願書が認められて、政府が動き出せば、仙之助の立場は、危ういものになる。そのことにも、お互いが気づき始めていた。

当時、ホノルルと横浜を結ぶ定期航路はなかったので、横浜に向かう者をみつけて手紙をわたすしか方法はない。英語の拙い富三郎が筆談で意思疎通のできる中国人に手紙を依頼したのは、これまでのように全てを仙之助に頼ることの躊躇があったからに違いない。

それでも、二人が疎遠になった訳ではなかった。

富三郎が仙之助の英語力を必要とすることはしばしばあったし、仙之助も自分がハワイに来た目的は、移民たちのためだという思い強くあった。時々は、気にかけていたコウラウ耕地のワイルダープランテーションまで二人で視察に行くこともあった。

そうしたある日のこと、帰宅したウィルが頰を紅潮させて仙之助に言った。
「おい、センタロウ、今日は懐かしい奴に会ったぞ」
「どなたですか?」
「ダニエル船長だ」
「えっ、クレマチス号の?」

ダニエル

「そうだとも」
「達者でおられましたか」
「ああ、元気そうだった。お前の噂話に花が咲いたぞ」

仙之助編十三の八

「ダニエル船長とは、どこでお会いになったのですか」
「アメリカンホテルのバーだ」

仙之助がウィルと引き合わされた、ダウンタウンのホテルだった。

アメリカンホテル

「しばらくホノルルに逗留されるのでしょうか」
「さあな、久しぶりに陸で飲むバーボンの味はこたえられないと話していたから、今夜はまたバーに繰り出してくるだろうよ」

夕方になるのを待ちかねて、仙之助は、ウィルの従者として、アメリカンホテルのバーに入った。カウンターに見覚えのある後ろ姿があった。
「ダニエル船長」

仙之助の声に驚いたように、懐かしい顔が振り向いた。
「おお、ジョンセン、元気そうだな」
「はい、おかげさまで」
「お前の仲間たちは、無事に日本から到着したのか」
「はい、ですが……慣れないプランテーションの仕事で命を落とした仲間もおりました。役に立てなかったかと思うと不甲斐ないです」
「そうか。詳しい事情はわからんが、陸の上でも海の上でも、慣れない仕事で命を落とす者はいる。俺の捕鯨船でもそうした事故は何度もあった」
…………
「元気に働いている者もたくさんいるんだろう」
「はい。ですが、総代の富三郎は、移民を帰国させたいと……
「ユージンが骨を折って移民の渡航を実現させたんじゃなかったのか」
……
「それを帰国させるのか」
…………
「いろいろと複雑な事情がありそうだな。だが、ジョンセン、何はともあれ、お前が元気そうでよかったぞ」
「ありがとうございます」

仙之助は、胸いっぱいに熱いものが込み上げてくるような感じがしていた。
「ジョンセン、お前も一杯飲むか」

戸惑って、仙之助は、ウィルとダニエルの顔を交互に見た。

バーテンダーは、何も言わず、褐色の色がやや薄い、多めのソーダで割ったバーボンを仙之助が座ったカウンターテーブルの前に置いた。

仙之助は、グラスを手にして、恐る恐る口に運んだ。弾ける炭酸の喉越しは、甘いレモネードよりも刺激的で、後からほろ苦さと喉が熱くなるような感覚が追いかけてくる。せつない心境と共に、仙之助にとって忘れられない味となった。

仙之助編十三の九

初めて飲んだバーボンのほろ酔いは、仙之助の心を解放し、饒舌にした。
「鯨のシーズンは終わりだというのに、どうしてホノルルに寄港されたのですが」
「強風でやられちまったマストの修理のためだ。こいつが壊れなければ、ホノルルには立ち寄らなかったよ」
「強風のおかげで私たちは再会できたのですね」
「海はさまざまな偶然の運命を船乗りに与えるものさ」
「夏は、またオホーツク海に行くのですか」
「いや、今年は北には行かない。ジャパン・グラウンドに行く。ボニン・アイランズに行かねばならない用事があるからな」

ボニン・アイランズとは、現在の小笠原諸島のことだった。

ボニン・アイランズ

群島の名前を聞いてもぴんと来ていない仙之助にダニエル船長は可笑しそうに言った。
「ペリー総督が初めて日本に向かった時も立ち寄っている。日本が開国に応じなかったから、ボニン・アイランズを捕鯨船の補給基地にしようとしたらしい。そうそう、お前が尊敬するジョンマンも、何年か前に、日本で捕鯨事業を立ち上げようとして、このあたりを航海していたと噂を聞いたことがある。お前は知らないのか」
「知りませんでした。私はジョン万次郎の英語の教本で学んだだけですから」
「ハハハハ、ジョンマンの本質は、鯨捕りだからな。ジャパン・グラウンドに目をつけた才覚こそ、尊敬しなければならないぞ」
「はい。ボニン・アイランズはアメリカの島なのですか」
「いや、違う。お前の国の島だろう。だが、村の長老は、ナサニエル・セヴォリーというアメリカ人だ。ジョンマンや俺たちと同じ、マサチューセッツの出身だと聞いている」
「日本の島なのに、長老はアメリカ人なのですか」
「ああ、面白い島だろう。そのナサニエルにホノルルと手紙のやりとりを頼まれてきた」
「手紙を渡したら、その後はどこに向かうのですか」
「ジャパン・グラウンドでしこたま鯨を捕るさ。そして……、また横浜に向かうかな」
「横浜……、本当ですか?」
「故郷に帰りたいのか」
「故郷が恋しいのではありません。でも、移民の帰還が本決まりになったら、彼らには新しい旅券が用意されるでしょうが、私には立場がありません」
「そうか。クレマチス号のマストの修理には、まだ少し時間がかかる。それまでに決めれば良い。俺は、お前とまた航海できるのは大歓迎だ」
「ありがとうございます」

隣でじっと二人の会話を聞いていたウィルがぽつんと言った。
「こんなに役に立つスクールボーイに辞められるのは本意じゃないが、お前の人生だ。お前が決めればいい。ずっとハワイにいたければ、その場合は俺がなんとかしてやる」

仙之助編十三の十

ダニエル船長との再会からほどなくして、仙之助はクレマチス号に乗船することに決めた。このままハワイにとどまっていても、もはや仙之助の役目はないと判断したからだった。

富三郎は、一刻も早い移民の帰国に奔走している。おそらく、遠くない将来に彼の交渉は実現するだろう。そうなった時、密航者である仙之助は役にたつどころか、足を引っ張る存在であり、自分自身の身の上にも危険がおよぶ。

密航者として出国した以上は、密航者として帰国するしかない。

一八六〇年代の太平洋において、それを可能にする唯一の手段が、捕鯨船なのだった。

決意を聞いた富三郎は、何も言わずにうなずいた。

仙之助は富三郎に伝えたい思いは山ほどあったが、ユージン・ヴァン・リードを巡る葛藤が、言葉にすることを躊躇させた。

クレマチス号のマストの修理は予定より早く終わり、出港の日を迎えた。

ただひとり、ウィル・ダイヤモンドが桟橋に見送りに来てくれた。

仙之助を強く抱擁すると、耳元で言った。
「お前と会えて、うれしかった。達者でいろよ」
「私もお会いできてうれしかったです。いつかまた……

と言いかけて、再会は限りなくあり得ないことと悟って言葉を飲み込んだ。

次の瞬間、ふいに涙がこぼれそうになって掌で目をこすった。

密航者を乗せた捕鯨船は、夜明け前の静寂のなか、桟橋を離れた。

捕鯨船

ホノルルに入港した時と同じく、仙之助はダニエル船長の指示で船底のキャビンにとめおかれた。今一度、ホノルルの風景を脳裏に焼き付けたいと思ったが、仕方なかった。
「コノヨノゴクラクジョウド……

ハワイへの惜別の思いから仙之助は、ヴァン・リードの口癖を独りつぶやいた。

現実のハワイは、美しくもあり、矛盾にも満ちていた。

それでも花と緑の香りを含んだ風の心地よさだけは、極楽浄土と呼ぶべきものだった。

仙之助の脳裏に、ラニの家で体験した宴のシーンが甦る。

夢とも現とも知れない宵に見た風景もまた、まさにこの世の極楽浄土だった。

とりわけ禁断の踊りの優雅さと妖艶さは忘れることができない。

だが、ここで仲間の命が失われたのも、また事実だった。悲劇がことさらに悲しく、せつなく胸に迫るのは、ここが美しい島だからに他ならなかった。
「おおい、港を出たぞ」

顔馴染みの船員がキャビンの扉をノックした。

デッキに出ると、朝陽を浴びて真っ青な大海原が広がっていた。

振り返ると、ホノルルの市街地はすっかり遠くに去り、何度となく山道を越えたコウラウ山脈の山並みが島影のシルエットを形づくっていた。

また、捕鯨船の冒険が始まる。仙之助は武者震いを抑えられなかった。

仙之助編十三の十一

ボニン・アイランズとは、太平洋に浮かぶ複数の列島からなる群島である。

日本語の「無人(ブニン)島」の読みからとった名称で、一八世紀にフランス人がその名で紹介して以来、欧米ではボニン・アイランズと呼ばれている。

発見者はスペインのガレオン船とも、オランダ東インド会社の探検船とも言われる。

捕鯨の拠点であるハワイとジャパン・グラウンド、そして北太平洋のカムチャッカを結ぶ航路上にあるため、捕鯨船がしばしば寄港した。日本人の漂流者が流れ着くこともあり、江戸時代になると幕府も何度となく探検船を送った。

小笠原諸島という日本語名は、群島の発見者とされる小笠原頼貞(さだより)の名前に由来するが、この名で呼ばれるようになったのは、領有権を主張した幕末以降のことだ。

主要な島は、父島と母島で、それぞれが群島を形成している。

一九世紀の船乗りの間では、イギリス人が命名したピールアイランド(父島)とベイリーアイランド(母島)の呼び名が一般的だった。

一八三〇年、長く無人島だったボニン・アイランズの最初の定住者となったのが、ハワイのイギリス領事の呼びかけによって結成された五人の欧米人、二十人のハワイアンからなる入植者だった。

ダニエル船長が島の長老と呼ぶナサニエル・セヴォリーは、その一人である。

当初、イギリス領事からリーダーに指名されたのは、イタリア出身のマザロだったが、人望に欠ける粗暴な人物だったこともあり、後にセヴォリーが父島の首長となった。

彼らは父島に上陸し、ウミガメの肉と自生するヤシ科のアサイーを食べて暮らしたが、その後、畑を開墾し、野菜を育て、捕鯨船に売って生計を立てるようになった。

一八五二年には、浦賀に来航する前のペリー提督もボニン・アイランズに立ち寄っている。まだ日本が領有権を主張する以前のことで、ペリーはセヴォリーたちをサスケハナ号に招き、歓待した上で「ピール島植民地規約書」なるものを与え、自治組織を作ることを勧めた。アメリカ海軍の傀儡政権とすることを試みたのである。

ペリーとサスケハナ号

日本が開国に応じなかった場合は、ボニン・アイランズをアメリカの自治領とし、捕鯨船の拠点にするつもりだったとされる。

だが、ペリー来航を契機に日本の歴史は開国に動き始める。

一八五九年、日米修好通商条約批准のため、遣米使節団が派遣された。アメリカ艦船、ポーハタン号と共に海を渡った咸臨丸の任務には、ボニン・アイランズの調査も含まれていた。だが、諸般の事情で実行されず、一八六二年にあらためて、外国奉行水野忠德(ただのり)を乗せた咸臨丸を派遣した。この時、先遣隊の通訳として上陸したのがジョン万次郎である。

ジョンマンは、ナサニエル・セヴォリーと面会し、群島の領有権が日本であることを彼らに認めさせたのだった。翌年、彼はジャパン・グラウンドで初めての洋式捕鯨を試みている。

だが、生麦事件以降、幕府の興味は太平洋の群島を離れていく。ジョンマンは、かつての経験を生かし、捕鯨業で一旗揚げる夢を閉ざされ、歴史の表舞台から姿を消す。

仙之助編十三の十二

クレマチス号が、ダニエル船長が「ポートロイド」と呼ぶ父島の二見港に入港したのは、一八五九年八月のことだった。予定より遅れたのは、直前に大きなマッコウクジラを仕留め、その解体作業に時間を要したからだ。

ラニの母親とよく似た容貌の年配女性と、禁断の舞の踊り手を思わせる若い女性が桟橋に立っていた。ハワイからの移住者たちだった。椰子の木が生えた景観もハワイに似ていたが、ホノルルのような西洋建築はなく、粗末な小屋が幾つかあるだけの寒村だった。

ダニエル船長が、彼女たちに用向きを伝えると、こちらだと手招きされた。

船長と共に仙之助も彼女たちの後を追った。草葺きの小屋から出てきたのは、白髪に白い髭をはやした老人だった。骨格は西洋人だが、肌は赤銅色に日焼けしている。
「ミスタ・セヴォリー、ホノルルからお約束の手紙を持って参りました」

ダニエル船長が声をかけると、老人は途端に笑顔になった。
「おお、待っておったぞ。おおい、手紙が届いたぞ」

セヴォリーはハワイアンの女性たちに声をかけた。
「彼女たちが親戚の消息を知りたがってな。私はもう故郷の家族なぞ、とっくに縁が切れているが、お前とは確か同郷だったな。ええと、ダニエル……だったな」
「はい、ダニエルです。ジョンセン、お前も挨拶をしろ」
「はじめまして、ミスタ・セヴォリー」
「ジョンセン……、はて、お前さんはジョンマンの縁者かね」

戸惑う仙之助に代わってダニエル船長が答えた。
「彼はジョンマンと同じ日本人です。私はジョンマンと働いたことがあるのですが、同じように賢いのであやかって名づけました。日本語の本名はセン……何とやらと申します」
「そうか、お前も日本人の鯨捕りか。そりゃあいい。ジョンマンはボニン・アイランズで捕鯨をすると意気込んでおったが、とんと消息がない。お前は何か知っているか」
「すみません。私はジョンマンの書いた教本で英語を学んだだけで、面識はないのです」
「ほう、ジョンマンは鯨捕りをやめて英語の教師になったのか。ジョンセン、もしジョンマンにあったら伝えてくれ。ボニン・アイランズの住人はいつでもお前を待っていると。私は彼の申し出だったから、日本領土にすることを認めたのだ。あいつは、私らと同じ海をねぐらとする人間の匂いがしたからだ。ペリー提督なんかとは違ってな」
「は、はい。わかりました」

仙之助は、姿勢を正して答えた。もちろんジョンマンに会えるかどうかなどわからない。だが、ふと思い出したのが、ホノルルの桟橋で、ロトことカメハメハ五世にいつか歓待すると宣言したことだった。世界の賓客を迎え入れ、もてなすようなことができれば、ジョンマンにも会えるのかもしれない。

ジョン万次郎

横浜に帰るべきか、このままダニエル船長と捕鯨船の航海を続けるか、迷いが生じていた仙之助の心に、漠然とした未来の夢が湧き上がった瞬間だった。

仙之助編十四の一

一八六九年七月下旬、仙之助がクレマチス号で航海し、マッコウクジラと挌闘していた頃、牧野富三郎が再三送った救出嘆願書に対して、ようやく政府が具体的に動き始めた。

ハワイ王国に派遣する政府使節の正使として、薩摩藩出身の上野敬介景範(かげのり)が選ばれたのである。後に初代の横浜税関長、イギリス公使などを歴任する上野は、当時、弱冠二十五歳ながら、語学に長け、外国との交渉に実績があった。命じられた身分は特命全権公使に相当する。随員に選ばれた年上の三浦甫一も経験豊かな人物だった。

同年十月三十一日、上野は外輪船ジャパン号で横浜を発った。晩秋の太平洋は荒れたが、十一月十七日、サンフランシスコに無事到着した。横浜からハワイに行くには、定期航路はサンフランシスコ経由しかなかったのと、事前交渉のためだった。

外輪船が金門湾に入ると、砲声がとどろき、桟橋には多くの人たちが整列して歓迎した。特命全権公使の使節は、国賓待遇で迎えられたのだった。丁髷を結い、羽織袴に大小の刀を刺した上野は、堂々たる武士の風格を備えていた。

随員の三浦とは、サンフランシスコで合流した。一足早くサンフランシスコに入った彼は、髷を落とし、散切りの髪を後ろにまとめていた。

上野と三浦が帆船イサン・アルレン号に乗船し、出発したのは、同年十二月五日。再び二十日余りの太平洋を渡る船旅で、ホノルル港に到着したのは、クリスマスが終わり、暮れも押し迫った十二月二十七日だった。

仙之助が署名をした最初の嘆願書から、ちょうど一年の月日が流れていた。

牧野富三郎は、桟橋に立ち、感慨深い思いで使節一行の到着を出迎えた。コウラウ耕地からも数人の代表者が駆けつけていた。

サイオト号でホノルルに到着した日のことが遠い昔のように思えた。

あの時よりも、日本からの使節を迎える今の方がよほど盛大な歓迎だった。仲間を失って、ようやく自分たちの存在が認められたことに富三郎は複雑な心境だった。だが、ハワイ王国の歓待は、問題の解決のためにはありがたいことだった。

使節の宿舎には、ヌアアウ通りにあるエマ女王の離宮があてられた。

その年、イギリスのヴィクトリア女王の次男エディンバラ公爵が国賓としてハワイを訪れた際、部屋を増築して宿舎にした宮殿である。公爵の滞在した部屋がそのまま彼らの居室となった。まさに最大級の待遇ということだろう。

桟橋では、上野と三浦はハワイ王国の政府関係者に取り囲まれ、富三郎は彼らに近づくことも声をかけることも出来なかったが、その日の夕方に近くになって、あらためて桟橋に出迎えた移民たちと共に離宮での面会を許された。

離宮は、到着後の遠足で仙之助と共に見物に出かけた思い出の場所でもある。その後も、コウラウ耕地を往復するたびに前を通った。だが、富三郎は一度も中に入ったことはなかった。このようなかたちで足を踏み入れる日が来るとは思わなかった。

瀟洒な建物を見上げて、富三郎はふうと深呼吸をした。

仙之助編十四の二

エマ女王の離宮は、白亜の外観と同じく、館内も白を基調にした空間に優雅な調度品がおかれた、噂に違わぬオアフ島で最も美しい建物だった。富三郎が仲間たちと招き入れられた部屋は、赤い絨毯が敷き詰められ、豪華なシャンデリアが煌めく、とりわけ豪奢な部屋だった。部屋の奥に上野敬介景範正使と随員の三浦甫一が椅子に座っていた。

上野敬介景範

富三郎は、どう挨拶したものか逡巡していたが、彼らの羽織袴に大小の刀を差した正装を見て、ごく自然に絨毯の上に正座し、深々と土下座をした。
「表を上げよ」

上野の言葉に従い顔を上げた富三郎は、あらためて顔を見て、その若さに驚いた。
「総代の牧野富三郎でございます。このたびは遠路の長旅、恐縮至極にございます。二名の犠牲者を出したオアフ島のコウラウ耕地からも代表者が参っております」
「嘆願書を書いたのはお前か」
「はい」
「今回のことは、明治政府も重く受け止めておる」
「明治?嘆願書は神奈川の役所宛に送っておりましたが、新政府の世の中になったのでございますか」
「そうだ。本年は明治二年になる。お前たちが出帆したのは明治元年ということだな」

彼らはざわざわと顔を見合わせた。富三郎を含め初めて明治の年号を聞いたからだった。
…………存じませんでした」
「我が国の国民が他国で不当な扱いを受けるのは、新政府として看過できるものではない。その判断が下って、使節の派遣となったのだ」
「ありがたきことにございます」

富三郎は再び深々と頭を垂れた。
「こちらの暦では年の瀬らしいが、早速、重要な接見を用意してくださるそうだ。お前たちの状況も事細かに調査しようと思っておる。采配は、富三郎に任せてよいのだな」
「はい、もちろんでございます。何なりとお申しつけ下さい」

面会を終えて離宮の外に出ると、コウラウ山脈の方角に虹が出ていた。石造りのヴェランダから庭に降りると、草が濡れていた。富三郎たちは緊張して雨音に気がつかなかったが、面会の間、夕立が降っていたらしい。

上野使節は、翌十二月二十八日にはハワイの外務大臣ハリスと公式に面会した。続いてアメリカ公使のピアースとも面会し、彼の配慮により、アメリカ公使館の書記が一人、使節の書記として任命された。

二月二十九日には、カメハメハ五世に謁見し、信任状を手渡した。

そして、暮れも押し迫った三十一日、上野使節は、外務大臣ハリスに二原則からなる要求書を手渡した。すなわち「日本移民をすべて日本に戻す」と「その一部、帰国希望の四十人程度はただちに帰国させる」という内容である。

仙之助編十四の三

日本の使節に対してのハワイ王国の待遇は手厚く、対応は懇切丁寧だった。

だが、上野節の要求はすぐには受け入れられなかった。まずハワイ側と対立したのが、ユージン・ヴァン・リードの立場だった。ハワイ王国が彼を駐日ハワイ領事に任命したことは紛れもない事実だったからだ。

