物語 郊外住宅の百年
第1回
小林一三とエベネザー・ハワードのこと
小林一三ってどんな人?
その昔、星セント・ルイスという漫才コンビが、「田園調布に家が建つ」というフレーズによって一世風靡したことがある。このコンビの結成は1971年だった。日本が高度経済成長に向かう時期にあたり、内閣府が実施した「国民生活に関する世論調査」で、自分達の生活レベルは「中の中」と回答した人が61%を超えた時期であった。
「中流意識」の持ち主は、郊外に「庭付き一戸建住宅」を持つことが夢だった。この昂揚した気分をつかみ出し、笑いにしたのが、星セント・ルイスだった。笑いというより、ブラックユーモアめいたものがあって、その自嘲が視聴者のこころに響いたのだった。人々は笑うしかなかった。
今となっては、実態のない「中流」であったけれど、そこに駆り立てた背景を追うと、小林一三という人が考えたことに行き着く。
小林一三は、1873(明治6)年に生まれ、1957(昭和32)年に亡くなった。一方、エベネザー・ハワードは、1850(嘉永3)年の生まれである。ハワードは、1928(昭和3)年に亡くなったので、小林は、ハワードより23年遅く生まれ、29年長く生きたことになる。
2人が異なるのは、ハワードが事業を興したのが初老に達した後であったのに対し、小林は若干34歳(1907年)にして、跳躍台になる箕面有馬電気軌道の経営に参画したことだ。実働面では少しハワードが先んじているけれど、括りとしては、ほぼ同時期に事をなした人と見てよい。
小林は、阪急電鉄・宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者として知られる。山梨県巨摩郡河原部村(現在の韮崎市)の生まれで、実家は甲州で五本の指の一つに数えられる豪農であり、酒と絹の問屋を営む商家だった。小林の母フサは、小林家の家付きの娘だったが、一三を生んだ年に病死し、父は離縁を強いられて実家に帰された。このため一三は、おじ夫婦に引き取られ、複雑な幼少時代を過ごした。
一三という名は、彼が1月3日生まれであったことに由来するが、本人はこの名前を気に入っていて、『小林一三 時代の十歩先が見えた男』(北康利著、PHP刊)に、「私は一、二でスタートしない。自分の名前通り、一、三でスタートするから人より早い」と得意気に語っている。
わたしの名前は、小林一三と一字違いである。父が神戸で仕事をしているとき、小林一三と肩が触れ合う程度の付き合いがあり、小林にあやかって一三と命名したという話を母から聞いたことがある。というわけで、個人的には、因縁浅からぬものを感じている。
小林は慶應義塾を経て、三井銀行(三井住友銀行の前身)に勤務した。
彼の銀行時代は、昇進の見込みがないダメ社員といわれ、調査課主任の仕事に燻っていた。34歳になって、かつての上司から、新たに設立される証券会社の支配人にならないかという誘いを受け、銀行を退職した。しかし、間が悪いというのか、折から金融恐慌が勃発して証券会社の設立は立ち消えてしまい、妻子を抱えて街頭に放り出されてしまったのだった。
このあたりの事情は、NHKが放送開始90年を記念して制作した3部作の一つ、『経世済民の男 小林一三~夢とそろばん』に活写されている。小林一三に扮したのは阿部サダヲだった。この役者のキャラクター(NHKの大河ドラマ『平家物語』では、争乱の時代を暗躍する藤原信西を演じ、『女城主直虎』では徳川家康を演じている)によって、小林一三のドラマでは、主人公の身勝手さと彼のアクの強さがよく表現されていた。
NHKの番組紹介の記事は、「小説家志望で落ちこぼれの銀行員だったが、ビジネスと人生の師に出会って事業の面白さに目覚め、独創的な手段で弱小電鉄を大企業へと成長させた。“こういう暮らしをしたい”という庶民の夢を的確にとらえ、最後まで夢見ることを大切にした彼の波乱万丈の生涯を描く」というものだった。
ちなみに後の2本は、日本の財政の基本を敷いた高橋是清と、電力の鬼、松永安左エ門だった。つまり、小林一三は近代日本をつくり上げた3人の「経世済民の男」のうちの一人に数えられるのである。
しがないサラリーマンだった一三をして、「世を經め、民を濟う」男に仕立てたものは一体何だったのか。
この人物がその歩みのなかで、くっきりと変化を見せたのは、電鉄事業の箕面有馬電気鉄道に関わったことだった。これを機会に、小林一三は大変貌を遂げた。