“Families” on the move
移動する「家族」の暮らし方
第9回
旅先で「住むこと」について考える
先日、1泊2日の出張でホテルに泊まる機会があった。一晩寝るだけだからと、あまりよく考えずに、仕事をする場所の近くの駅前にある格安ビジネスホテルを予約した。部屋の写真を確認しないまま、出張当日を迎えた。仕事の後、お世話になった方々との会食を終えてから、21時頃ホテルにチェックインした。案の定、私が通されたのは何の変哲もないシングルルームだった。「ビジネスホテル」ということばから想像した部屋の広さ、ベッドの大きさ、ユニットバスのつくり、調度品の数々……。予期したとおりのしつらえだった。だから、感動も落胆もしなかった。寝る前にインターネットでこのホテルに対するクチコミ評価を調べてみると、多くの人が「ふつうだった」と書いていた。驚きのない「ふつう」の部屋に、私は一応の安心感を覚えて眠りについた。
翌朝、ホテルが提供する「無料朝食」を食べにラウンジへ向かった。中央のテーブルに、スーパーやコンビニで売っている既製品と同じような見た目のパンやハム、カット野菜が数種類置かれていた。手作りのものはひとつもなかった。「無料朝食」だから、ぜいたくは言えない。ありがたくいただいた。食後のコーヒーを飲みながら、ふと考え始めた。ここに長く滞在する、あるいは住むことになったらどうだろう。一晩泊まるだけなら気にならないことが、あれこれ気になり始めた。足りないものが、次々と思い浮かんだ。「旅する」から「住む」と想定を変えるだけで、同じ空間が違って見えるのだから不思議だ。
自宅に戻ってから、本棚を眺めた。「旅すること」から「住むこと」について考えをめぐらせるための、具体的なヒントを与えてくれる本が2冊あったことを思い出した。1冊目は、『旅はゲストルーム』(浦一也、2004)。この本は、以前ふらりと入った、旅をテーマにした文房具店で見つけてすぐに購入した。建築家でありインテリアデザイナーである著者は、旅先でゲストルームに滞在するたびに、その部屋のありようを細部まで観察、記録する。部屋の平面や断面、家具や備品、それぞれの色彩まで調べ尽くし、それを備え付けのレターペーパーに50分の1の縮尺で記録する。最後に水彩絵の具で着色するところまで済ませなければ、くつろぐことができないのだという。2004年時点で26年間継続し、20カ国以上、120ホテルの実測図がたまったそうだ。本書には、そのうちの69室が掲載されている。美しく緻密な実測図、ときおり添えられている鮮やかな風景画、ホテルや滞在地にまつわる歴史や、現地での出来事の記録。読んでいると、個性的なゲストルームに滞在する旅への憧れをかきたてられるとともに、自分が住んでいる場所との違いを考えさせられる。
2冊目は、『さまざまな空間』(ジョルジュ・ペレック、2003)。日本語版が出版されたのは2003年だが、原著が出版されたのは1974年だ。40年以上も前に書かれた本なのに、その内容は今読んでも古くさくなく、一気に読んでしまった。ペレックはユダヤ系移民で、戦争孤児として育ったフランスの作家だ。ひとつの場所にとどまらないで生活をしてきたことが、彼の作品に大きな影響を与えている。本書で彼は、「空間」と呼ばれているものを、いかに多様にとらえたり描いたりできるかを考えている。その中で「ある部屋に住むとはどういうことだろう」と問うている。彼は、そうした思索の過程で、過去に自分が「眠った場所」についてできるだけ正確で完全なリストを作成したのだが、その数は200個近くになったという。私は建築や空間デザインの専門的な知識や技術はないので、『旅はゲストルーム』で実践されているような方法で観察や記録をすることはできないが、ペレックのように過去に自分が「眠った場所」をリストアップして「住むこと」について考えることならできそうだ。「ほんのちょっと過ごしただけの部屋からよみがえってくる思い出こそが、ぼくに思いがけないひらめきをもたらしてくれるはずなのだ」というペレックのことばが、力を与えてくれる。