これに対して、上野はハワイ王国が徳川幕府の時代に取り交わした任命は、明治新政府に対しては無効だと抗弁した。

次いで上野は、ヴァン・リードが政府の許可しない移民を独断で送った行為は不法行為であると問い詰めた。ハワイ王国は、徳川幕府がいったん許可をして、旅券も発行したことを強調した。さらにサイオト号の出航を許可したのは明治政府であることを突きつけた。

一方、上野は旧幕府から明治政府に日本の主権が代わったことを主張し、それにも関わらず、新政府からの新たな旅券の発給を待たず、うやむやのうちに出発したヴァン・リードの否を追究した。

上野は、富三郎の案内でコウラウ耕地にも出向いている。

コウラウ耕地の工場

実際に移民たちに会ってみると、帰国を懇願する者と、新しい環境に慣れて契約期間の満了までハワイにとどまって働くことを希望する者とがいることもわかった。

年長の代表者に混じって、マムシの市こと、石村市五郎が前に進み出て、最大の要求は給料を上げてもらうことで帰国することではないと上野に直訴した。

一年余りの年月で背丈も伸び、日焼けして筋骨たくましくなり、もはや少年の風貌ではなくなっていた。口が達者なのも拍車がかかってきた。耳学問で英語も操るようになり、ルナともめ事があると、交渉役をすることもあるという。
「一番難儀しているのは物価が高いことです」

物価の高さは上野自身も難儀していたので、なるほどと納得した。ハワイ王国は宿舎を提供してくれたが、それ以外の経費は自腹だった。対等な交渉を進めるためには、過度に相手国の温情に甘える訳にもいかなかった。

上野の説明によって、移民たちは初めて、幕府から新政府への政権の移行により、自分たちの旅券が失効してしまった事実を認識した。

富三郎は、ユージン・ヴァン・リードが肩書きを詐称した悪徳商人ではなく、旧幕府との正式な取り決めで駐日ハワイ領事に任命されていたことをあらためて知り、自分の思い込みを心の奥で恥じていた。ヴァン・リードを信じながら富三郎を糾弾もしなかった仙之助のふるまいには、今さらながら頭が下がる。旅立つ彼にどうしてもっと心ある言葉をかけられなかったのか、後悔の念が湧き上がっていた。

交渉は難航したが、一八七〇年一月十一日、ようやく合意にこぎつけた。

即時帰国を望む四十人の名簿をまとめると同時に、残留者の待遇改善と、契約内容に違反する事項の是正をハワイ王国に約束させた。さらに契約期限満了後の帰国希望者は、ハワイの費用で送り届けることまで承認させたのである。

仙之助編十四の四

ハワイ政府との取り決めの調印書には、上野景範使節の希望により、駐在の米国公使ピアースと、英国総領事 J・H・ウッドハウスが証人として署名した。約定が国際法とハワイの法律に抵触しないこと、またハワイ政府が承認したものであることを両者の合意の下に声明するためだった。

慎重な物事の進め方は、弱冠二十五歳の若き外交官の手腕であり、補佐役の三浦の緻密さのなせる技でもあった。電信や電話もなかった時代のこと、定期航路もない日本とハワイの間では文書のやりとりもできない。本省との確認もままならぬ状況で、彼らは自らの判断で最善の成果を成し遂げたのだった。

この取り決めをもって、違法渡航者とみなされた者たちは、歴史の闇に葬り去られることなく、正式に日本で最初の海外移民となったのである。

そして、彼らは元年者と称されることになる。

調印と声明の内容は、当事者である日本人移民たちにも広く知らされたが、これにもとづき牧野富三郎は、あらためて上野から移民頭として任命され、彼の任務をしたためた「覚書」が手渡された。

サイオト号で横浜を発った移民たちは、不運にも命を落とした四人を除くと総勢は一五一人だった。そのうち帰国希望者は四〇人であり、残り三分の二以上の者たちが残留を希望したことになる。

富三郎の責任は大きかった。これまでにもまして、移民たちの労働環境や生活状況を把握することが求められ、問題があればハワイの政府に直訴することとされた。月に一度は、オアフ島だけでなく、離島も含めた現地視察に赴くように定められた。
「今後のことは、くれぐれもよろしく頼んだぞ。お前だけが頼りだ」

頭を垂れて上野の言葉を心に刻んだ富三郎は、面を上げると神妙な表情で答えた。
「かしこまりました。精一杯お役目を務めさせて頂きます」

富三郎は、横浜を出発した時の沸き立つような気持ちが再び湧き上がるのを感じていた。仲間たちの相次ぐ死に直面し、目の前の出来事を解決することで精一杯だったが、状況が落ち着いてみると、異国に赴くことを切望した当初の感情がよみがえってくる。
「この島国は……、思いのほか、美しいところだな」

上野は、唐突に言った。
「炎熱下での労働が厳しいことは容易に想像がつくから、物見遊山のような物言いは憚れるが、朝晩に吹く風の心地よさと、雨の後に決まって空に出る虹の美しさは忘れられぬ」
「さようでございますね」

富三郎は、仙之助もこの風を愛したことを思い出していた。密航者として捕鯨船で太平洋を渡り、大変な苦労をしたに違いないのに、俊才の上野と同じように、自分の責務を全うしながら、ものごとの良いところを見抜く眼力を持ち合わせていた。移民たちのまとめ役は彼こそがふさわしかったのに、ここに仙之助がいないことが無念でならなかった。

仙之助編十四の五

一八七〇年一月二十日、重責を全うした上野景範使節の一行は、ホノルル港からサンフランシスコに向けて出帆した。桟橋には、富三郎以下、オアフ島在住の移民たちが集まって、恩人の帰国を見送った。

移民たちの送還は、彼らの書記に任命されたフーバーに一任された。

帰国希望者は四十人、ハワイ上陸後に生まれた二世の新太郎と、捕鯨船に助けられて、ハワイ在住だった漂流民の二人も帰国を希望し、一行に加わった。

何らかの理由で捕鯨船に乗った日本人がハワイに流れ着くことは仙之助以外にもあったことだったのだ。仙之助が彼らと違ったのは、英語を話す乗組員として、自らの意志で、ハワイまで来て下船し、再び自らの意志で、ハワイから捕鯨船に乗り組んだことだった。

総勢四十三人の日本人は、フーバーの計らいで、使節の帰国からほどなくして、ホノルルから直接、横浜に向かうR・H・ウッド号に乗船し、サンフランシスコ経由で定期航路に乗り継いだ使節一行より先に横浜に到着したのだった。

その後、サトウキビ・プランテーションでの待遇や報酬が格段に向上した訳ではなかったが、ほかの外国人労働者との待遇格差はあらためられ、大きな問題はなくなった。自ら残留したのは野心と順応性のある者だったことも理由と言えた。

最年少のマムシの市こと、石村市五郎はもちろん残留組のひとりだった。

彼らの働いていたコウラウ耕地のワイルダー・プランテーションは、オーナーの息子の事故死をきっかけに悪い噂がたったこともあり、上野使節の来訪からまもなくして経営が立ちゆかなくなり、廃業してしまった。だが、移民としての契約はまだ残っていたので、希望者は同じ元年者が入植していたマウイ島のハイク耕地に移ることになった。

一番に手をあげたのがマムシの市だった。

マウイ島は、捕鯨の基地として栄えたところでもある。ホノルル以前の首都であったラハイナは西マウイにあり、ハイクはそれとは反対の東マウイにあった。ホノルルから帆船で二昼夜かけて到着したのは、マリコ・ガルチと呼ばれる切り立った崖に囲まれた入り江だった。マムシの市たちは、そこから徒歩で目的地に向かった。

ハイク耕地は一八六一年から操業が始まったプランテーションで、コウラウ耕地にもまして、人里離れた寂しいところにあったが、工場には最新鋭の機械が設置されていた。ハワイで最初にサトウキビの精製に蒸気機関を導入したところでもある。

ハイク耕地

元年者の契約期間が終わる年、一八七一年に工場主として着任したサミュエル・T・アレクサンダーは、のちに合流するヘンリー・P・ボールドウィンと共にハイクをさらに発展させることになる。先見の明のあった彼らは、後に次なる産業として、ハワイで最初のパイナップル・プランテーションを切り拓き、缶詰の工場を建設した。

マムシの市は、ハイク耕地に入植していたウミウミ松こと、桑田松五郎という髭男とたちまち意気投合した。契約期間を勤め上げた後もハワイにとどまり、何か大きなことを成し遂げたい野心が、彼らを結びつけたのだった。

仙之助編十四の六

ウミウミ松と親しくなったマムシの市は、一旗揚げる元手を貯めるため、マウイ島のハイク耕地で懸命に働いていた。ところが、ある日、思わぬ事故に遭遇してしまう。工場の最新式の機械に彼の右足が挟まれてしまったのだ。
「うあーあ、ああーあ、い、痛い、痛い。助けてくれ」

必死の叫びが工場に響き渡った。
いち早く気づいたのがウミウミ松だった。
「エマージェンシー、エマージェンシー」

機転を利かせて、工場全体に緊急事態を知らせたおかげで、マムシの市は、危うく全身が巻き込まれる前に助け出された。

急死に一生を得たものの、骨折した右足は重傷だった。

幸いだったのは、上野使節が取り決めをかわした以降の事故だったことだ。工場長は、医者を呼んで手当を受けさせ、まもなく、ホノルルからも牧野富三郎が駆けつけて、工場内での事故であることから、休業中の生活保障を交渉した。

しばらくして、何とか動けるようなったが、サトウキビ・プランテーションの過酷な労働にはすぐに復帰できない。そこで、近隣で大工をしていたワーケン夫妻の家で料理人として雇ってもらうことになった。

もちろん、マムシの市に西洋料理の心得などない。だが、コウラウ耕地で仲間が亡くなった後、富三郎と仙之助がしばしば訪ねて来ていた頃、スクールボーイの経験がある仙之助から西洋料理の基本を教わったことがあった。当時はそれを職業にすることなど、考えもしなかったが、持ち前の好奇心の強さで興味を持った。料理を覚えれば、手に入る材料で少しでもましなものを食べられるという思いもあった。コウラウ耕地の中国人コックが作る料理は油臭さが鼻をついたが、仙之助が作る西洋の卵料理は美味しかった。

ワーケン夫妻の話は富三郎を介して持ち込まれた。
「下働きならともかく、いきなり料理人は難しかろう」

難色を示す富三郎に、マムシの市は食い下がった。
「大丈夫です。仙太郎さんから西洋料理の手ほどきを受けています。たいしたものは作れませんが、朝食の卵料理なら任せて下さい」
「仙太郎……、そうか。あいつから習ったのか」

一時期、ホノルルで同居していた頃、朝になると西洋式の卵料理をよく作ってくれたことを富三郎は思い出した。
「仙太郎仕込みなら、まあ、なんとかなるか」
「はい、大丈夫です。ぜひお願いします」

マムシの市としては、プランテーションの労働に戻るより、住み込みの料理人になれるほうがずっといいと思ったのだ。もっとも、これが彼の人生を決定づける出来事になるとはこの時はまだ、予想もしていなかった。

仙之助編十四の七

一八七一年六月、元年者たちがハワイに上陸して三年の月日が経った。

契約満了の日が近づくにつれ、その後も日本に帰国せず、ハワイに残りたい、あるいはアメリカ本土に渡りたいという声があがるようになる。上野敬介景範使節の来訪後も残留を希望したのは、環境にも順応し、意気盛んな者たちだったから当然のことだった。

牧野富三郎は、これらの要望をとりまとめ、ハワイ滞在許可とアメリカ渡航許可を日本政府に申請した。上野の交渉当時には契約満了後は全員帰国が原則だったが、この頃は日布通商条約の締結を控えていたこともあり、ハワイ残留もアメリカ渡航も本人の希望次第と認められた。牧野を通して旅券申請が行われ、四三人がハワイ滞在の、四六人がアメリカ渡航の旅券を手にしたのだった。

マムシの市こと、石村市五郎は旅券を渡されると小躍りして喜んだ。

骨折した足の負傷も癒え、料理人としての腕も上げ、大工のワーケン夫妻にもすっかり気に入られていた。彼の気持ちとしては、もはや帰国など考えられなくなっていたからだ。
「富三郎さん、ご尽力ありがとうございます。これで何でもできますね」
「そうだな、大手を振ってハワイに滞在できる。仕事の調子はどうだ?」
「はい、順調です。どんな西洋料理だって作れますよ」
「そうか。それは頼もしいな。得意料理は卵料理か」
「お前の作るオムレツは一級品だと褒められますが、それだけじゃありません。仙太郎さんが教えてくれたもうひとつの料理も好評です」
「もうひとつの料理?」
「ステーキパイです」
「それは聞き覚えがないな」
「仙太郎さんがスクールボーイとして住み込んだ家のご主人の好物だったそうで、肉とタマネギを炒めてパイで包んだ料理です。ワーケン夫妻も、懐かしい味だと褒めて下さいました。仙太郎さんのご主人と同郷なのかもしれませんね」
「仙太郎は……、たいした奴だったな」
「私にとっては恩人です。仙太郎さんの手ほどきがなかったら今の私はありません。達者でおられるのでしょうか」
「無事に帰国していればいいが……

富三郎は自分自身に問いかけるようにつぶやいた。

酒場で船員らしき男たちを見るたびに仙之助のことを思い出す。

とりわけ捕鯨船の出入りが頻繁になるクジラの季節になると、無意識のうちに仙之助が乗船したクレマチス号を探していて、はっと我に返ることがあった。

そんなある日のこと、富三郎のもとにひとりの船員が訪ねてきた。

アジア系の顔をしているが、日本語を話す訳ではない。中国人なのだろうか。

片言の英語で、富三郎の名前と住所を確認すると、握りしめていた封書を手渡した。

仙之助編十四の八

謎の船員がドアを叩いた時から、富三郎の胸には「もしや」という期待があったが、封書の表書きを見た途端、心臓の鼓動が高鳴った。
「牧野富三郎殿」

英語の住所と名前の下に黒々とした毛筆で、見慣れた筆跡の日本語が記されていた。

手紙を受け取る牧野富三郎

クジラの季節はもう終わっている。

富三郎が怪訝そうに顔を覗き込みむと、アジア系の男は言った。
「ヨコハマから、マーチャントシップ(商船)できた」
「そうか、そうか。横浜で手紙をことづかったのか」
「ホノルルに行くと言ったらこれを渡してくれと頼まれた。お前がこの男か」
「そうだ」

富三郎の返事を聞くと、男はにやりと笑った。

待ちに待った仙之助からの便りだった。

はやる気持ちを抑えながら手紙の封を開けた。薄汚れた封筒がここまでの長い道のりを物語っていた。

牧野富三郎殿
クレマチス号で小笠原諸島を経由して無事横浜に到着した。
私も父上の粂蔵旦那も達者でおるので安心してほしい。
横浜の遊郭は豚屋火事の後、吉原町に移転し、岩亀楼と神風楼は再建をなした。今や神風楼は、岩亀楼と肩を並べる大店である。
それと言うのも父上が異人の客を岩亀楼だけが独占するのはいかがなものかと注進したからだった。以来、どの店でも自由に異人の客をとることができるようになり、神風楼もおおいに繁盛している。
お前の尽力により日本から使節が派遣され、万事交渉が上手くいったことは聞いた。あらためてお前の手腕には感心しておる。
まもなく移民の契約満了を迎えるが、その後の身の振り方はどうするのか。
帰国するのか、ハワイにとどまるのか。帰国するのであれば、ほどなく再会できるだろうが、そうでないのなら、お前の便りがほしい。
横浜に戻ったら、幕府の時代は終わり、新しい明治の時代になっていて驚いた。
神風楼には異人のほか、新政府の高官もやってくる。父上は彼らとも親しく交わり、新しい時代の行く末を見ている。
横浜の港に捕鯨船が入港するたび、再び乗船したい衝動にかられる。だが、鯨捕りになるのが、私の人生の目的なのかどうかもわからない。
しばらくは横浜にいる。お前の便りを待っている。

明治四年三月 山口仙之助

仙之助編十四の九

仙之助の手紙を読み、富三郎は目頭が熱くなるのを感じていた。

まずは無事で元気でいることがうれしかった。

手紙が届いたことも奇跡だったが、仙之助が自分に手紙をくれたことが富三郎はうれしくてしかたなかった。しかも文面に別れ際のわだかまりを感じさせるところは微塵もない。
「仙之助……、お前って奴は」

富三郎はいてもたってもいられなくなった。

日付は月だけが記されていた。日本語で書かれているので旧暦なのだろうか。新暦とすれば三ヶ月、旧暦であれば二ヶ月を要したことになる。横浜に着いたのがいつだったのか、すぐに書いた手紙なのか、そのあたりのことはよくわからない。

仙之助に返信を出さなければ。

捕鯨船の入港がない季節、横浜に直接向かう船は限られていた。あの船員が乗ってきた商船が再び横浜に行かないだろうか。

富三郎は慌てて、ダウンタウンの表通りに出た。

左右を見回したが、謎の船員の姿はもうなかった。

港の方向に向かって富三郎は走った。ヌウアヌ通りの峠の方角に行くはずはない。

返信を書いていないどころか、自分自身の身の振り方を決めた訳でもなかったが、とりあえず手紙を託す算段をしておきたい。富三郎は必死だった。

手紙を届けてくれた船員の姿は見つけられないまま、富三郎は港の桟橋に立ち尽くした。

すると、目の前に停泊している船の甲板にあの船員が立っているではないか。
「ハロー。ハロー」

相手の名前も聞いていなかった富三郎は、闇雲に大声で叫んだ。

すると、声に気づいた船員が富三郎のほうを向いて、にやりと笑って手をふっている。
「お前の船は、ホノルルを出港してどこに行く?」
「サンフランシスコ」

返事を聞いて、富三郎は落胆した。

肩を落として、桟橋を離れようとした時、ふいに背中を叩かれた。

船を降りてきた船員が、またにやりと笑っている。
「横浜に手紙を届けたいのか」
「そうだ。でも、お前の船はサンフランシスコに行くのだろう」
「サンフランシスコで荷を積み下ろしたら、また横浜に向かう」
「本当か?」
「船長がそう言っている。手紙があるなら預かっていく。お前への手紙を渡した男の居場所はわかっている」
「出港はいつだ?」
「今夜だ」

仙之助編十四の十

富三郎は、直ちに仙之助への手紙を書くことを決意して、港を離れた。

移民たちの契約終了後、富三郎にも彼らと同じ選択肢が与えられていた。すなわち、このまま帰国するか、ハワイにとどまるか、アメリカに渡航するかのいずれかである。

ハワイに来てからの日々は、困難な出来事も多く、苦労も多かったが、自分なりにそれらを首尾良く乗り切った自負もあった。仲間の死に遭遇し、労働に慣れない者たちを帰国させるまでが無我夢中だったが、こうして一段落してみると、あらためて異国に来ることができた喜びは大きかった。

富三郎は身の振り方をまだ決めかねていた。だが、ここで帰国するという選択肢はない、と考えていた。あとはハワイに残るか、アメリカに新天地を求めるかである。

マムシの市こと、石村市五郎は、契約終了後は、同じマウイのハイク耕地で働く数名の者たちとホノルルに出て仕事を見つけると張り切っていた。

事故がきっかけで偶然、身につけた料理の腕前で身を立てようと目論んでいるらしい。

富三郎は、あらためて自分はハワイで何を身につけたのだろうと考えた。

総代として、移民たちをとりまとめた自負はあるが、ことさらに身を立てるほどの技能が身についた訳ではない。英語も日常の意思の疎通に問題がない程度には上達したが、学校に通うこともなかったので、読み書きはままならず、仙之助ほどの語学力は身についていない。

帰国しないのなら、まだ多少は勝手のわかるハワイにいた方がいいのかもしれない。

富三郎は、机の前で逡巡していた。

遅い昼食を簡単にすませると、思い立ったように筆をとった。

山口仙之助殿
無事に帰国された由、何よりのことと喜んでおります。
ご丁寧な手紙を頂戴し、感激至極にございます。
神風楼の繁盛ぶりも我がことのように嬉しく拝読致しました。
お陰様で、私は達者にしております。早いもので契約満了の日が近づいてきました。
その後は、四三名がハワイでの残留を希望し、四六名がアメリカ渡航を希望し、それぞれに旅券の手配を致しました。
アメリカに渡航を希望する者が多いのは、サンフランシスコで銀の鉱山が見つかり、労働者が求められているとの噂を耳にしたからです。一旗揚げるとみな意気軒昂です。
彼らを見送った後、私もサンフランシスコに渡航する所存です。
彼の地で仙之助殿と再会できるのならば、これほどの喜びはありません。
サンフランシスコに到着したら、また便りを致します。
粂蔵旦那にもよろしくお伝え下さい。

