“Families” on the move
移動する「家族」の暮らし方

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スパイスと祭壇
ネパールから来たビサールさんの物語(3)

団地の商店街でインド・ネパール料理店を営むビサールさんの住まいは、店内の階段を上がった2階部分だ。取材のために店に通っているうちに、ビサールさんは私たちを自宅に招待してくれた。2階のドアを開けるとすぐ左側にキッチン、正面に浴室とトイレ、右側の手前に居間、奥に寝室がある。妻のサビナさんが、キッチンから「おはようございます!」と元気な声で迎えてくれた。キッチンの壁側の机の上に、豆のスープ、野菜のピクルス、炒めた野菜、チキンなどが盛られた皿が並んでいた。私たちをもてなすために、サビナさんとビサールさんが、朝から時間をかけて準備してくれたものだ。部屋中からスパイスの香りがした。

私たちが到着するとすぐに、サビナさんが鍋に、牛乳、茶葉、しょうが、スパイス、砂糖を入れて煮出したチャイを作ってくれた。客人が来たら最初に出すのがチャイだという。居間には、娘のソフィアちゃんとサビナさんの親戚のおばさんがいた。おばさんは日本に遊びに来ていて、1ヶ月間滞在するそうだ。ソフィアちゃんは興奮気味で最初は落ち着かなかったが、私たちがカードゲームをプレゼントするとすぐにそれで遊び始めた。居間のテレビには、ネパールの女性たちが、色とりどりの華やかなサリーを身にまとい、踊っている映像が流れていた。その音に合わせて、おばさんも楽しそうに踊り出した。寝室近くの壁に、ヒンドゥー教の神様であるシヴァ、パールヴァティー、ガネーシャが描かれたタペストリーが飾られていた。その下には、手作りの祭壇があった。ごはんが炊けると最初の一口を神様に供えるのだと言って、ビサールさんがごはんとおかずを少しだけ乗せた皿を祭壇に置いた。

hindu alter

手作りのヒンドゥー教の祭壇

食事の準備ができると、ビサールさんが居間に私たちのための座布団を用意してくれた。テーブルはない。ビサールさんは、「これがお客さん用のお皿」と言って、金色の皿の上に、ごはん、ピクルス、炒めた野菜、チキンを盛りつけ、豆のスープ、マトンの煮込みが入った小さな皿と一緒に、じゅうたんの上に並べた。サビナさん、ソフィアちゃん、おばさんは後から食べるから、先に食べてくださいと言う。これがネパール式の客人のもてなし方のようだ。スプーンで少しずつ食べ始めた私たちに、おばさんが、身振り手振りで食べ方を教えてくれた。スプーンは使わずに右手で、ごはん、野菜、肉類、スープをすべて混ぜながら食べるのが良いということらしい。不思議なもので、教えてもらった通りのやり方で食べると、スプーンでごはんやおかずを別々に食べるよりおいしい気がした。辛いもの、甘いもの、すべてが混ざると、それぞれの味の強さが中和して、ちょうど良いバランスになった。私たちは一家の家庭料理ともてなしに、すっかり魅了された。

nepalese cuisine

ビサールさん宅でふるまわれた料理

ビサールさん宅で過ごした半日間、私たちは日本から離れてネパールを旅したような気分を味わった。典型的な日本の団地の間取りに、ネパール式の暮らしの光景が広がっていた。日本語を流暢に話し、地域の慣習を学び、人びととの交流を大切にして、日本の社会に溶け込んでいるビサールさんだが、自宅では故郷の暮らし方を守っている。この先また別の場所に移住することになったとしても、チャイや料理に使うスパイスと、ヒンドゥー教の祭壇は必ず持って行くと話していた。自分にとって心が休まる、くつろぐことのできる「Home(家)」をつくるには何が必要なのか。ビサールさんは、その答えを知っているように見えた。別れ際に、私たちが感謝の気持ちを述べると、サビナさんが「来てくれてとても嬉しい」と微笑んだ。おばさんは、「ネパールに来なさい。その時は、ホテルを予約する必要はないよ」と言ってくれた。

著者について

大橋香奈

大橋香奈おおはし・かな
慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科 後期博士課程在籍。女子美術大学非常勤講師。
1981年藤沢市生まれ。大学卒業後、メーカー勤務を経て、フィンランドで3年近く暮らす。国内外で20回の引っ越しを経験し、「移住」の経験と「家族」のあり方に興味を持つように。現在は、国境を越えて移住した人びとが、どのように母国(あるいは他国)にいる「家族」とのつながりを維持しているのか、映像を用いて調査研究を進めている。

連載について

大橋さんは、『移動する「家族」』をテーマとする研究者。「家族」のあり方が時代とともに変化し、私たちの生活は「移動」なくしては語れないものとなり、住まいのあり方自体も問い直される時にあります。大橋さんがテーマとする「移動」も「家族」も、これからの住まいを考えるうえで欠かせないものです。今を生きる私たちにとって、誰とどんなコミュニケーションをとりながら「家族」という関係を築き、どんな住まいで暮らすことが理想でしょうか。この連載では、その答えが一つではなく一人ひとり異なることを教えてくれます。