びおの七十二候

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竹笋生・たけのこしょうず

竹笋生

竹笋生と書いて、たけのこしょうず、と読みます。竹笋たけのこが生えてくる時季をいいますが、あらわに出てくる竹の新芽という点において、筍と竹笋は同じ意味であり、中国語でいう「笋(sǔn)」は、筍の異体字です。雨後のたけのこは、中国語では「雨后春笋」と書きます。
たけのこを食用にしているのは、日本、中国、韓国です。日本では、「竹笋」という文字よりも、「筍」を多用します。
しかし、食材としての筍は、日本ではこの時季にはもう旬を過ぎています。大きく成長し、ぐんぐん空に向かって、竹になるべく成長を遂げている時季であって、この候を「竹笋生」というのは、かなりズレているのではないか、と思われる人が多いかもしれません。
この理由は何なのか? 
「びお」編集部で調べたところ、一つは、この記事でご紹介している七十二候の出典が「本朝七十二候」に拠るからではないか、と考えました。「本朝七十二候」がつくられた江戸時代は小氷期しょうひょうきでした。地球全体が、現在よりも少し寒い時期にあたります。最近はヒートアイランド等の影響もありますので、かなり暖かくなっているものと考えられます。ここ数年はそれが顕著で、芍薬の花の開きは例年よりも、ずいぶんと早かったようです。数十年という単位でみると、それはいっそう際立っています。したがって、旬をはじめ植物たちは、みな当時よりも早く活動を始めているのではないか、それが季候上のズレを生んでいるのではないか、というわけです。
しかし、旧暦と現在の暦とは、もともと一カ月近くズレていますので、旧暦の五月は、現在の暦ではおおよそ六月にあたります。いかに地球温暖化とはいえ、このズレは大き過ぎるのではないか。そこで、もう少し調べてみよう、ということになりました。分かったことは、「竹笋」は真竹まだけだったからではないか、ということでした。
現在、日本で食用されているたけのこは、孟宗竹もうそうちくの若い茎が中心です。中国江南地方原産の孟宗竹(江南竹と呼んでいます)が日本に入ってきたのは、京都宇治にある黄檗山おうばくざん 萬福寺まんぷくじの管長が中国を訪れた際に持ち帰ったとか、琉球経由で薩摩に入った二株であるとか幾つかの説があります。前者は1600年代、後者は1736年といわれていますが、いずれにしても孟宗竹は、17~18世紀に日本に入ってきた外来種でした。
日本にはそれ以前にも、『竹取物語』に代表されるように独得の竹文化がありました。竹細工や筆、楽器などの素材は、主として真竹でした。千利休の竹花器も、茶杓も真竹で作られました。
最近の『竹取物語』のイラストを見ると、ほとんどのものが孟宗竹とおぼしきものが描かれています。しかし、歴史を紐解くと、実は、孟宗竹ではなかったのです。孟宗竹の竹花器を「利休風」という人もいたりしますが、これも間違っています。
江戸時代に入ってきた孟宗竹でしたが、「本朝七十二候」がまとめられた頃は、まだ外来種の新種に過ぎないもので、当時、たけのこといえば真竹でした。真竹の「筍」が出回るのは5~6月なので、まさに「本朝七十二候」の時候と符合します。かくして「びお」は、この説を有力としました。

「筍」は、竹冠に旬と書きます。この文字を多用しているところに日本らしさがあり、ソメイヨシノが、最近の桜であるのと同じように、孟宗竹は、春を告げる食材として日本において定着をみたという次第です。俳人の藤田湘子しょうしに、

筍や雨粒ひとつふたつ百

という句があります。この句の雨は、まさに五月の雨という感じです。
雨粒がひとつ、ふたつ。すると一気に雨が降ってくる、その雨が筍を弾いている、というのです。ぽつりぽつりときて、急に激しく降り出す雨と、成長する雨中の筍の姿とが混然一体となっている名句です。
藤田湘子は男性です。子は男子の敬称で、高浜虚子きょしも山口誓子せいしも「子」です。子規は、アタマに「子」を持ってきましたが・・・。湘子は、水原秋桜子しゅうおうしに師事しましたので、その一字をもらって「子」を付けたようです。