牧野富三郎

仙之助編十四の十一

富三郎は、したためた手紙に封をすると、再び港に急いだ。

ダウンタウンの通りに出ると、強い風が吹いていた。

帆船の航海にはいい風だ。今夜の出港とは言っていたが、船長の気まぐれで早い出発もあるかもしれない。

息を切らして埠頭に辿り着くと、あの商船は午前中と同じところに停泊していた。

富三郎は、中国人船員に名前を聞き忘れていたことを思い出した。

しかたがない。また大声で叫ぶしか無かった。
「ハロー、ハロー」

欧米人の船員が甲板に姿をあらわし、怪訝そうな顔で富三郎を見た。
「チャイニーズの船員を呼んでくれ」

富三郎が叫ぶと、わかったという表情をして船室に姿を消した。

しばらくして、ようやく、あの船員が甲板に出てきた。
「手紙を持ってきた。横浜の、お前が手紙を受け取ったところに渡してくれ」

富三郎は、そう言って手紙を渡した。
「大丈夫か」

不安げに問いただすと、船員は言った。
「大丈夫だ。確かに手紙は預かった。ジン……、ジンプー」
「ジンプーローだ」

そう返すと、船員は、にやっと笑って言った。
「ジンプーローにはいい女がいる」

その言葉に富三郎は、手紙は間違いなく届くと確信した。

粂蔵が再興した神風楼は、船員たちに人気の店になっている。手紙があろうが、なかろうが、彼らは神風楼に行くに違いない。

富三郎は、記憶の中にある、火事で焼ける前の神風楼を思い出していた。

繁盛しているのなら、横浜に帰る選択肢もあったのかもしれない。手紙を渡せる機会を失いたくなくて焦って決断したのは、最も困難な道だった。だが、富三郎は、仙之助の手紙の行間に、再び未知なる世界に飛び出したくてうずうずしている彼の本意を読み取っていた。

ハワイへの渡航を決めた時と同じように、また彼に背中を押された気がしていた。
「サンフランシスコか……

富三郎は、思わず空を見上げた。

そして、独り言をつぶやいた。
「サンフランシスコで、仙之助と一旗揚げるか」

契約満了後の移民たちにアメリカへの渡航希望者が多いことも、背中を押されたもうひとつの理由だった。サトウキビプランテーションでは稼げる金はたかが知れている。ホノルルよりも、いっそのこと新天地で夢を追いかけたい者が多かったのだ。

仙之助編十四の十二

サンフランシスコの繁栄は、一八四八年にカルフォルニアのサクラメント郊外のコロマで金が発見されたことに端を発する。西部開拓史上最大の出来事、カリフォルニアのゴールドラッシュである。金鉱発見のニュースはたちまち世界に知れ渡った。

発見の翌年、一八四九年に一攫千金を夢見てカリフォルニアに集まった人たちを「フォーティーナイナーズ」と呼ぶ。サンフランシスコの人口は、四八年の千人からわずか一年で二万五千人にまで増えた。

東部のマサチューセッツ州にいたジョン万次郎もゴールドラッシュの噂に興奮した一人だった。日本に帰国するための資金を稼ぐ好機と考えたのだ。一八五〇年、遅ればせのフォーティーナイナーズとしてカリフォルニアにやって来た。

一八五〇年までに、容易に採掘できる金は掘り尽くされた。金の供給量の増大により、金の価格が暴落。まもなく熱に浮かされたブームは終焉する。

だが、ゴールドラッシュによって、未開の地だった西部が注目されたことは歴史を動かした。一八五〇年にカリフォルニアは州となり、アメリカは西海岸のその先にある太平洋に目を向けるようになり、新たな外交政策が始まった。ペリーの黒船来航も、遠因はゴールドラッシュだったことになる。

カリフォルニアの人口増加は、西部と東部を結ぶ交通網の発展にもつながった。一八五五年には後のパナマ運河につながるパナマ地峡鉄道が開業。一八六九年には大陸横断鉄道が開業した。

一八七〇年のサンフランシスコは人口十五万人の都市になっていた。

サンフランシスコの港

ゴールドラッシュの熱を帯びた時代は過去のものだったが、一八五九年に隣接するネバダ州バージニア山脈の東斜面コムストック・ロードという銀鉱山が発見され、再びの興奮がカリフォルニアにももたらされた。

ハワイの移民たちが聞きつけた噂とは、この銀鉱山である。

ゴールドラッシュのフォーティーナイナーズたちのように川で砂金を集めて、それが金になるような一攫千金の話ではなく、単に鉱山労働者が求められていたのだが、カリフォルニアと言えばゴールドラッシュが有名だったから、遠いハワイにいた彼らが銀鉱山の話をその再来と考えたとしても無理はない。

アメリカ本土への日本人移民は、一八六九年に戊辰戦争に敗れた会津藩士たちが、会津藩と商売をしていたジョン・ヘンリー・スネルと共にカリフォルニアに渡った者たちが最初とされる。茶の生産などを行った入植地は、彼らの故郷、会津若松市にちなんで「若松コロニー」と呼ばれた。

ハワイから渡航した元年者たちは、彼らに続くアメリカの日本人移民ということになる。もっとも契約終了していた彼らは、組織だって行動することはなかった。

富三郎がサンフランシスコ行きを決めたのは、意気軒昂な彼らに背中を押されたのと同時に、彼らの行く末を案じたこともあった。

仙之助編十五の一

山口仙之助を乗せた捕鯨船、クレマチス号が横浜に寄港したのは、西暦の一八六九年の晩秋、旧暦では明治二年の暮れ近くのことだった。

明治政府になってから、幕末の混乱期より入国審査が厳しくなっているのをダニエル船長は承知していたので、東京湾の入り口、三浦半島の観音崎沖に入った頃から、仙之助は船底の船室に留め置かれた。万が一のため、積み荷に見せかけるための麻袋を被って、仙之助は息を殺しながら、甲板に駆け上がっていきたいのを我慢していた。

十六歳で密航してから二年余り、実に二年ぶりの帰国だった。

入港後も港のざわめきを遠くに聞きながら、なおも船室で息を殺した。

ホノルルの時と同じように、目深に帽子を被って上陸したのは、夜遅くのことだった。

上陸直前、ダニエル船長は、船底の船室にやって来て、何も言わずに仙之助を抱きしめた。
「ジョンセン、私の息子……

耳元で小さくささやいた。
「息子……
「そうだ。お前のことは、私の息子のように思っている。この広い太平洋で、二度までも、偶然お前と巡り会い、同じ船に乗った」
「船長との出会いがなければ……、私の運命は開けませんでした」
「お前と会えてうれしかったぞ」
「私もうれしかったです。特に……、ホノルルでの再会は夢のようでした」
「そうだな。だが、さすがに、もう会うことはないだろう」
「はい……

仙之助はしんみりとした表情でうなずいた。

心のどこかに、いつまでもクレマチス号で航海をしていたい気持ちがあった。だが、捕鯨船の乗組員が、自分の将来を賭けてやりたいこととは思えなかった。
「今度、海を渡るときは、堂々とお日様の当たる時間に入港できる身分で行け」

そう言われて、仙之助は思わず笑った。
「二度も密航者の面倒を見て下さり、ありがとうございました」
「ハハハハ、まったくだ。二年ぶりで、こんな真夜中に自分の家の方角がわかるか」
「キャビンボーイのマイクが一緒に行ってくれるそうです。ジンプーローならよく知っているそうです。馴染みの女がいるとかで」
「そうか、そうか。そうだったな。ジンプーローは有名だ」
「はい、おかげさまで」

仙之助の返答にひとしきり笑った後、ダニエル船長は真面目な表情で言った。
「幸運を祈る」

ダニエル

そして、抱擁を解き、ぽんと突き放すように背中を押した。

仙之助は、そのまま振り返ることなく、船室のドアを閉めた。

仙之助編十五の二

二年ぶりの神風楼は、何もかもが変わっていた。

仙之助がクレマチス号で出帆したのは、豚屋火事からの復興前だったから、吉原町遊郭に再建された新しい神風楼への道のりは、一人ではわからなかったに違いない。

以前は岩亀楼が異人客を独占していたので、馴染みの客がこっそり通ってくるだけだったが、明治維新の年に粂蔵が役所にはたらきかけて神風楼でもおおっぴらに異人客をとれるようになってからは船員たちにも人気の店になっていた。

だが、なにより驚いたのは、家族が増えていたことだった。

養父の山口粂蔵の故郷、下野国の石橋から呼び寄せられ、養女になった女性だった。

仙之助の四歳年上の二二歳、名前をトメといった。

粂蔵に紹介されたトメは、居住まいを正すと仙之助に挨拶をした。
「はじめまして。トメと申します。あなたが捕鯨船に乗って天竺に行っていたっていう、噂の仙之助さんだね。ご無事にお帰りになられて本当に良かった」

何とも妖艶な美人だった。地味な小紋の普段着なのに、パッとあたりを華やかにする雰囲気がある。年齢以上に年上に見えるのは、物怖じしない態度のせいもあるのだろう。

22歳のトメ

「は、はじめまして」

押し出しの強さに気圧されながら仙之助は返事をした。
「一人で異国に行くなんて、どんな屈強なお方かと思いきや、こんな細面の美男子とは、驚きました。さぞかし異国でも、おもてになったでしょう」

仙之助が返事に窮していると、粂蔵が制して言った。
「年下の仙之助をあんまりからかうものじゃないぞ、トメ」

そう言いながら、粂蔵は上機嫌に笑っている。

トメのこうした世慣れたところが、粂蔵は気に入っているのだろう。遊郭の女将として、うってつけといえた。まだ横浜に来て日が浅いのに、店の采配にも腕をふるっているという。

粂蔵には実の娘も二人いて、長女はテツ、次女はヒサといったが、二人ともまだ年若く、遊郭を取り仕切るような才覚は感じられなかった。

粂蔵がトメに目をつけて横浜に呼び寄せたのは、時代の潮目にあって、商売のさらなる拡大を目論んでいたからでもあった。

大政奉還から二年、明治という新しい時代がようやく輪郭をあらわそうとしていた。

人々の生活は、江戸時代と変わらなかったが、政府の中枢では、近代化に向けての動きが始まっていた。中心となったのが伊藤博文と大隈重信を中心とする改革派だった。

なかでも当面の大事業とされたのが鉄道の敷設だった。

全国に鉄道を敷く計画の手始めとして、新橋・横浜間の建設が決定したのが明治二年の十二月。まさに仙之助が帰国した時期にあたる。

技術と資金を援助したのはイギリスだった。鉄道は反対派も多く、伊藤と大隈は暗殺の危機さえあったと言うが、駐日公使ハリー・パークスの援助により計画は進められた。

仙之助編十五の三

横浜で鉄道敷設にいち早くかかわったのが、高島たかしま嘉右衛門かえもんだった。

もとは江戸の材木商だったが、佐賀藩の家老と縁があり、伊万里焼を扱う商売を持ちかけられ、開港地まもない横浜にやって来た。商売はすぐに軌道に乗ったが、日本と外国の金銀の交換比率の差に目をつけた闇取引に手を染め、投獄される。

嘉右衛門を名乗るようになったのは出獄後のことである。

横浜に戻り、再び材木商になり、異人館の建設を次々と任され、莫大な富をなした。その資金で始めた商売が旅館業だった。

関内の尾上町にあった高島屋は、威風堂々たる豪華な建築で、履物を履いたままで入館する和洋折衷の設えが目を引いた。旧幕臣の娘たちや大奥で仕えていた女中を集め、一流の礼儀作法と立ち居振る舞いで客をもてなした。商人宿しかなかった横浜で、高島屋は、たちまち政財界の大物や異人が集まる社交場として人気を博するようになる。日本人が手がけた最初の「ホテル」と言ってもさしつかえなかった。

さらに嘉右衛門には、もうひとつの武器があった。易の知識に秀でていたのである。

政財界の大物たちは、こぞって嘉右衛門に未来を占ってもらおうとした。一方の嘉右衛門も易で人相を見て、見込みのある人物には積極的に近寄った。

その見込んだ一人が、鉄道敷設を推し進めることになる伊藤博文だったのである。

嘉右衛門は、自身の所有していた神奈川の青木橋から野毛の富士見橋までの湿地を埋め立てて、鉄道敷設の用地とすることを伊藤と大隈に持ちかけた。

新橋から横浜まで、日本で最初の鉄道は、全線二九kmのうち約十km、すなわち三分の一が海上に敷設された線路だった。嘉右衛門の土地もその一部になる。

この時、埋め立てた土地が、彼の名前をとって、後に高島町と呼ばれることになる。

だが、鉄道用地となったのは、埋め立て地の一部にすぎなかった。

嘉右衛門は残りの土地も他の用途に使い、利益を上げる心づもりがあった。

まず思いついたのは農地にすることだったが、海岸沿いの潮を含んだ土壌は農地には適していなかった。そこで嘉右衛門は、遊郭を誘致することを思いつく。

唐突なようだが、開港地にとって、遊郭は重要な商売とみなされていたのである。

豚屋火事の後、吉原町に再興した遊郭を移転させる計画はあったが、候補地にあがっていたのは、中心地から離れた辺鄙な界隈だった。埋め立て地を遊郭とする許可はおりなかった。

そこで、嘉右衛門は、二大遊郭であった岩亀楼と神風楼に先に声をかけることにした。彼らが候補地に大店を構えてしまえば、既成事実になると考えたのである。

嘉右衛門から声をかけられた粂蔵が浮き足立ったのは言うまでもない。

二大遊郭とみなされたことも誇らしかったし、岩亀楼に肩を並べる大店としての名声をゆるぎないものにするまたとない機会だと心が躍った。

早速、新しく普請する店の詳細を詰めるため、粂蔵は嘉右衛門と面会する段取りをとりつけたのだった。

仙之助編十五の四

高島嘉右衛門の営む旅館、高島屋は威風堂々たる造りの日本建築だった。

玄関を入ると、品の良い女中が出迎えてくれ、履物のまま入るように促された。粂蔵と仙之助が案内されたのは、西洋館を思わせる内装の応接間だった。

まもなく、主人の嘉右衛門が入ってきた。

面長の細面で眼光鋭い男だった。

高島嘉右衛門

ひとしきり粂蔵と仙之助を嘗め回すように見ると、居住まいを正し、椅子に座った。

人を見抜くことにただならぬ眼力があると聞いてはいたが、噂どおりの人物らしい。
「神風楼さんだね。ようお出で下さった。最近のご繁盛ぶりは噂に聞いておりますよ」
「恐縮でございます。私は当主の山口粂蔵、こちらは養子の仙之助です」
「はじめまして。お目にかかれて光栄です」

仙之助は、嘉右衛門の眼力に負けまいと、目線をあわせて挨拶をした。
「ほほう、賢そうな跡取りではないか。西洋人のような挨拶をするのだな」

唐突に言われて、仙之助は困惑して返事に窮した。
…………
「人の目を見て挨拶をするのは、西洋人の作法であろう」
…………
「異国には行ったことはないが、異人の商人たちとは、さんざん商売でやりあった。あいつらと対等に話をするには、目を見て話をすることが肝心だ。お前、ずいぶん若いのに彼らの作法が身についているとは。さては、洋行帰りか」
「あ、いや……
「私は獄に入ったこともある。何も隠すことなぞない。さては、密航か」

いきなり図星を当てられて、仙之助はさらに困惑した。
「は、はい」
「ハハハハ、そうか、そうか。維新の前は、異国に行くのはご禁制だったのだから仕方あるまい。薩摩や長州のお偉いさんたちも密航したのだからな。お前は、密航してどこに行ったのか。パリーか、ロンドンか」
「いや、パリーやロンドンのことは存じません」
「では、メリケンか」
「いえ、メリケンでもなく……
「いったいどこに行ったのだ」
「捕鯨船に乗りました」
「ほほう、捕鯨船か。確かに横浜の港にはたくさん寄港している」
「メリケンの捕鯨船で、船長もメリケンのお方でしたが、ロシアの北方のカムチャッカ沖で漁をした後、ハワイで下船しました」
「ハワイ……、維新前にあやしい異人が天竺だと称して人集めをしていたところか」

仙之助編十五の五

嘉右衛門の言葉に仙之助の表情が変わったのを察した粂蔵が答えた。
「仙之助が捕鯨船に乗る手はずを整えてくれたのはヴァン・リードさんでした。人集めをしていたという異人でございます。噂はいろいろありましたが、悪い人ではございません。移民団の総代になったのも手前どもの番頭です。仙之助は少し英語を話しますので、一足先にハワイに行って、番頭と移民たちを助けてほしいと言われたのです」
「ほお、番頭も天竺に行ったのか」
「はい、そうです」
「神風楼さん、あんたらは面白いな」
「はあ、ありがとうございます」
「長州の伊藤さんから密航話を聞いた時のことを思い出すな」
「伊藤さんとは」
「長州出身のお役人じゃ。あれは偉くなるぞ」

しばらく聞き役にまわっていた仙之助が身を乗り出してきた。
「そのお方も密航されたのですか」
「ああ、そうだ。長州藩から派遣された密航留学生だった」
「どちらに行かれたのですか」
「イギリスの商人が手引きをしたと聞いているからイギリスでないのか」
「ロンドンですか」
「そうだな。お前は、まだ異国に興味があるのか」
「はい、私は……、ハワイしか知りません。大層美しい島で、王様にもお目にかかり、得がたい体験をしましたが、あとは鯨を追いかけるばかりでした」
「伊藤さんが欧米に使節団を送る予定があると話していたな」
「使節団……、ですか」

政府の使節団の話に自分と何の関係があるのか、よくわからずに仙之助は戸惑った。
「目端の利く者は何とか一員に加わろうと画策しているようだ。従者になるとか、いろいろ方法はあるのだろう」
「そうですか」
「お前も行きたいか」

嘉右衛門の突然の申し出に仙之助は驚いた。
「えっ、今なんて」
「捕鯨船にたったひとりで乗り込むような勇気のある者は、そうはいまい。お前のような者が同行すれば、面白いことになりそうだな」
「私が、ですか」

嘉右衛門は、鋭い眼光で仙之助を見ると、真面目な顔で言い放った。
「お前は……、異国とつながる事業で成功する相を持っている」

仙之助編十五の六

言葉の意味を掴みかねたような表情をしている仙之助を尻目に嘉右衛門は言った。
「ところで、神風楼さん、店を移転する話は承諾してくれるのだろうね」
「もちろんでございます。今日は店の普請のご相談に参った次第です」
「そうか、そうか。神風楼が先に普請を始めたら、岩亀楼も黙ってはおるまい。普請の相談とはどういうことか」
「はい、このたびの新しい店は西洋館の設えにしたいと考えております。異人館の普請にお詳しいと聞きましたので、腕の良い棟梁など、ご紹介頂けたらと思いまして」
「ほう、異人館の遊郭か。異人相手の商売に本腰を入れるのだな」
「はい。英語の看板も掲げて、世界中から異人が押し寄せる店にしたいと思っています」
「頼もしいな。棟梁と資材のことは任せておけ」
「ありがとうございます」
「仙之助を異国にやるのも、商売のためなのか」
「はい、それもあります。当主が英語を話し、異人の商売の流儀に長けておれば、この先、神風楼の商売をもっと手広くすることも出来ましょう。ですが、本人の気持ちも大きいです。捕鯨船で苦労もしたはずなのに、おかしな奴です」
「おかしいとは思わんぞ。顔に相が出ているのだから、こいつの運命なのだ」
「そのようなお言葉を聞くと、ますますもって仙之助をまた異国にやらねばなりませんね」
「よし、伊藤さんにかけあってみよう」
「政府のお偉い方にそんなお願い事が出来るのでしょうか」

嘉右衛門は、自信満々の表情で言った。
「伊藤さんは、私に借りがあるのだよ」
「どういうことですか」
「鉄道敷設の話を最初に持ち出したのは私だからだ。密航して異国に行ったお方だから、鉄道のことはわかっておられたと思うが、時期尚早と尻込みしていた。ならば、私が資金を工面すると話したのだよ」
「ご自分で鉄道事業を始めようとされたのですか」
「そういうことになりますな」

嘉右衛門は悠然とした表情でにやりと笑った。
「でも、このたびの鉄道敷設は……
「さよう、政府の事業です。私が異人の資本家に資金提供の話を取り付けたことを知って慌てたのだね。私が交渉した異人にかけ合って先に契約を結んだのです」
「でも、それでは……
「そう、私が出し抜かれたことになる。でも、それでいい。だからこそ、彼らは私の言い分を聞くのですよ。そういう力関係にこそ価値がある。借りがあるとはそういうことだよ」
嘉右衛門は、これ以上、面白いことはないという表情で高らかに笑った。

仙之助編十五の七

明治三年の秋、鉄道敷設のための埋め立て地に新しい神風楼が竣工した。

高島嘉右衛門の鶴の一声で、異人館の建設に経験のある横浜の大工が全て駆り出され、突貫工事で完成したものだった。

寺社建築を思わせる大きな瓦屋根が載った三階建ての壮麗な建築で、三階部分には洋館らしい上げ下げ窓が取り付けられていた。特徴的なのは二階部分で、ぐるりと巡らされたバルコニーは、当時の洋館建築によく見られたコロニアルベランダ様式を思わせると同時に、遊女たちがずらりと並んで顔見せをする場所にもなっていた。

