太陽にまつわるエトセトラ
第3回
太陽が人間の歴史を作った。マウンダー極小期の詩人たち
松尾芭蕉が見た捨て子
1684年旧暦8月、松尾芭蕉は江戸を出発し、東海道を通って故郷である伊賀上野へ赴いた。この旅の様子をつづった紀行文「野ざらし紀行」には捨て子についての文章がある。
富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。
小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに猿を聞人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父に悪まれたる歟、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。
引用が長くなった。芭蕉一行は静岡県の富士川までたどり着いたときに川辺に捨て子を見る。そのとき芭蕉は捨て子に食べ物を投げ与え
「父はおまえを憎んでいない、母もおまえを疎んでいない。運命なのだから、ただおまえの力が弱いのを泣け」
と言い捨てて立ち去った。もちろん、この捨て子のくだりは芭蕉の創作かもしれない。しかし旅人が一人の捨て子にかかわっていられないほど、この時期の日本で捨て子が問題になっていた。
捨て子が社会問題化していたことは、3年後の1687年に徳川綱吉によって出された「生類憐みの令」が捨て子に言及していることも分かる。
捨て子これ有り候はば早速届けるに及ばず、其所の者いたはり置き、直に養ひ候か、又は望の者これ有り候はば遣はすべく候。急度付届けるに及ばず事。 『正宝事録』
1690年には単独の捨て子禁令が出される。当時、捨て子が社会問題となっていた日本列島はどのような状況におかれていたのだろう?