さて、きょうは俳句を離れて、山之口貘やまのくちばく(1903年~1963年)の詩を紹介したいと思います。

草にねころんでゐると 眼下には天が深い 
風 雲 太陽 有名なもの達の住んでゐる世界

この時季、草原に寝転んで五月晴れの空を見上げると、天はどこまでも大きくて、深くて、そこに雲がぽかりと浮いていて、爽やかな風が通り過ぎて行きます。山之口はそれを、天を見上げてというのでなく、眼下には、と表現しています。そこがおもしろいと思います。
この詩は、山之口貘の処女詩集『思弁の苑』という詩集に出てくる『天』というタイトルが付けられた詩です。山之口は、沖縄那覇市東町大門前出身の詩人です。生涯に197編の詩を書き、4冊の詩集を出しています。『思弁の苑』は、その最初の詩集でした。
山之口獏は、「赤貧の詩人」とよく評されますが、この詩人の貧乏は半端なものではありませんでした。上京してから結婚するまでの16年間というもの、畳の上で寝たことがなかったというのですから。凄まじいまでの「貧」としかいいようがありません。山之口は、そんな中にあっても、寡作でありましたが、黙々と詩を作り続けました。
この詩人には、いい詩がたくさんあります。生活のいろいろな事象、借金生活や酔っぱらいの詩から、沖縄のことや戦争や核兵器のことまで、静かに、純朴に、可笑しみを伴った詩(ポエジー)を綴っています。たとえば『座蒲団』という詩、

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐つたさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ

ふつうの人は、『座蒲団』のことを、こんなふうに見ません。
田山花袋かたいに『蒲団』という有名な小説があります。中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた小説です。女弟子に去られたあと、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙する中年の作家が描かれた小説で、それは田山花袋が自身のことを書いた小説ということで「私小説」と呼ばれています。
しかし、山之口貘の『座蒲団』には、このような感情はありません。山之口にとって座蒲団は、ふわふわしていて、このふわふわに、普通でないもの、違和感を覚えるのです。山之口は「楽に坐った」自分をさびしい、といいます。何だか上からものを見る目線を強いられて、それがイヤだと思います。座蒲団に座って、こういう自覚を感じる人は、まずいないと思います。山之口貘がどういう人なのかは、この一遍の詩をもって、よく分ります。
山之口に、『世はさまざま』という詩があります。

人は米を食っている
ぼくとおなじ名の
ばくという獣は
夢を食うという
羊は紙も食い
南京虫は血を吸いにくる
人にはまた
人を食いに来る人や人を食いに出掛ける人もある
そうかとおもうと琉球には
うむまあ木という木がある
木としての器量はよくないが詩人みたいな木なんだ
いつも墓場に立っていて
そこに来ては泣きくずれる
かなしい声や涙で育つという
うむまあという風変わりな木もある
(『山之口貘詩集』彌生書房より)

   
この詩では、南京虫が自分の血を吸いにくる、といいます。そういわれても、若い人は南京虫など知らないのでピンとこないかも知れません。南京虫は、昔の映画館のシートに潜んでいました。夢中になって映画を観ているうちに血を吸われ、家に帰ってみたら赤く腫れていたというようなことがありました。ひどく痒くて、本当にイヤな虫でした。
山之口は、そのイヤな虫のあとに、人を食う人のことを書きます。ここには魯迅ろじんを思わせる諧謔かいぎゃくがありますが、山之口のそれは魯迅のように思索的なものではなく、直截ちょくせつ※1、即物的※2なものです。だから読み手は深刻にならなくて済みます。
詩人の茨木のり子に、「貘さんがゆく」(童話屋)という本があります。この詩人に対する哀惜あいせきが込められた、とてもいい本です。
山之口貘は貧乏だけど、そういう自分の身を書いているけれど、けっして悲惨ではなく、実に飄々ひょうひょう、悠々としていました。「精神の貴族」といわれたユエンです。
山之口の畏友だった詩人の金子光晴は、山之口をこう評します。

貘さんという人はひどくしずかで、スロモーで、用心ぶかく、おちついていて、親切で、そのうえ、一段とユーモアのある人だ。話好きでもある。(『金子光晴全集』第13巻「山之口貘のこと」中央公論社)