夜の帳が下りると、バルコニーに吊された照明器具に灯りが灯され、遊女たちの白い顔を照らし出した。透かし模様が施されたバルコニーの囲いからは、遊女の着物の色が透けて見え、この世のものとも思えない妖艶な雰囲気を醸し出した。

高島町の神風楼

神風楼の噂は、たちまち外国人居留地にも広がり、連日、内外の客で賑わった。

山口粂蔵が特異満願になったのは言うまでもない。

まもなくして、岩亀楼の普請も始まった。

埋め立て地に遊郭を移転しようとした高島嘉右衛門の目論見は見事に実現したことになる。やがて埋め立て地は、高島町と呼ばれるようになった。

大蔵省少補の役職にあった伊藤博文が神風楼にやって来たのは、竣工間もない頃のことだった。

伊藤はこの年、ちょうど三〇歳。木戸孝允や大久保利通より十歳ほど年は若かったが、明治政府の中枢で頭角を現し始めていた。鉄道敷設はもとより、維新直後の政治改革に大きくかかわっていた。

また伊藤は、好色で、無類の女好きとしても知られていた。

妻の梅子は元芸者の絶世の美人で、一目惚れした伊藤が前妻を離縁して夫婦になったものだが、結婚後も伊藤の女遊びがおさまることはなかった。高島が伊藤と神風楼を結びつけるのは容易だと思ったのは、そうした彼の性癖を見抜いていたからでもあった。

伊藤の来訪には、トメが女将として応対に立った。
「このたびはようこそお越し下さいました。女将のトメにございます。今後ともご贔屓頂ければ幸いでございます」
「ほほう、噂に違わぬ豪奢な造りではないか。高島さんがぜひと言うことだけのことはある。遊郭も文明開化ということか」

伊藤は、そう言って上機嫌に笑った。
「お褒めにあずかりまして恐縮にございます。横浜は居留地がある土地柄でございます。相応の館でなければと、主人の肝いりで普請致しました」
「そうか、そうか」

トメは如才なく、伊藤に店で一番人気の遊女をあてがった。

早速、女の腰に手を廻した伊藤の姿に安堵して、座敷の障子をしめた。

仙之助編十五の八

仙之助が再びの海外渡航を希望していて、伊藤という若い役人が何らかの便宜を図ってくれる可能性があると高島に言われたことをトメは粂蔵から聞いていた。

だが、遊びに来ている客にいきなり頼み事をする訳にもいかない。

まずは、伊藤に神風楼を気に入ってもらい、親しくなることが先決と考えた。いずれにしても神風楼に政府高官の客がつくのは願ってもないことだった。

トメは頃合いを見はからって、座敷に酒と料理を運んだ。

遊女の膝枕で寝ている伊藤を見て、トメは慌てて障子を閉めようとしたが、そのまま入るようにと手招きをされた。
「おハルは、メリケンの言葉を話すのだな」
「はい、以前におりました女郎で、贔屓の異人がいた娘から教わったと聞きました」
「神風楼は、以前から異人が多いのか」
「もともとは、横浜で異人の客をとるのは岩亀楼だけと決まっておりました。維新の年に主人がお上にかけあって、正式に異人の客をとれるようになりまして、異人さんにも贔屓にして頂いております。おハルにメリケンの言葉を教えた女郎が贔屓だったのは、なんでも、こっそり通ってこられた日本語の達者な異人さんだったと聞いております」
「ほう、そうか。メリケンに出発する前に、こんなところで言葉の稽古が出来るとは思わなかったぞ。神風楼は高島さんの言うとおり、面白い店だな」

伊藤は豪快に笑った。

トメは、そのひと言を聞きのがさなかった。
「メリケンにいらっしゃるのでございますか」
「そうだ」
「大勢でいらっしゃるのですか」
「ほほう、女将も異国に興味があるのか」
「横浜で商売をしていれば、異国は身近なものです。興味はございます」
「女将も行ってみたいか」
「はい、もちろん」

トメはそう言って笑った。
「徳川の世が終わって、海を渡ることは禁制ではなくなったからな」
「ご出発は近いのですか」
「おいおい、ずいぶんと興味があるようだな」
「神風楼で壮行会でも催して頂ければと思いまして」
「そうだな。あいにく出発が迫っているのだが、検討しておこう。何しろ横浜だからな。出航の前日だって、かまやしないな」
「もちろんですとも。出航はいつでいらっしゃいますか」
「十一月十二日だ」

仙之助編十五の九

明治三年、旧暦の十一月十二日、アメリカの太平洋郵便汽船の定期航路「アメリカ号」で横浜港を発ったのは、理事官の伊藤博文と数名の随員、東京、横浜、大阪の為替会社、回漕会社の者たちを含めた総勢十二名だった。

一行が渡米した目的は金融財政調査だった。

明治維新は、大政奉還、版籍奉還と、政治の表向きは大きく変わったが、経済の内情は、江戸時代と変わらない状況が続いていた。そのひとつが貨幣だった。

当時、市中には旧幕府や旧諸藩の発行した紙幣が混在し、貿易の障害になっただけでなく、物価の上昇をもたらして民衆の生活にも悪影響を及ぼしていた。伊藤は、早急に貨幣の統一、財政の一本化を図る必要を感じていた。書物での研究には限界があり、外国に趣いての調査を決断したのである。

伊藤は、幕末に長州藩の留学生として渡英した経験があった。駐日英国大使のパークスとも親しい仲だったが、目的地をアメリカにしたのは、開明的な若い国であると同時に、南北戦争という内戦を経験したばかりであることが、幕末の動乱を経た日本にとって学ぶべきものがあると考えたからだろう。

サンフランシスコに上陸して、大陸横断鉄道で東海岸へ。首都ワシントンでは、米国政府に手厚く遇され、ホワイトハウスでグラント大統領に謁見した。大蔵省を見学し、同行した民間人は実務を学ぶため、ニューヨークに派遣した。

新貨幣の鋳造や紙幣の発行について、大蔵省の役割や位置づけ、民間銀行の設立、アジアで主流だった銀本位制から世界の本流である金本位制への移行など、日本の金融と財政を整備することへの興味は、政治のありようにまで波及し、充実したアメリカ滞在は、およそ百日間に及んだ。帰国は、明治五年五月九日のことだった。

アメリカ滞在中から伊藤は、明治五年に期限が迫った条約改正のことを考え始めていた。

条約とは、幕末の安政年間以降、幕府がアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと締結した不平等条約のことである。

外国人の犯罪に日本の法律が及ばない治外法権、日本に関税主権がないこと、無条件での最恵国待遇などが不平等の内容だった。この条約の最初の改正期限が明治五年だったのである。伊藤は、条約改正のために使節団派遣の必要性を主張した。

帰国後まもなくの七月十四日、廃藩置県が施行された。

江戸時代以来、脈々と続いた藩体制の解体だった。同時に政府内から名目だけの公家や諸侯が排除された。そのなかで、廃藩置県後、外務卿に任じられ、その後、右大臣に任命された岩倉具視は、公家出身の実力者とみなされていた。

そして、組織されたのが岩倉を正史とする岩倉具視欧米使節団だった。

伊藤は、帰国後、多忙を極めるなか、それでも、しばしば神風楼に姿を現した。

トメとは、戯れ言を交わす仲になっていた。そのトメを介して、使節団の話が仙之助の耳に入ってきたのは、明治四年の九月の終わり頃のことだった。

仙之助編十五の十

欧米使節団の特命全権大使に任命された岩倉具視は、海外経験の豊富な伊藤博文を副使に推した。これを受けて、伊藤は大任すぎると、参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通を推薦し、自身は外務少補の山口尚芳ますかと共に補佐にまわると告げた。

その提案を受けて、木戸、大久保、山口と伊藤の四名が特命全権副使に任命された。結果、明治維新のいわゆる三傑のうち、政府に残留するのは西郷隆盛のみとなり、首脳陣が大挙して国を留守にすることとなったのである。

派遣の目的は三つに集約された。第一が、新たに誕生した天皇を中心とする国家として、幕末に条約を結んだ十四カ国、すなわち米国、英国、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク。スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイス、スペイン、ポルトガルの各国に挨拶回りをすることだった。公家出身の岩倉具視が正史に選ばれた理由でもある。最終的にスペインとポルトガルは割愛されたが、使節団は十二カ国を巡っている。

第二が、使節団派遣の最大の理由である不平等条約の改正だった。出発時点ではいきなりの条約改正は困難との認識で、相手国の要望を聞く予備交渉の予定だったのだが、最初の訪問地である米国で思わぬ熱烈な歓迎があり、米国側にも条約改正への思惑があったことから、急遽、本交渉を始めることになった。ところが、本交渉に必要な天皇の委任状がないことを知り、伊藤と大久保が委任状を受け取りにいったん帰国してする異例の事態になった。使節団は、その間、ワシントンで待機することになり、日程が大幅に延びた。全日程が一年九ヶ月にも及んだ理由でもある。

第三が、欧米の実情を視察調査し、国としての指針を探求することだった。政府の首脳陣が大挙して出かけた理由でもある。

使節団は大きく分けて三つのグループから構成されていた。

まずは正史の岩倉具視と、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の四人の副使、さらに随員からなる使節の本隊である。

次が各省派遣の理事官と随員である。条約改正の交渉のため、本隊の米国滞在が長引くと、彼らは別行動で各国の視察に赴いていった。本隊にも一部現地在住者が加わったが、このグループには各省の後発隊も含まれていた。

さらに留学生と正史、副使の従者たちがいた。岩倉使節団の留学生というと、津田梅子に代表される五人の女子留学生が有名だが、このほかにも官費、私費を含め多くの男子留学生が使節団と共に渡航した。

これらを全て含めると、使節団の総勢はおよそ一五〇人と言われる。

政府からの任命でない者が使節団に加わる可能性としては、留学生か従者ということになる。政府は、正史の岩倉具視に対しては二名、四人の副使に対しては一名を正式の従者として渡航費を負担するとしていた。だが、結果的に岩倉具視には八人の従者が随行することが認められた。出発直前まで、従者や留学生の選定は混沌とした。

仙之助編十五の十一

明治政府で岩倉使節団のメンバーの選定が進められていた頃、神風楼に仙之助の待ち望んだ訪問者があった。牧野富三郎宛ての手紙を託した捕鯨船の中国人船員だった。

仙之助が手紙を託してから半年の月日が流れていた。

捕鯨船の航海は、クジラの獲れ高次第で、予定などあってないようなものだ。そもそもハワイの富三郎のもとに手紙が届くかどうかも博打のようなものだった。

幾ばくかの手間賃を渡したとはいえ、中国人船員が律儀にも富三郎からの返信を届けてくれたことに仙之助は小躍りして喜んだ。

時間の経過を物語るように、手紙の入った封筒はだいぶくたびれていたが、確かに富三郎の筆跡で書かれたものだった。

手紙の最後に記されたサンフランシスコに渡るという件を仙之助は何度も見返した。
「サンフランシスコか……

大きくため息をついて、天を仰ぐような表情をする仙之助にトメが話しかけた。
「富三郎さんからのお手紙ですか」
「ああ、よくぞ太平洋を隔てて、届いたものだよ」
「ご帰国なさるのですか」
「いや」
「では、ハワイに留まられるのですね」
「いや、違う。サンフランシスコに行くそうだ」
「メリケンですか」
「そうだ」
「富三郎さんも行かれたのなら、何としてでもお行きになりたいですよね」
…………
「伊藤さんの使節団のお話、何とかならないでしょうかね」
「そりゃあ、連れて行ってもらえるのなら、ありがたい話だが、そんな虫のいい話が通るとは思えないよ。そもそも準備でお忙しいのだろう」
「副使というお偉い立場を任命されて、大変だとおっしゃっておられました。でも、異国には何度も行かれているからなのか、ご自分の準備にはまるで頓着されていなくて、不思議なお方です」
「そんなにお忙しいのに神風楼には今もよくいらっしゃるのか」
「ええ、忙しい時ほど、遊びたくなるとおっしゃって。多少遠くても、顔なじみのいない横浜は気が楽なのだそうです」
「身の回りのお世話をする者はどなたか同行されるのか。まあ、私たちがとやかく言う前にそんな方はいくらもいらっしゃるのだろうが」
「今度お見えになったら、伺ってみましょう」

トメは、不安げな仙之助を励ますように言った。

仙之助編十五の十二

伊藤博文に直談判をしたいと考えた仙之助は、神風楼で下足番をしながら機会を伺っていた。トメは贔屓になった伊藤に仙之助が無粋な頼み事をすることは得策でないと引き留めたが、仙之助のはやる気持ちは抑えられなかった。

数日後の夜、いつもにもまして上機嫌の伊藤が神風楼にやってきた。
「いらっしゃいませ」

仙之助は、伊藤の履物を受け取った。

神風楼では、異人客のために舶来の上履きを用意していたが、伊藤もこれが気に入っていた。いつものようにトメが上履きを揃えて出すと、上機嫌に話し始めた。
「神風楼の上履きは本当に心地よいな。長旅のお供に一足失敬していきたいな」

伊藤は、そっと懐に入れる仕草をした。
「まあ、まあ、伊藤さまともあろう方が。そんなにお気に召されたのなら、お帰りにご用意いたしましょうか」
「まことか。それはうれしいな」
「お国の大事のために行かれる旅のご出発がお近いのですか」
「神風楼に来るのも今宵が旅立ち前の最後になる」

仙之助はトメの如才ないやりとりに履物を抱えたまま、傍らで控えていた。
「旅の準備は万端整っていらっしゃるのですね」
「そうだな。あとは神風楼の履物があれば、問題はないな」
「まあ、おっしゃいますこと。伊藤さまのお使いになる一足だけでよろしいのですか」
「私の従者にやるか。いいや、そんな贅沢をさせては身のためにならぬ」
「伊藤さまの従者になられるのは、それなりのご身分のお方なのでしょうね」
「知り合いに頼まれて預かっておる我が家の書生のような少年だ。神風楼を紹介してくれた高島さんと同じ姓でな。縁者でも何でもないのだが、浅からぬ縁を感じておる」

仙之助は、ついにたまりかねて口を開いた。
「もうひとり、従者はお入り用ではございませんが」

突然の申し出に伊藤は驚いて、仙之助の顔を凝視した。
「お前は……
「大変失礼致しました。神風楼の当主の跡取りにございます。英語の素養はございます。捕鯨船のキャビンボーイになった経験もございます。お役に立てると存じます。」

一気呵成にそこまで言うと、仙之助は顔に血が上ってくるのを感じていた。

少し呆れたような表情のトメを見て、仙之助は思わず顔を伏せた。

しばらくの沈黙が流れた後、伊藤は真面目な顔をして言った。
「副使の従者は一人と決まっておる。すまぬな」

そのまま、何もなかったように伊藤はトメに話しかけた。
「おハルの待つ座敷に案内してくれ」

若い頃の伊藤博文

仙之助編十六の一

岩倉具視欧米使節団の一行、すなわち特命全権大使の岩倉具視、副使の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳と随員および各省の理事官たちが東京を出発したのは、明治四年十一月十日、西暦一八七一年十二月二十一日のことだった。

一行は横浜に宿泊し、翌日の夕方は、オランダの公使館での祝賀会の後、裁判所にて、各国公使や書記官に正餐をふるまう宴が準備されていた。

正餐に出席するのは、使節の本隊であるお偉方だけだったが、留学生や従者たちも横浜に集まり、家族や親戚と別れの宴を催したから、横浜はどこもかしこも人で溢れていた。

一行が乗船することになったのは、太平洋郵便汽船のアメリカ号だった。伊藤博文が先の米国行きで乗船したのと同じ外輪船である。

山口仙之助には、出発の日程など知るよしもなかったが、横浜の賑わいとサンフランシスコ航路に就航している外輪船が沖に停泊していることから、使節団の旅立ちが近いことを察していた。

仙之助が異人の経営する洋服の仕立屋に仕上がったシャツを受け取りに行ったのは、宴が催される日の午後のことだった。

店の入り口で、自分と似た年格好の青年とすれ違った。

店員から渡されたシャツに袖を通してみようとして、刺繍のネームに目がいった。
R. Yamaguchi」とあった。

仙之助は、すかさず店員に名前のイニシャルが間違っていると告げた。高い買い物であることから、中途半端な商品を受け取る訳にはいかない。

すると、店員は慌てた様子で、先ほどの客に誤って渡してしまったと言うではないか。
「あのお客も、私と同じファミリーネームなのか」
「はい」

仙之助は、急いでシャツを包むと外に出た。

きょろきょろと通りを見回すと、先ほどすれ違った青年が向かいの靴屋から出てきたところだった。仙之助は慌てて駆け寄って声をかけた。
「あの、先ほど仕立屋にいらした方ですね」

青年は驚いて振り向くと、怪訝そうな表情でこちらを見た。
「突然、申し訳ない。仕立屋の定員が私のシャツと間違えて、お渡ししたというのです。私の名前は、山口仙之助と申します。刺繍のお名前を見て下さい」

青年は、包みの中からシャツを取りだした。
S. Yamaguchi」とあった。
「失礼ながら、お名前は」
「山口林之助と申す」
「では間違いないですね」

仙之助は、微笑んで「R」と刺繍されたシャツを青年に渡した。

仙之助編十六の二

しばらくの沈黙の後、ようやく状況を察した山口林之助は口を開いた。
「かたじけない。全く気づかずに受け取ってしまいました。しかし、奇遇ですね。同じ山口、しかも林之助と……
「仙之助が出会うとは」

二人は同時に笑った。
「洋行のご準備ですか」

すっかり心を許したふうの林之助が答えた。
「明日の黒船でメリケンにまいります」
「ということは、もしや岩倉様の使節団の……
「はい、岩倉様の従者でまいります」
…………

仙之助は、しばし逡巡した後、意を決したように口を開いた。
「それはうらやましい。私は伊藤様の従者に志願致しましたが、叶いませんでした」

素直な物言いに、林之助は警戒を解いたようだった。
「ほう、伊藤様の」
「副使の従者は二人までと決まっているとかで、高島……
「高島米八よねはちさんですね」
「ご存じなのですか」
「同じ従者の身分と言うことで、顔を合わせたことがあります。まだほんの子どもです。私は嘉永四年の生まれですが、仙之助さんは?」
「これは驚いた。私も嘉永四年の生まれで、二十歳になります」
「全くもって奇遇ですね。仙之助さんも同行されるのなら、どんなに心強かったことか。シャツを新調されるとは、私と同じ洋行の旅支度かと思いました」
「使節団の同行は叶いませんでしたが、メリケンには行く所存です」

無意識のうちに口をついて出た言葉に、仙之助は自分でも驚いていた。
「そうですか。このたびの使節団には、各省からのお役人たちなる後発隊もいると聞いております。そちらに加わるのですか」
「いや……。まあ、まだ予定は決まっていないのですが」
「一人でメリケンに行こうなんて、言葉が達者でおられるのですか」
「メリケンの言葉は幼い頃から修練しましたので、不自由はありません」
「それはうらやましい。使節団で渡航した後、彼の地で勉学のため残るよう勧められてもいるのですが、言葉の稽古が追いつかぬうちに出発になってしまいました」
「なあに、異人と話す稽古に励めば、すぐに上達しますよ」
「はい、精進します。メリケンで、また会いたいですね」

林之助は、そう言って仙之助にシャツの包みを渡した。

仙之助編十六の三

明治四年十一月十二日の朝は、よく晴れて冷え込んだ。

西暦の一八七一年十二月二十三日は、異人たちの祝祭日、クリスマスの二日前だった。

午前八時、岩倉使節団の一行は神奈川県庁に集合し、出発の訓示があった後、十時に揃って馬車で波止場に向かった。

一行が乗船する外輪船のアメリカ号は沖に停泊していた。波止場に着岸するには船が大きすぎるためだった。彼らは波止場で馬車を降りると小型の蒸気船に分乗した。

一群の中で、ひときわ目を引いたのが、振り袖姿の女子留学生たちだった。いずれも少女の年齢で、なかでも数え八歳の津田梅子はまだほんの幼子だった。男子留学生にも少年はいたが、少女たちのいたいけな姿に人々は目を潜めて、口々に噂話をした。

仙之助は、見送りの人たちでごった返す西波止場をさけて、伊勢山に登った。横浜の総鎮守である伊勢山皇大神宮の境内からは港が一望できたからである。

岩倉使節団

小さな蒸気船が何艘も沖に浮かぶ外輪船に向かっていく様子をじっと見ていた。

人の顔までは判別できなかったが、一行の中に林之助もいるに違いなかった。

伊藤博文に直談判してきっぱりと断られ、使節団の一員になることを諦めた時には、アメリカに渡航する夢も一度は遠のいた。だが、不思議な巡り合わせで、岩倉の従者だという山口林之助と出会ったことで、運命の歯車が再び廻り始めた。

さらに仙之助の背中を押したのが、牧野富三郎から届いた手紙だった。

林之助と出会った後、神風楼に戻ると、再び郵便が届いていたのである。

サンフランシスコと行き来しているアメリカ号で届いた手紙が、仕分けに手間取って、ようやく届けられたものらしかった。

富三郎はサンフランシスコに無事到着し、ハワイから渡米した移民たちの職業斡旋を生業としていると、住所番地と共に記してあった。

林之助との出会い、富三郎からの手紙。

岩倉使節団が出発する前日にもたらされた二つの出来事は、偶然だとは思えなかった。

捕鯨船でハワイに向かった時は、仙太郎の思いを抱いての旅立ちだった。

そして今、サンフランシスコで待つ富三郎と、サンフランシスコに旅立っていこうとする林之助に誘われている。

それにしても、同じ山口姓のよく似た名前の人物に巡り会う偶然は何なのだろうと、仙之助は思った。よく似た名前の彼らは、仙之助の分身のように、進む道を示してくれる。

ほんの一瞬の出会いでしかなかったのに、林之助との出会いにも、かつて共に学び、共に夢を見た仙太郎との出会いに似たものを感じていた。

行かなければ、何としても行かなければ。
「おおーい、おおーい、待っていろよ」 

仙之助が遠くなっていく蒸気船の船団に向かって叫んだ瞬間、港を見おろす砲台から使節団の門出を祝う一九発の祝砲が空に響いた。

仙之助編十六の四

使節団の一行を乗せた小さな蒸気船は、次々と沖合に係留された外輪船に横付けさた。

伊勢山からは遠すぎて、乗船する彼らの詳細は見てとれなかったが、仙之助は、憧憬と焦燥の入り交じった感情を抱きながら、いつまでもその様子を眺めていた。

神風楼で伊藤博文に出会うまでは、使節団の一行に加わるなんて、想像もしなかったが、運命の歯車がひとつ違えば、現実となった可能性もあったと考えるようになっていた。もし、伊藤が複数の従者を許される立場であれば、今頃、外輪船に乗っていたかもしれない。

仕立屋で、同い年の山口林之助に出会ったことも、使節団を仙之助に身近なものとして引き寄せた。かつて亡くなった仙太郎の思いを抱いて、その分身として、彼の名前を名乗って海を渡ったように、今度は先に海を渡る林之助に、自分の分身であるかのような思いを重ねていた。

追いかけていかなければ。追いかけていかなければ。

外輪船を見つめているうちに、憧憬の感情は小さくなり、焦燥も漠然としたものから、一刻も早くことを起こさなければという気持ちに変わっていった。

まず何をすべきなのか。仙之助は、頭の中を整理した。

使節団の一行には加われなかった。だが、その後を追いたい。

政府のお役人たちで結成される使節団の後発隊に加わるなど、従者になるより難しい。仙之助にとってはあり得ない選択肢だった。

ならば、自力で海を渡らなければならない。

捕鯨船に乗せてもらうことは容易だが、今度の目的地は、捕鯨の拠点であるハワイではなく、サンフランシスコである。捕鯨船に乗ったところで到着できるあてはない。

横浜とサンフランシスコは定期航路で結ばれている。

養父の粂蔵に頭を下げて旅費を工面して貰い、密航ではなく、正式に渡航するのが順当な方法なのだろう。

定期航路の客船には、主に中国人労働者が乗っている「スティアリッジ(Steerage)」と呼ばれる下等船室があることを仙之助は知っていた。
「舵を取る」を意味する「スティア(Steer)」を語源とする説が一般的で、操舵室のある船尾に下等船室がおかれたことからこう呼ばれた。船底に位置し、倉庫も兼ねたことから倉庫を意味する「ストレージ(Storage)」から派生したとの説もある。

使節団の一行が乗ったのであろう一等や二等船室ならいざ知らず、スティアリッジであれば、法外な料金ではないはずだ。捕鯨船での労働の日々を思えば、どんな船旅にも不安などなかった。太平洋を渡ることができればそれでいい。

高島町に移転してから、神風楼の羽振りはよかった。養子の立場で、これまで金の無心は控えてきたが、今回ばかりは意を決した。

そうなれば早いほうがいい。居ても立ってもいられなくなった仙之助は、動き始めた外輪船が水平線の彼方に消えるのを待つことなく、伊勢山を駆け下りた。

仙之助編十六の五

神風楼の奥座敷で粂蔵と向かい合った仙之助は、土下座して言った。
「父上、一生のお願いがございます」
「仙之助、あらたまって、何事かね」
「メリケン……に行く船賃を工面して頂けないでしょうか」
「伊藤様の使節団は、今日出発したのだろう。従者にして頂けなかったのは残念なことだったが、諦めきれないのか」
「はい」
「メリケンに行って、何をするつもりだ。勉学がしたいのか。そうであれば、船賃だけでは済まないだろう」
「勉学の費用まで無心するつもりはございません。ただ……、異人相手に大きな商売をしたいと思っております」
「神風楼を捨てて、メリケンで商売をしたいのか」

粂蔵の表情が一瞬、険しくなった。仙之助は、慌てて言葉をつないだ。
「いえ、神風楼を捨てるなんて、滅相もない。私は……、メリケンで経験を積んで、こちらで新しい商売をしたいと思っております。それで神風楼をさらに盛り立てたいと考えております」
「新しい商売……、ふうむ。いったい何をするつもりだ」
「まだわかりません。それを見つけに行きたいのです。父上もご存じの通り、今は世の中が大きく変わろうとしております。徳川の世には未来永劫、このままであろうと信じていたことが、次々と変わっていくご時世です。思いもよらない、新しい商売があるはずです」
「富三郎から手紙が来ていたな。あいつはメリケンで何をしているのだ」
桂庵けいあん(職業斡旋)でございます」
「新しい商売とも思えんな」
「仕事を斡旋する商売であれば、新しい商売のつてもあると存じます」
「なるほど。ちゃんと、横浜に帰ってくるのだな」
「もちろんです。必ず帰って参ります」
「よし、では、ひとつだけ条件がある」

仙之助は、ぐっと唾を飲み込んで、粂蔵の顔を見つめた。
「ならば……、トメと祝言を挙げてからいけ」

22歳のトメ

唐突なようでいて、どこかで予想していた言葉だった。彼女が養女として迎えられた時から、いつかは自分と娶せられるであろうこと、二人が跡継ぎとして期待されていることは、仙之助も自覚していた。

それでも、その事実から目をそらせてきた理由は、トメの女将としての力量に一目おきながら、配偶者となることに、どうにも違和感を覚えていたからだった。

仙之助編十六の六

仙之助は、トメに対して、姉のような親近感を持ってはいたものの、異性として意識したことはなかった。それが違和感を覚える理由だった。

以前からトメとの関係は、ぎこちないところがあったが、夫婦になることが現実となり、仙之助はますますもって自然に言葉が交わせなくなっていた。

粂蔵から仙之助との祝言を告げられたトメは、驚くでもなく、喜ぶでもなかった。

季節が巡ってきたら、盆や正月がやって来るのと同じように、仙之助と自身の祝言を考えているかのようだった。お互いに、商売のために養子となった身なのだから、好いた、惚れたといった感情は、関係ないのだろうか。

そんなトメを見ていると、仙之助は自身の違和感や戸惑いを棚に上げて、心の内が知りたくなった。仕方ない運命と思っているのか。それとも、仙之助を憎からず思っているのか。

それでも、メリケンに旅立つことが決まったと告げると、にこりと笑って言った。
「お望みが叶って、よろしかったですね」

仙之助は何と言葉を返していいのかわからなくなった。

どうでもいい相手だから、いなくなるのがせいせいするのか、それとも仙之助の未来を言祝いでいるのか。トメの表情は、そのどちらでもあるように感じられた。

祝言の準備と、渡航の準備は、並行して進められた。

仙之助は、一八七二年一月二十四日、旧暦の十二月十五日に横浜を出港予定のジャパン号に乗船することになった。今回は正式な渡航であるから、出国のための手続きも合わせて神奈川の役所で進められた。

祝言は、出発が八日前に迫った一八七二年一月十六日、旧暦では大安吉日の十二月六日にとりおこなわれた。当時の習慣に従い、祝いの宴は夜だった。

西暦のクリスマスはとうに過ぎていたが、祝言の宴が催される座敷には、異人館の商人から購入したクリスマスツリーが飾られていた。ユージン・ヴァン・リードは、もう横浜にいなかったが、いつしか神風楼では、クリスマスに大きな木を飾り、そのまま旧暦の正月まで飾り続けるのが習慣になっていた。

床の間のある座敷にキラキラと輝く装飾が、和洋折衷の不思議な雰囲気を醸し出す。

仙之助は紋付き羽織袴の和装、トメは、文金高島田に結った髪に角隠しをして、黒地に深紅の梅を散らした振り袖を着た。白と赤と黒の着物を重ねて着る婚礼衣装は「三襲」と呼ばれ、江戸後期から明治、大正にかけて尊ばれた。この習慣にならい、トメは白い振り袖と赤い振り袖を重ねた上に黒地の振り袖をまとった。襟元に重ねた色が映えて、花嫁の白い顔を引き立てた。

祝言を挙げる仙之助とトメ

トメは美しかった。

はっとするほど、美しかった。

仙之助は、初めて花嫁となる彼女に対して、これまで感じたことのない感情がわき上がるのを感じて当惑していた。

仙之助編十六の七

祝言の座敷に三三九度の御神酒を持ってあらわれたのは、粂蔵の実子である長女のテツと次女のヒサだった。振り袖姿の二人に仙之助は思わず目を見張った。

養子に入った頃には、ほんの幼子だった二人がいつのまにか年頃の少女に成長していることに驚く。普段着ではしゃいでいる時には、子どもにしか思えない二人だったが、白地に金糸銀糸をあしらった揃いの晴れ着は少女たちを格段に大人びて見せた。

粂蔵はなぜ実の娘が二人もいるのにトメを養女に迎え入れ、養子である仙之助と娶せて跡継ぎにさせたのか。自分が養子に入ったことも、トメが養女に迎え入れられたことも、当たり前のこととして深く考えてこなかったが、あらためて実の娘には、遊郭に関わらせたくないと考えた粂蔵の心の内に複雑な心境になる。

とりわけヒサは利発な少女で、仙之助も気にかけていた。

英語に興味があるらしく、数ヶ月前から居留地で外国人宣教師の女性が営む私塾に通い始めていた。向学心は旺盛だが、性格的には控えめでおとなしい。

ヒサは恥ずかしそうに微笑むと、仙之助の杯に御神酒を注ぎ入れた。

トメの杯にはテツが酒を注いだ。

三回ずつ注がれた御神酒を三回ずつ口にする。

二十歳の仙之助と四歳年上のトメは夫婦の契りを結び、神風楼の跡継ぎとして、列席者にお披露目されたのだった。

儀式が終わると、賑やかな祝宴となった。

挨拶に立った粂蔵は、いつにもまして饒舌だった。

仙之助が岩倉使節団に加わるため、これからメリケンに渡ること、今宵はその送別の宴でもあると、よどみなく話した。高島町に岩亀楼に張り合うような新しい店を建て、粂蔵は勢いついていた。仙之助の洋行を許してくれたのも、それが神風楼をさらに盛り立てる契機になると信じているからなのだろう。

高島町の神風楼

仙之助は、思いがけないことを言い出す粂蔵に慌てた。

副使の伊藤博文に従者となる交渉をしたことは事実であり、岩倉使節団に後発隊がいるのも事実であり、仙之助がメリケンに渡るのも事実だが、使節団に加わるなんて出来るはずもない。大風呂敷を広げられた仙之助は、顔を赤らめてうつむいてしまった。

一方、トメは、粂蔵の挨拶に動じることもなく、悠然と笑っていた。

正真正銘、神風楼を任される立場になったことを言祝ぐような笑顔だった。

粂蔵とトメは、本当の親子のように共鳴するところがあった。

仙之助は、時々それについていけなくなることがある。

トメと粂蔵は同郷であり、開港地の横浜での商売で抜きん出ることについて、近郊の出身である自分よりも、もっと強い思い入れがあるのかもしれない。

仙之助は、宴の主役は自分であるはずなのに、祝宴を他人のことのように俯瞰しているもう一人の自分がいることに気づいていた。

仙之助編十六の八

夜が更けるにつれ、遊女たちが座敷に入ってきて、宴は無礼講になった。

頃合いを見はからって、新婚夫婦は退席し、奥座敷に招き入れられた。

ぼんやりと行灯がともる部屋の中央にひとつの布団が敷かれ、枕が二つおいてあった。

掛け布団は、遊女が客をとる時のものなのだろうか、派手な紅色だった。

女たちの嬌声を遠くに聞きながら、仙之助とトメは、初めて二人きりになった。

トメは、仙之助の前に座って、丁寧にお辞儀をすると、次の瞬間、恥じらうそぶりもなく、するりと黒い振り袖を脱いだ。

紅の掛け布団の上に黒い振り袖が、ふわりと落ちた。

艶っぽいトメ

次に重ねて着ていた赤い振り袖を脱ぎ、白い振り袖を脱いだ。畳の上に扇を広げたように脱ぎ捨てられた花嫁衣装が行灯の光に照らされて、どうにも艶めかしかった。
「あ……

仙之助は、気持ちより先に身体が反応していることに気づいた。

花嫁姿のトメを見て、今までにない感情がわき上がるのに当惑した理由がようやくわかった。トメを愛しているのかどうか、理性としてはわからない。だが、二十歳の若い肉体がトメに反応してしまうことに、仙之助は戸惑ったのだった。
「仙之助さん……

トメは身体をすり寄せて耳元でささやいた。

肌襦袢だけになった胸元の白い肌があらわになる。
「やっと二人きりになれましたね」
「トメ……

何か言おうとするが、何を言ったらいいのかわからない。

トメの指先が、仙之助の固くなった身体の一部にふれた。

その瞬間、さらに固くなるのを仙之助はどうすることもできなかった。

身体が強く反応するのに、トメに話す言葉がみつからない。
「天狗のように高い異人の鼻もよろしいですが……

指先でそっと頬をなでながら、トメはささやいた。
「仙之助さんの整ったお顔立ちが、トメは愛しくてなりません」

そう言って、仙之助の首元に熱い吐息をかけた。
「あ、あ……

仙之助の身体に戦慄が走る。

トメにとって仙之助が初めての男でないことはあきらかだった。

初夜の交わりに至る以前、手慣れた所作でその事実ははっきりと伝わった。トメはことさらに処女をよそおうとすることもなかった。

異人の顔を引き合いに出すということは、トメが知る男は異人なのだろうか。

そうした思いを巡らせることで、さらに肉体が興奮する。

仙之助編十六の九

仙之助は、完全に年上の花嫁の手玉に取られていた。

トメは身体も所作も成熟していた。仙之助が初めての男ではないのはもとより、複数の経験があることを想像させた。そのことに仙之助の気持ちはしばし逡巡する。だが、次の瞬間、本能が意識の底からもたげてきてトメを強く抱きしめるのだった。

もしかして、トメは、仙之助の動揺も見透かしていて、わざと他の男のことを話すのだろうか。考えれば考えるほど、肉体の興奮は激しくなる。

仙之助の経験は、捕鯨船に乗っていた頃、各地の港で仲間たちと船員相手の店に行ったことが何回かあっただけだった。そうしたこともトメには見透かされている気がした。

トメに導かれるようにして二人は一つになった。

長い一日の終わり、二人はそのまま眠りに落ちた。

心が通い合ったという感覚はなかった。

二人きりになると、本当にもどかしいほどに話す言葉が見つからなかった。

トメが何を考えているのか。

仙之助のことをどう思っているのか。

本当は知りたいことが山ほどあるのに、潤んだ瞳に見つめられると、何を話していいのかわからなくなってしまう。

それでも、身体は確実に深く結ばれた。身体を重ねている時、深い充実感があったのも事実だった。そのことがどうにもやるせなかった。

そして、仙之助は夢を見た。

カムチャッカのペトロパブロフスク・カムチャスキーで抱いたロシア人の若い女が夢に出てきて、仙之助を床に誘う。

女は大きく胸のあいた白いドレスを着ていて、その胸元も眩しいほどに白かった。

床にはらりと、女のまとっていた白いドレスが落ちた。

仙之助は、吸い寄せられるように女のふくよかな胸に顔をうずめた。

次の瞬間、ふいに床を見ると、白いドレスは、いつの間にか白い振り袖になっていた。慌てて、女の顔を確認しようとしたところで、はっと目覚めた。

仙之助は何という夢を見たのだろうと思った。

トメとの初夜に、商売女との記憶を重ねる自分の潜在意識に仙之助は愕然とした。トメの肉体だけを自分は求めているのだろうか。

隣ですやすやと寝息を立てるトメは、化粧が落ちてもなお白い素肌が美しかった。

その顔を見ているだけで、再び身体が反応するのを仙之助は止めることができなかった。浅い眠りからの覚醒はおぼろげで、気がつくと、仙之助は、夢の続きをなぞるかのように、トメの襦袢の胸元を開けて、やわらかな胸に顔を埋めていた。

顔をあげると、障子の向こうが明るくなっている。

奥座敷にも朝の光が差し込もうとしていた。

仙之助編十六の十

祝言が終わると、出発は八日後に迫っていた。

捕鯨船に乗った時は、着の身着のままの旅立ちだったが、今回は外国人居留地の仕立屋に注文した洋服を用意して、せめてもの洋行らしい身なりを整えた。

今回は、捕鯨船での密航ではない。

そのことが、仙之助の気持ちを誇らしく、晴れがましいものにしていた。

だが、気がかりだったのは、旅支度は整ったのに、肝心の免状(旅券)がなかなか発給されないことだった。書類を整えて神奈川県の役所に申請しているのに、何の音沙汰もない。密航歴のある仙之助は、どうしても不安になる。ハワイにいた仙之助のことを誰かが密告し、該当する渡航書類がないことが発覚してしまったのではないか。

日を追うごとに仙之助の不安は増していった。

家族と別れを惜しむ気持ちの余裕もなく、思い悩むことが多くなった。

仙之助の心配をよそにトメは明るく、あっけらからんとしていた。
「大丈夫ですよ。岩倉様の使節団でさえ、全員の免状が整ったのは、出発の直前だったと伺っています。お役所もお忙しいのでしょう」
「そうならばいいが……
「何がそんなにご不安なのですか」
「いや、それは……
「密航されたことですか」
「そうだな」
「あら、やだ」

トメは、そう言うと、大きな声でからからと笑った。
「使節の副使でいらっしゃる伊藤様も密航者じゃないですか。ご存じでしょう?」
「それはそうだが」
「徳川の時代の冒険談を今さらお咎めがある訳ないですよ。仙之助さんは……、大胆なお方なようでいて、案外、心配性でいらっしゃるのですね」
「政府のお役人である伊藤様とは違うからな」
「違いませんよ。仙之助さんもメリケンで使節団に加わられるのでしょう」
「いや……
「仙之助さんならば……、大丈夫ですよ」

トメは、仙之助の顔をじっと見つめた。
「そんなお顔をなさらずに、しばしのお別れなのですから、楽しいお話をしましょうよ」

そう言われると、一時、心配は杞憂のようにも思うのだが、免状が発給されない日が続くと、いてもたってもいられなくなる。

仙之助は、毎日のように、役所に通いつめた。

そして、ついに出発日の二日前になってしまった。

仙之助編十六の十一

山口仙之助の免状(旅券)が発給されたのは、明治四年十二月十三日のことだった。

渡された書類は、役人が「ご印章」と呼ぶ本状と、「規則」と題された渡航先での注意事項をまとめた書状の二通だった。

仙之助は、感慨深くこれらを受け取った。いよいよ旅立ちだという実感が沸いてくる。

英語のPassportに対して、旅券という訳語が正式に使われるのは、明治十一年のことである。それまでは、旅券は一般に免状などと呼ばれ、正式にはご印章と称した。

規則には、海外に行くにあたっては覚悟を決め、身を慎み、金銭面の不始末をすることなく、日本人同士は助け合い、外国人とは諍いをおこすな、ご印章を紛失することのないように、そして、勝手に移住や改宗をするなといったことが記されていた。

キリスト教の禁教政策が廃止になるのは明治六年のことであり、仙之助が受け取った規則には、いまだ改宗が厳しく戒められていた。

事細かな注意事項は、開国まもない新生国家、日本の矜持でもあった。

役所を出た仙之助は、大急ぎで高島町に戻った。

転げるように玄関に駆け込むと、息せき切って粂蔵とトメに報告した。
「よかったな。さすがに心配したぞ」

粂蔵は安堵した笑顔で言った。
「仙之助さん、ご心配はいらないと申し上げた通りでしたでしょう。でも、よかった」

トメはいつも通りの明るさで応じた。
「ありがとうございました。これで……、これで、出発できます」

仙之助の目に思わず涙が浮かんだ。出発は二日後の十二月十五日に迫っていた。
「今夜は送別の宴だな」
「宴は祝言で充分にして頂きました」
「何を言っている、それとこれは違うだろう」
「そうですとも。祝言は仙之助さんと私と神風楼のための宴、今宵は仙之助さんのための宴です。さあ、忙しい、忙しい」