金子に、『山之口貘君に』という詩があります。その最後は、

コーヒが肌から、シャツに
黄ろくしみでるといふ友は
『もう一杯づつ
熱いのをください』と
こっちをみてゐる娘さんに
二本の指を立ててみせた。

この詩に描かれた、コーヒー色がシャツに染み付いている友は、山之口貘です。
金子光晴と山之口貘は似ていますが、金子にはゾッとするような「恐い目」があるのに対して、山之口にはそれがありません。詩も人柄も、おだやかです。
この詩人を愛したフォーク歌手の高田渡に、『生活の柄』『結婚』『鮪に鰯』などの詩に曲をつけたアルバム『貘-詩人・山之口貘をうたう』があります。
この歌手の記憶はというと、年中酔っ払っているような人という記憶があり、たまにテレビに出てきても、顔が赤らんでいてフラフラしていて、何もかもが自信なさそうで、大丈夫かと思わせる歌手でした。
島根柿木村の工務店・リンケンの田村浩一(「びお」編集委員)さんは、地元でみんなが集える「欅ガルテン」という店を開いておられますが、この店で高田渡のコンサートを開かれたときのことを聞きました。こころに沁みるいいコンサートだったということで、今でも、このコンサートのことが語り草になっているそうです。
このときのエピソードで、なるほど高田渡だと思ったのは、コンサート後の交流会で、高田渡はよほど気分がよかったのか(あるいはいつものことなのか)、翌日の午前中まで酒宴は続いたそうです。朝まで飲み明かしたという話はよく聞きますが、翌日、午前中までというのはそうザラにある話ではありません。そんな無謀もあってなのか、高田渡は2005年4月16日に、56歳の若さで亡くなりました。
今回、高田が書いた『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫)を読んでみて、高田の山之口貘に対する傾倒の深さを知りました。そうか高田渡は、山之口貘の「生活の柄」を生きたのだと思いました。
山之口貘の『生活の柄』は、こんな詩です。

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてはねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏むきなのか!
寝たかとおもうと冷気にからかわれて
秋は 浮浪人のままではねむれない

高田渡は、これを歌にするに際して、次の「詞」に改めました。

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところ構わず寝たのです
歩き 疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです

近ごろは眠れない
陸をひいては眠れない
夜空の下では眠れない
ゆり起こされては眠れない
歩き 疲れては
草に埋もれて 寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが
眠れないのです

そんな僕の生活の柄が
夏向きなのでしょうか
寝たかと思うと寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は 秋は 浮浪者のままでは眠れない
秋は 秋からは
浮浪者のままでは眠れない

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たのです

高田の山之口貘への愛情が感じられる歌詞で、著作権云々は、この場合関係ないのでしょうね。多分、遺族は高田渡によって歌われることを無条件に許したと思います。それほどに、高田渡は山之口貘を生きました。高田は書きます。

「山之口貘さんの詩に出会ったのは、ボクが十八の頃、一年程本棚の片隅に眠っていた。
・・・気がつくと貘さんのトリコになっていた、いつの間にか歌っていた。
 < ラングストン・ヒューズ詩集 >の名訳者で詩人・木島始さんはヒューズ本人に一度も会わずだったそうで。
「今想えばそれで良かったのかも知れない?!」と。
 ボクは今、やっと山之口貘さんに逢えた様な気がしています。
 ステキな詩は反芻(はんすう)しながら生きていくと思っています。
(高田渡アルバム『貘-詩人・山之口貘をうたう』ブックレットより)

山之口貘には、自然を題材にした詩はほとんどありません。あくまで対象は人間に向けられました。そんな中にあって、冒頭の断片は、めずらしく自然を書いています。『思弁の苑』という詩集に出てくる『天』という詩です。

草にねころんでゐると
眼下には天が深い


太陽
有名なものたちの住んでゐる世界
天は青く深いのだ
みおろしていると
体躯からだが落つこちさうになつてこわいのだ
僕は草木の根のやうに
土の中へもぐり込みたくなつてしまふのだ
(山之口獏「思弁の苑」より)

この詩で山之口獏は、風や、雲や、太陽を、天にひと括りしています。それらは「有名なものたち」だといいます。この世で一番有名なものたちは、風や、雲や、太陽であって、そこらにいる奴が、自分を有名人だと思い、わがもの顔で威張っているのは噴飯ふんぱん※3ものだ、といいたいようです。
けれども、山之口は一方において、その天をみおろしているとこわくなる、といいます。草木の根のように、土の中にもぐりこみたくなります。このあたりが、いかにも山之口獏らしくていいですね。淡いけれど深いのが山之口獏です。

リンケン ブログ
「マイルスくんが行く(マイルス社長のパラドックスな日々)」より
吟遊詩人
http://rinken.exblog.jp/7719812/
文/びお編集部

※1:物事を遠まわしではなくはっきりと言う様子
※2:主観を排して、実際の事物に即して考えたり、行ったりするさま
※3:あまりのおかしさに、食べかけていた口の中の飯を吹き出してしまうほどであること

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年05月16日の過去記事より再掲載)

猫と竹笋生