トメは、頬を紅潮させて廊下を駆けていった。

廊下を反対側からやって来たのがヒサだった。玄関での大騒ぎを聞きつけたらしかった。
「仙之助さん、ついに渡航の準備が整われたのですね」
「異国に行ってよろしいという免状をお役所で頂いてきたところだよ」
「おめでとうございます。でも、少しだけ……、ヒサはさみしいです」
「えっ?」

トメからは決して聞くことのなかった言葉を聞いて、仙之助は戸惑った。
「仙之助さんにお勉強を教わることが出来なくなってしまいます」
「そうか、そうだな。ヒサは賢いから、ひとりでも大丈夫だよ」

次の瞬間、ヒサは、仙之助に情愛を示すような表情をした。

仙之助編十六の十二

祝言から七日目の宵、神風楼で再びの華やかな宴が催された。

仙之助は、真新しい旅立ちの洋装を身につけて、座敷の中央に座った。

宴から一日おいて、明治四年十二月十五日、ついに出発の朝を迎えた。

乗船する太平洋郵便汽船のジャパン号は、岩倉使節団が乗船したアメリカ号などと共に香港と横浜、サンフランシスコを結ぶ定期航路に就航していた。

スティアリッジの乗客は、ほとんどが香港から乗船してきている中国人の労働者たちで、上級船客のような洋服姿の仙之助ははいささか浮いていたが、捕鯨船には中国人の乗組員もいたので、とりたてて不安はなかった。仙之助は、早速、同じ年格好の若者に片言の中国語で話しかけた。

ジャパン号は、高台から見送ったアメリカ号とよく似た外輪船だった。

japan号

乗客は小舟に乗って、沖留めされた本船に乗るのも同じだった。

ようやく旅立つ立場になれたことに仙之助の胸は高鳴った。

桟橋には、粂蔵とトメ、そしてテツとヒサ、神風楼の雇い人たちが集まった。

使節団の見送りとは比べようもないが、人目を忍んで出発した捕鯨船の旅立ちを思えば、充分に晴れがましい気分だった。
「仙之助、いよいよ旅立ちだな。気をつけて行くのだぞ。富三郎にもよろしく伝えてくれ」

粂蔵の言葉に仙之助は意気揚々と答えた。
「はい。こんな立派な黒船で行くのですから何の心配もありません」

トメはいつも通りの明るさで話しかける。
「留守は私がおりますので、どうぞご安心なさって、異国の地で見聞を深めていらして下さいね。ますますご立派になってのお帰り、お待ちしております」
「ありがとう。そう言ってもらえると心強い」

トメは、仙之助の言葉を受けて、にっこりと笑った。

その表情に、別れを惜しむ湿っぽさは微塵もなく、仙之助は新婚の夫として、少し複雑な気持ちになった。祝言を境にトメは、神風楼の女将として、威厳のようなものが増した気がしていた。だが、そんなトメがいるからこそ、仙之助は心おきなく旅立てる。

仙之助の旅立ちが二度目ということもあるのだろう、誰もが遠い異国に旅立つ仙之助に過剰な惜別の念は持っていなかった。そのなかで、ただひとり、粂蔵の後ろで恥ずかしそうに佇むヒサだけが、さみしそうな表情をしていた。
「ご無事のお帰りを念じております」
「ありがとう。ヒサも達者でおれよ。手紙を書くからな」

仙之助は、ヒサにだけ手紙を書くと口をついて出た自分の言葉に驚いて、少し動揺した。

だが、考える間もなく、仙之助が小舟に乗る順番がやってきた。

桟橋が遠ざかっていく。

仙之助は見送りの者たちに向かって、いつまでも手を振り続けていた。

仙之助編十七の一

岩倉具視欧米使節団の一行を乗せた蒸気船アメリカ号が、二十三日間におよぶ太平洋の航海を終えてサンフランシスコに到着したのは、一八七二年一月十五日。旧暦では明治四年十二月六日のことだった。

サンフランシスコは、太平洋とサンフランシスコ湾に囲まれた半島の北端に開けた港町である。北に接するマリン岬との間に金門(ゴールデンゲート)海峡があり、太平洋からアプローチする際の玄関口となる。

サンフランシスコの港

この海峡に「金門」という印象的な名前をつけたのは、アメリカ陸軍将校で探検家でもあったジョン・C・フレモントである。共和党の大統領候補でもあり、奴隷制に反対した政治要綱を持つ多数党からの最初の候補者でもあった。オスマン帝国(トルコ)のコンスタンティノープル(イスタンブール)の金角(ゴールデンホーン)湾にちなんでの命名とされる。

ヨーロッパ大陸から角のように突き出した金角湾がヨーロッパとアジアの境界であるのに対し、金門海峡は、アジアとアメリカの境界ということになる。

フレモントの命名は一八四六年のことだったが、三年後の一八四九年にサンフランシスコ郊外で金鉱が発見され、ゴールデンラッシュが始まった。多くの人々がカリフォルニアに押し寄せたが、中国人移民など太平洋を渡ってきた者たちにとっては、黄金の名を冠した海峡は、彼らの夢を象徴する名称となった。

アメリカ号が金門海峡に入ったのは、一月十五日の早朝だった。

マストには、高々と日の丸が掲げられていた。

今日のサンフランシスコを象徴するゴールデンゲートブリッジが、完成するのは一九三七年になるが、当時は、この海峡に入ることが、長旅を終えてサンフランシスコに到着した感動が湧き上がる瞬間だった。

夜明け前から、甲板には使節団の一行が、大海原の彼方にあらわれる目的地をいち早く見ようと詰めかけていた。

サンフランシスコ周辺は、年間の気温差の少ない温暖な地中海性気候で、夏は晴れて乾燥し、冬は湿潤で雨が多い。だが、この年の冬は雨が少なく、その朝もよく晴れていた。

蒸気船が湾内に入り、港の桟橋に近づいた頃、港と反対側の方角から礼砲が轟いた。

湾内に浮かぶアルカトラズ島の要塞に設置された大砲から発されたものだった。

サンフランシスコが太平洋航路の要衝となり始めた一八五二年、島に初めての灯台が設置され、南北戦争の頃には、港を警備する要塞として砲台が整備されるようになった。

二十一発の礼砲は、使節団を最大級に歓迎するものだった。

アメリカ政府にとっては、鎖国していた日本を開国に導いたのは自国であることの自負があった。明治政府の高官の訪問は、すでにあったが、今回はミカドから信任された特命全権大使の一行が訪問する特別な使節団として認識されていた。

アメリカ号のサンフランシスコ到着は、奇しくも、横浜の神風楼で山口仙之助がトメと祝言をあげた日の出来事だった。

仙之助編十七の二

一八七二年一月十五日の朝、牧野富三郎は、港の方角から聞こえてくる礼砲の音で目を覚ました。彼が間借りしていた小さな部屋は、サクラメント通りの外れにあった。
「小広州(Little Cantong)」「小中国(Little China)」などと呼ばれた、いわゆるチャイナタウンの一角である。

当時のサンフランシスコには、日本人の在住者はまだほとんどいなかった。

一八六九年に会津から入植した若松コロニーの移民たちは、エルドラド郡のゴールドヒルに入植していたし、富三郎と共に渡米した者たちも、サンフランシスコから離れた場所に仕事を得て散らばっていた。

中国人の進出は、日本人より早かった。一八四九年にゴールドラッシュが始まると同時に、彼らはカリフォルニアに押し寄せた。一攫千金を夢見た人々は直ちに金鉱に向かったが、当時から金鉱で働く同胞に物資を供給する商店がサンフランシスコにはあった。三年後の一八五二年には、すでに約三千人の中国人がサンフランシスコに在住していたという。当時の総人口が約三万六千人であるから、彼らの勢力がどれだけ大きかったかわかる。

ゴールドラッシュが終焉すると、次は大陸横断鉄道の労働力となった。

一八六三年に着工した当初は、主にアイルランド人やメキシコ人が雇用されたが、難工事による重労働から脱落する者が多かった。その穴を埋めたのが中国人労働者だったのだ。

富三郎は、日本人移民の仕事の仲介を生業としていたが、ハワイから渡航した同胞の数は少なく、仕事は限られていた。新たな商売を立ち上げることを模索していたが、チャンスが掴めないまま、中国人の営む商店で雑用を引き受けて糊口をしのぐ日々だった。

夢と希望を抱いて渡航したアメリカ本土だったが、移民総代としてそれなりの地位にあったハワイにいた時と比べると、何の後ろ盾もない生活は厳しかった。

そのなかで、唯一の望みとしていたのが、仙之助の到着だった。

いったん帰国した仙之助が、再び渡航するのは容易ではないことはわかっている。それでも、自分の手紙を読んで、彼が奮起するに違いないと信じていた。

仙之助と一緒であれば、何か大きなことが出来そうな予感がしていた。

だが、サンフランシスコに着いてから神風楼に出した手紙に、まだ返事はなかった。

立て続けに響く礼砲に導かれるように、富三郎は、港の桟橋を目指した。

何度となく港で見かけた見覚えのある蒸気船が近づいてくるのが見えた。横浜からの定期航路の郵便汽船に違いない。

いつもと違うのは、桟橋に大勢の人々が集まっていることだった。港の周辺に普段たむろしているような労働者ではない。正装の紳士淑女がそこにはいた。

次の瞬間、富三郎の目に飛び込んできたのは、マストに翻る日の丸だった。

岩倉具視使節団のことなど、富三郎は知るよしもない。

だが、正装の紳士淑女が、日の丸を掲げた蒸気船を出迎えているのは確かだった。

富三郎は、その様子を遠くから眺めながら、胸がざわめくのを感じていた。

仙之助編十七の三

アメリカ号から下船した岩倉使節団の一行は、馬車に分乗し、マーケットストリートに立つ宿泊先のグランドホテルに到着した。数年前に開業したばかりの、当時、サンフランシスコで最上級の壮麗な外観のホテルだった。

グランドホテルサンフランシスコ

古式ゆかしい烏帽子直垂姿の岩倉具視大使、艶やかな振り袖姿の女子留学生たちが、ひときわ人々の目を引いた。そのほかの団員たちは洋装だった。

グランドホテルの偉容は、彼らも驚きだったのだろう。馬車を下りた彼らは、みな一様に建物を見上げて目を見張り、周囲をきょろきょろと見回しながら玄関を入っていった。

富三郎は、通りの向かい側から人混みに紛れて、その様子を見つめていた。

集まった人々は口々に「ジャパン」「ミカド」と連呼している。

彼らが日本人であり、古式ゆかしい装束の人物が、天皇ではないのだろうか、その系統を引くやんごとない人物であることは、富三郎もすぐに理解した。

ホテルの前には、次々と馬車が到着し、市長、商工会議所の会頭、提督、将軍など、一目で重要な役職とわかる人たちが降り立った。

グランドホテルの周囲は黒山の人だかりとなった。

夜が更けるにつれ、人の数はますます多くなった。集まった群衆の数はおよそ四万人にのぼった。軍楽隊があらわれて歓迎の曲を演奏する。ホテルの周囲はお祭り騒ぎだった。

エキゾティックな装いの岩倉大使がバルコニーにあらわれると、群衆の興奮は頂点に達した。岩倉は丁寧に頭を下げると、アメリカ国民の歓迎を感謝すると日本語で挨拶をした。

使節団随行のデロング公使が通訳すると、人々の歓声が夜空に響いた。
「ウェルカム、ジャパン」
「ウェルカム、ミカド」

富三郎は感極まって、日本語で叫んだ。
「私は日本人です。日本の皆さまのサンフランシスコ到着を歓迎致します」

だが、その声は群衆の歓声にあっけなくかき消された。

集まった人々のほとんどは白人だったが、通りを二つほど隔てたチャイナタウンの商店主たちも、もの珍しそうに集まっていた。いかにも労働者然とした服装をした富三郎の姿は、彼らの中に紛れていたに違いない。

富三郎は、もう一度、大きな声で叫んだ。
「私は日本人です。日本の皆さまのサンフランシスコ到着を歓迎致します」

声を上げた瞬間、今度は軍楽隊の演奏が高らかに始まり、富三郎の声は再びかき消された。

グランドホテルの周囲のお祭り騒ぎは、深夜まで続いた。

富三郎は喧騒の中で、いつまでもホテルの窓を見上げていた。

仙之助がこの一行の末席に加わっているなどという奇跡はないのだろうか。あるいは、仙之助の消息を知る誰かが一行の中にいないだろうか。彼らがサンフランシスコに滞在している間に、団員と接触する機会を何とか見つけようと、富三郎は考えていた。

仙之助編十七の四

翌朝、興奮冷めやらぬまま目を覚ました富三郎は、使節団の投宿先であるグランドホテルに忍び込む方法をないかと思案を巡らせた。

思いついたのは、団員たちと同じ紳士然とした服装を整えることだった。

昨夜、バルコニーで挨拶をしていた団長の威厳のある和服をサンフランシスコであつらえるのは無理だが、幸い、そのほかの団員たちは洋装だった。

サンフランシスコにいる東洋人と言えば、中国人の労働者ばかりである。昨夜の大歓迎で日本の使節団の来訪は知れ渡っている。紳士のような服装をした東洋人がいれば、誰もが使節団の一行と疑わないだろう。

富三郎は、経験上、白人たちが東洋人の顔を見分けるに長けていないのを知っていた。

使節団の一行は、なかなかの大所帯である。富三郎が彼らに紛れて入館しても怪しまれないのではないか。

早速、富三郎は顔なじみの中国人の仕立屋から、紳士が着用する上着とシャツ、ズボンの一揃いを借り受けた。

服装が整うと、不思議と気分もあがる。下働きをして日銭を稼ぐ日常から離れて、移民団の総代として、政府とやりとりしていた頃の誇りがよみがえってきた。

グランドホテルのあるマーケットストリートの界隈まで行ってみると、なんと団員らしき数人の若い日本人がホテルの玄関から出てくるところに出くわした。

馬車の出迎えが来ている訳ではない。

前日に到着したばかりの彼らは、休養日なのかもしれない。

彼らは、いちようにしばらく立ち止まったまま、あたりをキョロキョロと見まわしていた。

富三郎は、意を決して彼らに近寄った。

団員たちも富三郎の姿に気づいたようだった。怪訝そうに顔を覗き込んでいる。

富三郎は帽子をとって、頭を下げた。

すると、相手の方から話しかけてきた。
「はて、船上では見かけなかったお顔のように拝察しますが」

団員のひとりが言った。

富三郎はしばらく逡巡した後、腹をくくって答えた。
「はい、こちらに住んでいる日本人にございます」

すると、服装が功を奏したのだろう。怪しむ様子もなく、むしろ彼らの顔が明るくなった。アメリカには幕末以降渡航した留学生がいることは彼らも情報として知っていた。例えば、岩倉具視大使の息子もシカゴに留学していた。
「では、このあたりの地理にも通じておられるのか」
「は、はい、もちろんでございます。少しこの界隈をご案内致しましょうか」
「かたじけない。それは渡りに船だ」

彼らの興味は、富三郎の素性よりも通りの風景に向かっていた。

仙之助編十七の五

富三郎は、使節団の若い団員たちを引き連れて、マーケットストリートから港と反対の方向に少し北上した。カーニーストリートで右に折れて、ポートマウス広場に向かった。

団員たちは興味津々に左右の高い建物を見上げていた。
「ほう、たいしたものだな」

富三郎も初めてサンフランシスコに来た時は、同じように何もかもが珍しかった。街の賑わいは、ホノルルとは比べものにならなかった。

カーニーストリートをさらにカリフォルニア劇場まで歩いた。
「これは、町一番の芝居小屋にございます」
「ほう、芝居小屋もこんなに立派な建物なのか」
「はい。ご存じと思いますが、サンフランシスコは二十年ほど前に金鉱が見つかって、それを契機に栄えたものでございます」
「わずか二十年でこんなに立派になったのか。ならば、我が国の新しい都もあと二十年もすれば、サンフランシスコになれるかもしれんな」
「はい、その通りでございます」

団員たちの表情がなごんだのを見計らって、富三郎は勇気を振り絞ってたずねた。
「あの……、ご一行の従者に、山口仙之助と申すものはおりませんか」
「山口仙之助?」
「はて、岩倉様の従者の……、山口殿のことではないか」

団員たちは顔を見合わせて言った。
「本日は休養日なので、我らもこのように三々五々出かけておる。山口殿も宿舎におられるのか、さだかではない。明日からは一同で市内視察の予定と聞いている。それには一同、同行するであろう」
「視察はどちらに行かれるのですか」
「さて、馬車と毛織物の視察だと聞いておったな」
「午後は確か、庭に行くそうだ」
「庭……、庭でございますか」
「さよう。なんでも大きな庭があるそうだな」
「ガーデン……、ウッドワーズ・ガーデンのことではございませんか」
「ああ、そんな名前だった気がする」
「そうですか。明日はウッドワーズ・ガーデンに行かれるのでございますね」

ウッドワーズ・ガーデ

ウッドワーズ・ガーデンとは、ゴールドラッシュで財産を築いたロバート・B・ウッドワーズという富豪が一八六六年に開園した遊園地のような施設だった。動物園があり、植物園があり、美術館がある。使節団が訪れた一八七二年のサンフランシスコでは、最大の観光地であるとともに、市民にとっては憩いの場であり、自慢の場所でもあった。そのため、産業施設とともにいち早く視察の日程に組み込まれたのだろう。

仙之助編十七の六

ウッドワーズ・ガーデンは、入り口の門をくぐると、まず展示館があり、鳥獣の剥製や昆虫のアルコール漬けのビンなどが棚に並んでいた。

さらに、その近くには、巨大な温室があった。鉄製の骨組みにガラスをはめ込んだ天井からは燦々と日が差し込み、屋内は常に真夏のような気温が保たれ、身の丈ほどもある熱帯植物が繁茂していた。

温室の中は、彩り鮮やかな鳥がさえずり、かぐわしい花の香りがする。富三郎は、時々なけなしの金で入場料を払ってここに来ては、遠いハワイを懐かしむことがあった。

いつものように温室で熱帯植物を愛でていると、どこからか日本語らしき会話が聞こえてきた。前日に会った団員が言った通り、使節団の一行がやって来たのだった。

先頭を和服姿の岩倉大使が歩き、その後ろを団員たちがぞろぞろと続いてくる。

時々、案内役らしき白人の紳士が立ち止まっては説明するのを言葉に長けた団員のひとりが通訳する。誰もが興味津々の表情で、キョロキョロと温室の中を見まわしている。

富三郎は、その一団の中に見覚えのある顔を見つけた。

前日と同じように服装を整えた富三郎が彼らに近づくのを不審に思う者は誰もいなかった。しばらくして相手も富三郎に気づいたようだった。

仙之助と同じくらいの年格好の見慣れない青年が隣にいた。
「山口……、林之助と申します。私をおたずねとか」

富三郎は慌てて答えた。
「いや、申し訳ありません。私が探しているのは、横浜出身の仙之助という男でして」
「もしや、山口仙之助さんのお知り合いですか」
「仙之助をご存じなのですか」
「横浜の仕立屋で偶然、お目にかかりました。私と同じ年格好の、メリケンの言葉が達者なお方ですよね」
「そうです、そうです」
「伊藤様の従者になるご予定が果たせず、私たちの使節団には同行できなかったが、必ず渡米するとおっしゃっていましたよ」
「そうですか。それを聞いて安心しました。ありがとうございます」
「こちらで再会できる機会があればいいのですが」
「皆さま方はサンフランシスコにはどのくらい滞在されるのですか」
「当初は、すぐに大陸横断鉄道に乗車すると聞いておりましたが、当地の方々が思いのほかの大歓迎で、あれやこれやとご招待があるようで、今しばらくは、こうしてあちこち見物させて頂くことになるようです」

一行は、温室を出て、名画が展示された美術館を見学し、水鳥の遊ぶ庭園とダチョウやラクダが走り廻る草地のあたりに進んだ。野生のままの姿を見せる珍しい動物に団員たちは一様に目を見張り、驚いていた。

仙之助編十七の七

岩倉具節団の一行は、一八七二年一月十五日の到着後、三十一日までの十七日間をサンフランシスコとその周辺で過ごした。

サンフランシスコは湾を挟んで、対岸にオークランド村、ベルモンド村、サンノゼ村といった地域が点在し、産業が発展していた。滞在が長くなった理由のひとつとして、これらの地域を拠点とする富豪の招待が相次いだこともあった。

そのひとつであるオークランドが、一八六九年に開通したばかりの大陸横断鉄道の始点だった。当初の始点は、少し内陸にあるサクラメントだったが、同年、湾に面して港があるオークランドまで路線が延長されたのだった。

一八七二年一月三十一日の朝早く、サンフランシスコのグランドホテルを出発した一行は、蒸気船でオークランドに向かった。

その前夜、牧野富三郎は、グランドホテルを訪ねて、山口林之助と、市内案内をして顔見知りになった二人、同じく従者だという佐々木兵三と坂井秀之丞と面会し、別れを惜しんだ。ウッドワーズ・ガーデンで親しくなってから何度となく彼らと話す機会があり、すっかり意気投合していた。

富三郎から見れば、政府の使節団の一員である彼らは、雲の上の存在であり、当初は引け目を感じていた。一方、異国が初めての団員たちにとっては、異国に暮らす富三郎は、畏敬の存在であった。彼らに共通していたのは、異国に対する強い興味と憧れがあって海を渡った者たちであることだった。それがお互いの気持ちを共鳴させていた。

富三郎は、別れ際、使節団の日程を聞き出すことも忘れなかった。

従者という立場は、末端の団員ではあるが、使節に直属の立場であり、留学生たちよりも事務方の情報には詳しかった。とはいえ、想定外にサンフランシスコに長く滞在したように、使節団の日程は詳しく決まっていなかった。首都のワシントンは、重要な目的地のひとつだから、条約改正に関わる交渉などで長く滞在するかもしれないとのことだった。

近いうちに仙之助がサンフランシスコに到着したとして、それから使節団を追いかけても、彼らと途中の都市で会える確率は限りなく低いだろう。東海岸のワシントンまで行ったとしても、彼らと再会できる保証はなかった。

大陸横断鉄道の旅には、随行してきた駐日アメリカ公使のデ・ロングと夫人のほか、アメリカ号で到着したメンバーのほとんどが加わった。

アメリカの鉄道開発は東海岸から始まった。東部の鉄道網がミズーリ川を越えてネブラスカ州オマハまで到達したのが一八五九年。西部開拓が進むなか、西海岸への鉄道の延伸は、アメリカ合衆国の行く末を左右する大きな課題だった。一八六二年にエイブラハム・リンカーンが制定した太平洋鉄道法は、連邦政府の支援の下で大陸横断を促進するもので、南北戦争で国の分離が懸念されたこの時代、広大な合衆国の統合を維持する側面もあった。

西海岸を拠点とするセントラル・パシフィック鉄道は、東海岸のユニオン・パシフィック鉄道とつながって大陸横断鉄道となったのである。

仙之助編十七の八

岩倉使節団はオークランドでセントラル・パシフィック鉄道の車両に乗車した。

日本で最初の鉄道が開業するのは、一八七二年の十月。すなわち、欧米視察の経験がある者以外は、初めて目にする蒸気機関車だったことになる。

欧州で鉄道に乗った経験がある者も寝台車を目にするのは初めてだった。

オリエント急行に代表される国境をまたいで走行する寝台列車が欧州に登場するのは、一八八〇年代以降のことだ。アメリカの大陸横断鉄道に連結されたプルマン社の車両に驚いた欧州の人たちがこれを真似たとされる。一八五九年に開業したアメリカの大陸横断鉄道は、欧州の鉄道さえ凌駕する、最新鋭の交通機関だったのである。使節団の面々が寝台車の設えに驚いたのも無理はない。

一等の寝台車は、両側の車両をそれぞれに六つの客室に分け、各室には二人ずつ乗客が入る設計になっていた。中央には通路、両端の広いスペースにはストーブが焚かれ、さらに洗面台、用水タンク、便所といった水回りの設備が備えられていた。床にはカーペットが敷き詰められ、日中は各室の真ん中にテーブルを設える仕掛けがあり、それを挟んで長椅子が相対する。ここで、読み書きをしたり、会話を楽しんだりすることができた。夜には長椅子が寝床になり、上方の鉤を外すと、もうひとつの寝床が下りてきて上下二段の寝台になった。布団や枕が備えられ、カーテンを下ろして就寝する。華やかな花模様があしらわれた天井、黄金や華やかな色彩の塗料を使った内装は、宮殿のように豪華だった。

総勢百名余りの一行は、一車両で二十四名を収容する車両を五つ貸し切った。

オークランドを出発した使節団は、サクラメントで途中下車をして当地一番の宿であるオルレアン・ホテルに宿泊した。

カルフォルニア州の州都でもあるサクラメントは、セントラル・パシフィック鉄道の本拠地だった。四人のサクラメントの実業家、通称「ビックフォー」が設立した会社である。ここで蒸気機関車の製造工場と議事堂を訪問するのが目的だった。

サンフランシスコをブームタウンに押し上げたゴールドラッシュは、もともとサクラメント郊外のサッター砦で黄金が発見されたことに端を発する。使節団が途中下車をしたのは、西海岸の歴史を象徴する都市だったからだろう。二月一日の夜は、市をあげての歓迎会が催され、その後、ゆっくり休む間もなく、深夜三時に再び列車に乗り込んだ。

サクラメントを過ぎると、鉄路はシエラネバダ山脈の山越えにさしかかる。

西部開拓の大きな妨げになったのが、大陸の南北を縦断するシエラネバダ山脈だった。北部のロッキー山脈よりも、山々の標高はシエラネバダのほうが高い。

セントラル・パシフィック鉄道の開発においても最大の難所であり、発明されたばかりのニトログリセリンを用いて固い岩盤を発破したが、多くの犠牲者を出したという。

平地から一転して、壁のようにそそり立つ山脈を汽車は蛇行するように迂回しながら登っていった。ゴールドラッシュは終焉していたが、山中には金採取を目的とする小村が、いまもなお点在し、金鉱山が大きな産業であり続けているのが見て取れた。

仙之助編十七の九

山間を進む鉄路の高度が上がるにつれ、気温が下がり、灰色の空から落ちてくる霙まじりの雪は、やがて本格的な降雪となった。

シエラネバダ山脈越えの列車

汽車は機関車を増結し、トンネルやスノーシェッド(雪崩よけ)をくぐり抜けるようにして最高地点のサミット駅に到着した。ここでラッセル車を連結して下りに転じる。闇夜を一晩疾走すると、翌朝はもう雪はなく、枯れ草の生えた平原が広がっていた。

サクラメントを出発して三日目の朝、ネヴァダ州を過ぎてユタ州に入った。車窓に巨大な湖が見え始めた。グレートソルトレーク(大塩湖)だった。

湖岸を走って、まもなくすると州都ソルトレイクシティが見えてきた。

このあたりは、内陸性の気候で冬の寒さが厳しい。岩倉使節団の一行が訪れた二月初旬は、厳冬期であり、気温はマイナス三十度まで下がることもあった。

おりしも大寒波に見舞われて、しんしんと雪が降り積もっていた。

宿舎となったのは、タウンゼントハウスという瀟洒な佇まいのホテルだった。大雪に震え上がった一行は、郊外の温泉を紹介され湯治に出かけて一息ついた。

ところが、ソルトレイクシティに戻ると、ロッキー山脈の大雪で出発の見込みがないと知らされる。旧暦では明治四年の年の瀬も押し迫った十二月二十八日のことだった。

ソルトレイクシティは、モルモン教、すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会の開拓者が築いた宗教都市だった。キリスト教の一派でありながら独自の教義を持つモルモン教徒は異端として迫害され、この地に逃れてきたという。市内には壮大な聖堂がそびえていた。

使節団は明治五年の年明けを地元の役人たちと宿舎のタウンゼントハウスで祝った。

足止めは十八日間におよんだ。復旧した鉄道に再び乗り込み、旅が再開したのは、二月二十二日のことだった。ロッキー山脈を超えるのに三日間を要し、ミズーリ湖畔のオマハに到着した。大陸横断鉄道は、ここでユニオン・パシフィック鉄道の管轄になる。

オマハを過ぎると、荒野や険しい山越えとは風景が一変した。ミズーリ州からイリノイ州に入ると、車窓に広がるのはトウモロコシ畑や果樹園が続く穀倉地帯になった。

二月二十六日の午後、使節団はシカゴに到着した。

当時のシカゴは、前年十月の大火からの復興途上にあった。見るべきものはたくさんあったが、途中の足止めで予定がだいぶ遅れていたため、二日間の慌ただしい滞在だった。

ニュージャージー州の名門、ラトガーズ大学に留学していた岩倉具視の子息たち、具定と具経が面会のため、出迎えにきていた。その夜、息子たちは、旧態依然とした父親の装束は文明開化をめざす日本の大使にふさわしくないと、強く非難した。

振り袖姿の女子留学生たちと共にエキゾティックな装束を賞賛されることに気を良くしていた岩倉具視だったが、その日のうちに断髪して服装もあらためた。

二十七日の夜、一行は再び汽車に乗り込んだ。ワシントンまでは、一昼夜の行程だった。

西海岸の出発からおよそ一ヶ月の長旅を経て、一八七二年二月二十九日、使節団は、ついにアメリカ合衆国の首都ワシントンに到着したのだった。

仙之助編十七の十

山口仙之助が乗船した太平洋郵便汽船のジャパン号が、金門海峡を抜けてサンフランシスコの桟橋に到着したのは、一八七二年二月十七日の朝だった。

japan号

牧野富三郎は、まめに新聞に目を通して、横浜からの定期航路が到着する情報に注意していた。仙之助から渡米を伝える手紙は届いていなかったが、必ずサンフランシスコに来ると信じて疑わなかった。

その朝は、とりわけ確信めいたものを感じて、富三郎は桟橋で待っていた。

最初に一等船客の紳士淑女が下船してくる。スティアリッジ(下級船客)の下船は最後だった。富三郎は、中国人移民らしきアジア人の群れを凝視した。そのなかに一人、場違いな紳士服に身を包んだ男がいた。目深に被った帽子を脱ぐと、涼やかな目元の若い男だった。
「もしや……、ああ、そうだ。間違いない」

富三郎は大声で叫んだ。
「おおーい、仙之助さん」

仙之助も気づいたようだった。驚いたような、ほっとしたような笑顔で手を振っている。富三郎は大きく両手を挙げて振り返した。

一八六九年の年明けにハワイで別れてから、三年ぶりの再会だった。
「仙之助さん、ますます立派になられましたな。見違えました」
「いや、格好だけですよ。富三郎も元気そうでよかった。サンフランシスコで会えることを期待してはいたけれど、迎えに来てくれるとは……

富三郎は三年前の感情の行き違いを思い出した。捕鯨船で出発する仙之助を見送りに行かなかった後悔はずっと心の片隅にあった。

そのわだかまりを消したい気持ちも込めて言った。
「当たり前じゃないですか。お待ちしていました」
「会えて……、よかった」
「ずっとずっと……、到着をお待ちしていました」

二人はおずおずと抱擁した。

中国人移民たちも迎えの同胞たちと大声で何かを言い合っていた。人の群れでごった返す桟橋をかき分けるようにして、富三郎は自分の部屋があるサクラメント通りをめざした。
「ホノルルよりも、小さくて汚いところでお恥ずかしいのですが」
「そんなことはかまわないよ。それより……、使節団の一行とはこちらで会ったのか」
「はい、お目にかかりました。岩倉様や伊藤様のようなお偉方とお話する機会がありませんでしたが、従者の若い方たちと親しくなりました。よく似たお名前の……
「本当か?もしや、私と仕立屋ですれ違った……
「はい、山口林之助さん、ですよね」
「そう、そうだ。林之助さん、彼と会ったのか」

仙之助は感慨深く、横浜での出来事を思い出した。

仙之助編十七の十一

岩倉使節団の話に興奮した仙之助は息せき切って、富三郎にたずねた。
「使節団の方々は、もうサンフランシスコを発ってしまわれたのか」
「はい、先月の月末にお発ちになりました。何カ所かで途中下車をされるとのことでしたが、おそらく今頃は東海岸に到着されているのではないかと思います」
「そうか、間に合わなかったな」

仙之助は、途方に暮れたようにうつむいた。

富三郎は、使節団の一行を見送ってから心に秘めていたことをつぶやいた。
「追いかけますか」
「追いかける?」
「そうです。使節団を追いかけましょう」
「どこに行けば会えるというのだ」
「ワシントンです。条約改正の交渉でしばらく滞在されるとおっしゃっていました」

岩倉使節団の一行は、その頃、ソルトレイクシティで雪に閉ざされて立ち往生していたが、もちろん富三郎と仙之助には知るよしもなかった。
「追いかけるのならば、一刻も早く出発しなければならないだろう」
「その通りです。大西洋を渡ってしまわれたら、どうしようもない」
「追いかけて、それからどうするというのだ」
「従者として一行に加えて頂くのです」
「そんな都合のいい話が通用するものか。一度は断られているのだぞ」
「ワシントンまで追いかけてきた同胞をむげに断るでしょうか」
「富三郎、本気でそう思っているのか」
「本気でなかったら、追いかけようなどと申しません」
「ならば、出発の前にせめてサンフランシスコの見物くらいさせてほしい」
「もちろんですとも」

外に出ると、突然、爆竹の音が聞こえてきた。聞き覚えのある音だった。横浜でも中国人たちは祝いごとがあるたびに爆竹を鳴らす。

爆竹

「おかしいな。正月はもう終わったはずなのに」

一八七二年二月十七日は旧暦の一月九日だった。
「今日、大勢の同胞が上陸したからではないか。船上で正月を迎えた時に爆竹が鳴らせないと彼らは残念がっていたからな」

景気の良い爆竹に誘われるようにチャイナタウンの食堂に入って腹ごしらえをした後、仙之助の希望で、使節団の宿舎だったグランドホテルに向かった。

威風堂々たる建物を見上げて、仙之助は小さくため息をついた。使節団の従者として、ここに出入りしていた自分を想像したからだった。もう一度、その可能性を掴みに行く。副使の伊藤博文と話した時の好感触が仙之助の気持ちを強くしていた。

仙之助編十七の十二

富三郎と仙之助が大陸横断の旅に出発したのは、サンフランシスコに到着して五日後の一八七二年二月二十二日だった。

岩倉使節団の一行は一等寝台車を借り切ったが、彼らにそんな贅沢ができないのは言うまでもない。仙之助は養父の粂蔵から貰った旅費があり、富三郎も多少の蓄えがあったが、無駄使いはできないと、ワシントンまで三等車の切符を購入した。

大陸横断鉄道の起点となるオークランド駅まで、サンフランシスコ湾を蒸気船で渡る。大海原とは違う、穏やかな内海の航海に仙之助は、新たな旅の始まりを実感していた。

オークランドの波止場は長い桟橋が特徴で、ここから鉄道に乗り込む。

三等車は固い木製のベンチが並ぶ簡素な車両だった。

鉄道沿線のどこかに働きに行くのだろう、簡素な服装の労働者が多かった。中国人らしきアジア人もちらほらいる。何組か家族連れの姿もあった。

ここでも紳士服姿の仙之助は目を引いた。駅員の一人が話しかけてくる。
「おや、学生さんかい?どこの国から来た?」

身なりがいいのに倹約していることから留学生と思ったのだろう。仙之助は、最初の問いかけは無視して、二番目の質問にだけ答えた。
「日本から来た、日本人だ」
「そうか。日本人か。雪で足止めされた一行の国だな」
「雪で足止め?何があったのか」
「二週間少し前に大雪が降って、鉄道がソルトレイクシティで止まったちまったんだ」
「ソルト?塩の湖とは何だ?」
「ソルトレイクという湖の畔にある都市さ。日本人のお偉いさん方の一行が乗っていて、そこに足止めになっていたらしい。お前さんたちは運がいい。やっと雪が止んで、今日から大陸横断鉄道が通常運行に戻ったところだ」
「じゃあ、日本人の一行は今日まで、ソルトレイクとやらにいたのか」
「昨日までは鉄道が動いていないんだから、そういうことだろうよ」

仙之助と富三郎は、思わず顔を見合わせた。

この大雪は、もしかしたら千載一遇のチャンスなのかもしれない。無言のうちに胸が高鳴るのを感じていた。使節団を追いかけるという無謀な冒険は、彼らの到着より前に使節団が欧州に向けて旅立ってしまえば意味をなさなくなる。少なくともそれは回避できる。

条約改正交渉にどれだけの日数を要するのかはわからない。仙之助と富三郎はもちろん、従者たちも、さらに言えば使節団の正使や副使たちでさえ、わからなかった。

だが、仙之助と富三郎にとっては、間に合うということがすべてだった。ワシントンで追いつける、いや、彼らが途中下車するのなら、ワシントンで待ち受けることができる。

その時、腹の底に響くような汽笛が停車場に響き渡った。大陸横断鉄道は、シエラネバダ山脈に向けて力強く出発した。

仙之助編十八の一

一八七二年二月二十九日は、小雪の舞う肌寒い日だった。

岩倉使節団の一行を乗せたペンシルバニア鉄道の車両が、汽笛を鳴らしてワシントンのユニオン駅に入ってきたのは午後三時過ぎのことである。

ホームには二人の人物が出迎えに来ていた。米国政府接待掛のマイヤース将軍とアメリカ駐在少弁務使(外交官)として一年前に着任していた森有礼もりありのりだった。

森は、一八六五(慶応元)年、薩摩藩の密航留学生としてイギリスに渡航した経験を持つ。長洲藩が派遣した伊藤博文ら五人からなる「長洲ファイブ」に対して、森や五代友厚ごだいともあつら十九人の若者たちは、「薩摩スチューデント」と呼ばれる。

いずれも密航の手引きをしたのは、薩長と近かった英国人貿易商のトーマス・グラバーである。伊藤と森は、ともに時期は異なるが、ロンドン大学のユニバーシティカレッジに聴講生として学んでいる。その後、薩摩藩の資金が尽きたこともあり、後見人だった英国下院議員ローレンス・オリファントの紹介で、彼が信奉する宗教家トマス・レイク・ハリスが創立した宗教共同体に参加するため、一八六七年にアメリカに渡った。明治維新の年に帰国してからは、新政府の外交の担い手となっていた。

ワシントンは、当時三十六州からなるアメリカ合衆国の首都であり、特別行政区だった。その全体を総称して「コロンビア特別区」と呼ぶ。略してワシントンDCである。

ユニオン駅は、その中心部であるナショナル・モールに位置していた。国会議事堂を中心に整備された公園がナショナル・モールである。象徴的建造物のひとつであるワシントン記念塔は、当時はまだ礎石だけであり、白亜のオベリスクは完成していなかった。

駅舎を出ると、丸いドームの偉容が天高くそびえる国会議事堂が視界に入る。

使節団の一行は、一様に感嘆の声をあげて見上げていたが、東海岸の大都会も見てきた彼らは、サンフランシスコに上陸した時のように驚く様子はなかった。

伊藤は、政治交渉の舞台に降り立ったことに武者震いを感じていた。
「長旅お疲れ様でございました」

森は、伊藤に声をかけた。
「まさか大雪で足止めされるとは思わなかったぞ」

そう言って豪快に笑った。
「知らせを聞いて案じておりました」
「だが、思案する時間ができたのは良かった」
「条約改正交渉でございますか」
「さよう。我々使節団としての姿勢と意思の統一をするのに、またとない機会となった。異国の地では思わぬ出来事があることはもう慣れておる」
「伊藤様は異国のご経験が豊富ですからな」
「何を申す。お前のほうがよほど経験は長かろう。頼りにしておるぞ」

伊藤は再び豪快に笑って、森の背中を叩いた。

仙之助編十八の二

首都ワシントンで岩倉使節団の宿舎となったのは、アーリントン・ホテルだった。一八六八年創業の最も格式あるホテルで、ホワイトハウスにも近い好立地だった。

サンフランシスコのような市民総出の熱狂はなかったが、数日後に迫った大統領の謁見に団員たちの気持ちは浮き立っていた。

第十八代大統領ユリシーズ・C・グラントは、南北戦争を勝利に導いた北軍の将軍であり、終戦まもない一八六九年に大統領に就任していた。

大統領謁見は、使節団にとって第一の目的である主要国への挨拶回りという意味において、初めての重要な任務だった。正使の岩倉具視もシカゴ以降、洋装にあらためていたが、謁見では団員全員が和式の正装で臨むことになった。すなわち、大使副使は公家の正装である衣冠束帯、書記官たちは武家の正装の直垂ひたたれである。その後の饗宴では、全員が洋礼装のディナージャケットを着用することに決めた。

伊藤博文だけは、もうひとつの目的に目が向いていた。不平等条約の改正である。

出発時は、本格的な交渉を想定していなかったものの、開化論者であった伊藤は、交渉の進展を常に心に秘めていた。各地での厚遇と、大雪で足止めされた際、使節団の総意をまとめた文書を起草したことで、思いは強くなっていた。

自分と同じ幕末の密航留学生であり、海外事情に長けた森有礼の意気軒昂な表情を見て、伊藤はあらためて心に炎が点るのを感じていた。

伊藤は連日、森を宿舎のアーリントン・ホテルに呼んで打ち合わせを重ねた。謁見や饗宴といった儀礼的な接遇だけでなく、条約改正交渉のための実務的な会合の設定を森に依頼したのである。幸い、率直な性格と積極性が評価された森は、着任早々から有能な外交官として認められていた。とりわけグラント政権の最長老であるハミルトン・フィッシュ国務長官に気に入られていた。

ホワイトハウスでの大統領謁見は、一八七二年三月四日の十二時から行われた。

グラント大統領との謁見

シャンデリアの輝く壮麗なホールに和装の使節団が並ぶ姿は、当地の新聞にも挿画入りで大きく報じられた。ワシントンでも少なからず日本の使節団は話題になった。

歓迎晩餐会は、一週間余りあけて、同じくホワイトハウスで三月十二日に開催されることになり、二日後の十四日に返礼の晩餐会を宿舎のアーリントン・ホテルで催すことになった。

フィッシュ国務長官との会合日程は、歓迎晩餐会の前日に決まった。

条約改正交渉を先導したのは伊藤と森だった。正使の岩倉具視も副使の木戸孝允、大久保利通も外交には疎かった。若く外国経験豊富な二人が言うのであれば、よかろうということになった。国内にいたら、また状況も違っていたのかもしれない。だが、各地での熱狂的な歓迎ぶりは、彼らの気持ちを押すのに充分なものがあった。

フィッシュ国務長官も、条約改正交渉の申し出を受け入れた。

副使の最年少で三一歳の伊藤と二五歳の森は、幕末以来の懸案である不平等条約の改正という重大任務に高揚していた。

仙之助編十八の三

伊藤博文と森有礼は、緊張した面持ちでフィッシュ国務長官との初めての折衝に臨んだ。親子以上に年の離れた極東の小国の若者を国務長官は、丁重に笑顔で迎え入れた。縮れ毛の顎髭をたくわえた温厚な紳士だった。
「先日は皆さま方をホワイトハウスにお迎えできて光栄でした。威厳ある服装に大統領もいたく感服しておられました」
「お褒めにあずかり光栄に存じます」
「さて、交渉に入る前に、あらためて伺うまでもないことではありますが、天皇の委任状はお持ちでしょうな」

伊藤の表情が変わったのを森は心配そうに見つめていた。
「いや、私どもは、天皇から委任された特命全権大使の使節団です。委任状など、なくとも我が国を代表する立場にあります。交渉に何ら問題はございません」
「それは困りましたな。交渉は国家間の重要な決めごとです。委任状がなければ、新しい条約の調印ができないではありませんか」

アメリカ側は、この時、翌年の大統領選挙を控え、他国に先んじて日本と改正条約を結ぶことで、選挙に有利な得点としたい目論見があった。

伊藤と森は顔を見合わせた。日本側にとっては、想定しない展開であった。
「改正条約の……調印ですか」
「貴国もそれをお望みでしょう」

フィッシュ国務長官は、温厚な表情を崩さずに、しかし毅然と、委任状無しの交渉は一切受け付けてくれなかった。一方で、条約改正の千載一遇の機会とも言えた。このまま、委任状がないからと引き下がるのは惜しい。

宿舎に戻った伊藤は、ことの顛末を正使副使の面々に告げた。条約改正を何としてでも成し遂げたいという伊藤の意見は、国内であったなら退けられていたかもしれない。しかし、使節団の一行には、グラント大統領との華々しい謁見の余韻が残っていた。しばし重い沈黙が流れた後、岩倉具視が口を開いた。
「委任状を、取りに帰るしかないだろう」
「誰か書記官を派遣するか、いや……

伊藤は、対峙する意見も多い留守政府に委任状を出させるのが簡単なことではないことに気がついて、言葉がつなげなくなった。
「仕方あるまい、私が、参ろう」

伊藤に続いて、木戸孝允も声をあげた。

こうして前代未聞の副使二名の緊急帰国が決定になった。

一度の航海であっても水杯を交わすような時代のことである。一度帰国して再び太平洋を渡ることの途方もなさは想像を絶した。それでも伊藤は、千載一遇の機会を生かすには他に方法はないと覚悟を決めたのだった。

仙之助編十八の四

仙之助と富三郎を乗せた大陸横断鉄道は、岩倉使節団の後を追うようにシエラネバダ山脈に向かった。機関車を増結した汽車は、そそり立つ山腹を蛇行するように走行し、トンネルやスノーシェッド(雪崩除け)をくぐり抜けて、最高地点のサミット駅に到着した。

使節団を足止めした大雪は一段落していたが、標高二一〇〇mの高地にある駅はなおも深い雪に包まれ、駅に降り立つと、身を切るような寒さだった。

神奈川生まれの仙之助にとっては、初めて見る雪景色だった。捕鯨船でカムチャッカを航海したことはあるが、季節は夏だった。仙台藩出身の富三郎はまだ雪には慣れていたが、温暖な土地の暮らしが長く、仙之助同様、久しぶりの寒さに震えあがっていた。

一等車の乗客たちは駅舎の食堂に入っていく。三等車の乗客にも食堂の入り口で得体の知れない具材を煮込んだスープが販売された。湯気のあがる椀を抱えて人心地ついた。

温かい食事が人の心を和ませたのか、いかつい労働者ふうの男が話しかけてきた。
「お前さんたちは、中国人かい?」
「いえ、日本人です」

男は、耳慣れない国名にぽかんとしていた。アジア人といえば、大陸横断鉄道の工事労働者など、移民として大量に流れ込んできた中国人しかいなかった時代のことである。
「三等車に不似合いないい身なりをしているから、どんな素性なのかと思っていたよ。どこまで行くんだい」
「ワシントンです」
「こりゃ驚いた。行き先も俺たちとは偉い違いだ」
「どちらまで行くのですか」
「ネブラスカのオマハで降りて、そこからテキサスをめざす」
「テキサス?」
「牛で一儲けしようと思っているのさ。もう金鉱の時代じゃない」

好奇心の強い仙之助は、身を乗り出してきた。
「牛で一儲けとはどういうことですか」
「テキサスには、野生の牛がいくらでもいるらしい。そいつらを捕まえて、鉄道駅まで連れていけば、大金になるという訳さ。ちっぽけな砂金を探すより、でっかい牛を捕まえるほうがいいと思わないか」

ゴールドラッシュが終わった一八七〇年代のアメリカで一攫千金の夢をかなえられるものが牛だった。牛を鉄道駅まで連れて行くことをロングドライブと呼んだ。牛に投資すると、どれだけ儲けられるかといった話が新聞を賑わせていた。いわゆる「牛のロングドライブ」の時代である。背景には大陸横断鉄道の開通があった。東海岸で肉牛の需要が高まったこともあり、テキサスの牛は、東海岸では十倍の高値がついたという。牛が野生で元手がかからなければ、まさにボロ儲けとなる。鉄道駅の周辺は大金を手にした男たちで沸き返った。それこそが西部劇に描かれるカウボーイだったのである。

仙之助編十八の五

大陸横断鉄道は、最高地点のサミット駅でラッセル車を連結すると下りに転じた。

まもなく日が暮れ、汽車は暗夜を疾走した。夜が明けると、窓の外には平原が広がってきた。もう雪はない。枯れ草ばかりが生えている荒野に竪穴式の住居が点在していた。

マックスと名乗る労働者ふうの男は、好奇心に溢れた仙之助がいたく気に入ったようで、サミット駅からは隣の座席にきて何かと話しかけてきた。仙之助も興味津々にいろいろな質問をする。窓の外の風景と共にアメリカという広大な国土の実像が目の前にどんどんと開けていくようで、心が躍った。
「あの住居には人が住んでいるのですか」
「ああ、インディアンの住居だ」
「インディアンというのは?」
「この土地に古くから住んでいる野蛮な奴らだ」

住居から出てきた人々の顔が自分たちとよく似たアジア系であることに、仙之助は言葉を失った。
「アメリカ大陸はもともと彼らの土地だったのですか」
「さあな。テキサスのロングドライブもそうだが、奴らの妨害をどうかわすかが重要なんだ。だから、俺たちは銃で武装する」

マックスの言葉に仙之助は複雑な気持ちになった。インディアンと呼ばれる人々が侵入者を妨害するのは、自分の土地を自衛するためではないかと思ったからだ。コロンブスがアメリカ大陸に来たとき、インドと思い込んでいたことから、当時のアメリカでは先住民をインディアンと呼んでいた。
「あなたも銃を持っているのですか」
「もちろんだとも。西部開拓者に銃は必需品だよ」

そう言って、荷物の中に入っているライフル銃を見せてくれた。

ウィンチェスターライフル

一八六六年に製造開始されたウィンチェスターライフルだった。馬や幌馬車に乗ったまま連射が可能だったことから保安官のみならず民間人にも人気が高かった。西部開拓時代を象徴する銃とも言われる。

仙之助は、目を丸くしてライフル銃に見入った。

岩倉使節団の後を追いかけることだけを考えて海を渡ってきたが、アメリカ大陸には、太平洋とは、全く違う世界があることを知って驚愕した。世界はなんと広いのだろう。
「俺の親父は、カリフォルニアで金を一山当てることを夢見ていた。だが、夢かなわずに死んじまった。俺も金鉱を掘り当てる夢をさんざ見たさ。だがな、この大陸横断鉄道ができて、時代は変わったんだ。俺はカウボーイになって一発当てる」
「カウボーイ?」
「俺のような牛を扱う勇者のことだよ」

マックスは自信満々の表情で笑った。

仙之助編十八の六

大陸横断鉄道は、ソルトレイクシティを経てネブラスカのオマハに到着した。

酷寒の山岳から荒野を進むルートだが、三等車であっても窓には二重ガラスが入っており、ストーブが焚かれていたので、思いのほか快適な旅だった。
「じゃあな、道中気をつけて行けよ」

マックスは、陽気に手をあげて言うと、仙之助の背中をポンポンと叩いた。
「そちらこそ気をつけて。カウボーイの幸運を祈ります」
「ハハハハ、ありがとよ」

オマハを過ぎると車窓の風景が変わった。

手つかずの荒野が人の手が入った土地に変化してゆく印象だろうか。木立の間に瀟洒な白壁の家が見える。馬車が行き交う様子も見える。牛を放牧する牧場も見える。

マックスが向かったテキサスは、この鉄道の沿線からは遠いようだが、この国ではよほど牛が重要なものらしい。仙之助は、横浜でも異人たちが牛肉と牛乳を手に入れるために躍起になっていたことを思い出した。
「そうか、牛か」

独り言のように仙之助がつぶやいたのに、富三郎が答えた。
「仙之助さんは、牛の話がよほど気になっておられるようですね」
「今は牛の時代だと言われるとね、やはり気になるよ」
「捕鯨船でクジラを追いかけた仙之助さんであれば、カウボーイとやらになってもおかしくはないですが。とはいえ、まずは岩倉使節団ですよ」
「もちろんだとも」

まもなく車窓の風景は、一面のトウモロコシ畑になった。

ミシシッピ川からミズーリ川に沿った地域は湿地帯でトウモロコシの栽培に適していた。トウモロコシは先住民の主食であり、西部開拓者たちの食糧でもあった。

ミシシッピ川にかかった長い橋を渡ると、まもなくシカゴに到着する。

シカゴは前年の一八七一年に大火があった。人々がグレート・セントラル・ステーションと呼ぶ中央駅も被害はあったが、駅舎はそのまま使われていた。

仙之助も富三郎も初めて見る東海岸の大都会に目を奪われた。ここで、また多くの人たちが下車し、三等車にも新しい顔が乗車してきた。

その時、プラットフォームをぼんやり眺めていた仙之助が大きな声をあげた。
「おい富三郎、あれ、あれを見ろよ」

指さした先に一等車の乗客らしい一団がいた。誰もが整った身なりをしていたが、周囲の人たちより背丈がひとまわり小柄なのが目を引いた。一行の中には西洋人の貴婦人もいて、隣に洋装の少女たちがいる。ひときわ幼いひとりがこちらを振り向いた。少女はアジア人だった。
「あの一行は岩倉使節団じゃないのか」

仙之助編十八の七

岩倉使節団と思われる一行は、仙之助と富三郎が乗る三等車の前方方向に連結された一等車の方向に消えていった。まさかの展開に二人は顔を見合わせた。

一等車の車両に駆け込みたい衝動にかられたが、三等車と行き来は出来ない。

呆然としている二人の耳元に、突然、日本語が聞こえてきた。

英語ではない。どこか見知らぬ国の言葉かとも思ったが、そうではない。

振り返ってみると、和服姿の日本人の一団だった。小さな子どももいる。だが、先ほどプラットフォームで見かけた貴婦人に引率された洋装の少女たちとは様子が違う。いったい彼らは何者なのだろう。

仙之助と富三郎を見た彼らもまた、驚いた表情でぽかんとしている。二人は言葉を発した訳ではなかったが、服装などから中国人ではないと直感しているようだった。

意を決した仙之助が口を開いた。
「もしや、日本のお方でいらっしゃいますか」

年長者とおぼしき男が答えた。
「こりゃあ、驚いた。こんなところで、またもや、日本人に会うとはねえ」
「またもやと言いますと……
「お偉方のご一行ですよ。つい先ほど、駅の構内でお目にかかりやした」
「私どもも車窓からお姿を拝見しました。何か話をされましたか」
「めっそうもない。うちらのような軽業師とは身分が違いまさあ。土下座こそしませんでしたが、お通りになる間、ずっとお辞儀をしておりました」

男の隣にいた年かさの女が口を開いた。
「しかし、こんな奇遇なことがあるかねえ。お前さんたち、どちらまで行きなさる?」
「私どもはワシントンまで参ります」
「これまた驚いた。私らも次の興業はワシントンでさあ」
「本当に奇遇ですね」
「ワシントンにはどのような御用向きで?」

仙之助と富三郎は顔を見合わせた。岩倉使節団を追いかけることしか考えていなかった彼らは、そう問われると返事に窮してしまった。富三郎は、しばし間をおいて答えた。
「私どもは商人です。新しい商売を探しにきました」
「ほお、なるほど。ならばパリッとした身なりが必要ですな」
「ですが、旅費は倹約しておりまして。ところで、皆さま方は?」

彼らはお互いに目を見合わせると、英語で決め口上を言った。
Ladies and Gentlemen, We are Royal EDO Troupe(紳士、淑女の皆さま、私どもはロイヤル江戸劇団でございます)」

すると、他の乗客たちも振り向いて一斉に拍手が沸き起こった。口笛を吹いてヤジを飛ばすものもいる。車内は、瞬く間のうちにロイヤル江戸劇団の陽気さに包まれた。

仙之助編十八の八

幕末から明治期にかけて、いち早く海を渡った日本人で数が多かったのが軽業師や曲芸団だった。開国にともない、一八六六に正式に旅券発給が始まった時も、第一号は墨田川浪五郎という曲芸団の一員だったと記録に残っている。

たとえば、幕末期に海外で活躍した軽業師で歴史に名を残しているのは、早竹虎吉である。

軽業師早竹虎吉

京都生まれで、関西で評判を博した後、幕末の一八五七年(安政四)年に江戸にやって来て両国で興行を始めるやいなや、たちまち人気を博した。歌舞伎仕立ての衣装をまとい、独楽や手品の手法を取り入れた豪快な舞台は、興行のみならず、曲芸の様子を描いた錦絵も大人気となった。虎吉が得意としたのは、長い竿を用いた曲芸だった。

その人気をもって、一八六七(慶応三)年、虎吉は三〇人ほどの団員と共に横浜からサンフランシスコに渡り、全米各地を興行したのである。

仙之助たちが遭遇したロイヤル江戸劇団は、運動神経の巧みなメンバーが揃っていた。その能力を見込まれたのだろう、巡業中のアメリカで野球の手ほどきを受けた。

そしてワシントンに滞在中、運命の巡り合わせで、大リーグの前身にあたるナショナル・アソシエーション所属の地元球団オリンピックスと対戦することになる。

当時のアメリカは、野球の黎明期だった。スポーツとしての野球のルールが確立されたのは一八四五年のことであり、それに則って、翌年、ニューヨークのマンハッタンで開催されたのが、野球の事始めとされる。こうして北部で始まった野球は、南北戦争で南部にも広まり、国民的スポーツになっていった。

一八七二年二月二十九日、岩倉使節団だけでなく、ロイヤル江戸劇団、そして仙之助と富三郎、さまざまな背景を持った日本人たちは、期待と希望を持って、小雪舞うワシントンのユニオン駅に降り立ったのだった。

下車は一等車の乗客が優先だった。日本からの賓客が到着と言うことで、二等車と三等車の乗客は、しばし車内に留め置かれた。

せっかくの幸運を逃さないために、できれば駅舎内で岩倉使節団に声をかけたいと、仙之助と富三郎は、居てもたってもいられない気持ちでうずうずしていた。だが、いよいよ下車の段になって、ロイヤル江戸劇団の連中が、演目に使う太鼓が見当たらないと大騒ぎを始めた。二等車から興行主がやってきて、三等車の乗客を疑い始めた。一刻も早く下車したい乗客たちが、あらぬ嫌疑までかけられて苛立ったのは言うまでもない。車内は一触即発の状況になった。

興行主は仙之助と富三郎にも疑いを向けたが、それは年長の男が取りなしてくれた。

結局、太鼓は、持ち主がいつもと違う荷物の中に押し込んでいたことがわかって一件落着となったが、大騒ぎのせいで、ロイヤル江戸劇団とも後味の悪い別れとなった。

ようやくユニオン駅に降り立つと、すでに駅舎内に一等車の乗客はいなかった。

岩倉使節団の一行は、馬車で出発した後だった。

仙之助と富三郎は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

仙之助編十八の九

駅舎を出ると、目の前に国会議事堂の偉容がそびえていた。

午後四時近く、だいぶ日が長くなってきたとはいえ、小雪混じりの天候で、あたりはもう薄暗くなっている。それでも、白亜のドームの美しさは圧倒的で、仙之助と富三郎は、この先の不安も忘れて、しばし言葉もなく見上げていた。
「ついに来てしまいましたね」

沈黙を破って富三郎は、仙之助に話しかけた。
「夢でも見ているような気がする」
「でも……、千載一遇の機会を逃してしまいました」
「大丈夫ですよ。このワシントンに岩倉使節団がいるのは事実なのだから、日が暮れる前に、泊まるところを見つけましょう。この寒さで野宿などしたら凍えてしまう」
「そうですね」

二人は駅員に聞いた手頃な値段の宿があるという界隈をめざした。寝台だけがおかれた粗末な部屋に落ち着つくと、仙之助は思いついたように富三郎に聞いた。
「そういえば、サンフランシスコでは、どうやって岩倉使節団の方々に会ったのか教えてほしい。慌ただしい旅立ちで肝心なところを聞いていなかった」
「あの時は、街中が岩倉使節団を迎えてお祭りのような状態で、当たり前のように岩倉様が宿舎のバルコニーに出てくるのを見に行ったのです。噂でそれとなくわかったというか」
「あのグランドホテルか。街一番のホテルだと言っていた」
「そうです」
「それだよ。富三郎、ワシントンで一番のホテルを探せばいい」
「その後、従者の山口林之助さんと偶然会ったのも、グランドホテルの前でした」
「そうだろう。ホテルの前にいれば、必ず岩倉使節団と会う機会がある」

翌朝、仙之助は思いついて、昨日、降り立ったユニオン駅にもう一度行ってみることにした。あらゆる人が降り立つ駅であれば、街一番のホテルもわかるに違いない。

駅舎の構内をうろうろしていると、見覚えのある駅員に出くわした。
「昨日はありがとうございました。おかげさまで助かりました。ところで、つかぬことを伺いますが、ワシントンで一番のホテルはどこですか」
「おいおい、どうしたのだ。一晩で大金を儲けたのか」
「いや、そういう訳ではありませんが」
「お前さん、もしかして、昨日、到着したお偉方の国の出身なのかい」
「はい、そうです」
「なるほど。ワシントンにやってくるお国を代表する方々が泊まるのは、アーリントンホテルというところだ。昨日の方々もそちらにお泊まりのはずだよ」
「アーリントンホテル、アーリントンホテルですね」

仙之助は、何度も繰り返して、記憶に刷り込んだ。

続く

次回更新日 

著者について

山口由美

山口由美やまぐち・ゆみ

1962年神奈川県箱根町生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。海外旅行とホテルの業界誌紙のフリーランス記者を経て作家活動に入る。主な著書に『アマン伝説 創業者エイドリアンゼッカとリゾート革命』『日本旅館進化論 星野リゾートと挑戦者たち』『熱帯建築家 ジェフリー・バワの冒険』など。

この小説について

著者・山口由美からのメッセージ
思えば、物書きになりたいと思った原点が、出自である富士屋ホテルの存在だったかもしれません。高校生の頃、母の従姉妹に当たる作家の曽野綾子に、このテーマは書かないでほしいと懇願した過去を恥ずかしく思い出します。彼女自身の処女作『遠来の客たち』の舞台もまた、富士屋ホテルでした。
そして最初の単行本『箱根富士屋ホテル物語』が生まれたのですが、本当に自分が書きたいものはまだ完成していない、という想いを長年持ってきました。
小説は2000年代前半に何篇か商業誌に発表したことはありますが、久々の挑戦になります。いろいろと熟考しましたが、ノンフィクションノベルというかたちが、最もふさわしいスタイルだと思うに至りました。物語の種は無限にある題材です。長い連載になるかもしれません。
おつきあい頂ければ幸いです。

住まいマガジン びお