まちの中の建築スケッチ

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世界貿易センタービル
——東京の超高層の風景——

地震国日本に100mを越える超高層ビルを建てることに執念を持っていたのは、東京大学で建築構造学の教授を務めていた武藤清である。退官後は鹿島建設の副社長として霞が関ビルの耐震性、耐風性に自らお墨付きを与えて1968年に完成させた。その2年後にさらに高い世界貿易センタービルを、浜松町駅に隣接して竣工させている。オリンピックの年に開通した羽田への足、東京モノレールのターミナルとしての風景も定着している。霞が関ビルは、1994年から2009年にかけて、新築並みの費用をかけた大改修を実施、これからも長く使われることになっているが、世界貿易センタービルは2年後に解体が決定しているという。

世界貿易センタービル 神田順 まちの中の建築スケッチ

竣工の1970年は、筆者が大学を卒業し大学院に進学した年であり、風工学の研究を始めた年である。これから多くの超高層ビルが計画される中で、強風がどのような作用をもたらすか、大学でも専門の教授が少ない中で、加藤勉研究室としても風圧力の実測をすることになった。すでに、新築時に、約100mの高さの腰パネルをくりぬいて、英国から取り寄せた風圧計を取り付けていたのである。正方形の平面の各立面の中央と両端3カ所、計12か所での計測システムが出来上がっていた。
当時、研究員で来ていた日本板硝子の川端三朗氏と二人で、台風が接近すると言えば駆けつけては、システムがちゃんと作動しているか見守ったものである。計測は1年ほど実施し、論文も書いたのではあるが、今ではPCであっと言う間にできる計算が、当時は、大型コンピュータで1カ所のデータの解析に1時間もかかる時代であった。
そんな経験もあって、ビルを訪れること自体も懐かしい。子ども達が小さいころは、展望台にも連れて行ったし、レストランやバーも何度も利用させてもらった。最近の超高層ビルは、白っぽくて、曲面だったり、凹凸が強調されていたりするものが多い。そんな中で、世界貿易センタービルは、隅切りの正方形プランで、四角い窓が並ぶすっきりした平面のこげ茶色。時代を感じさせるがゆえに、まだまだ使い続けてもらいたいと思ってしまう。
もっとも、久しぶりにしみじみ眺めたが、周辺に超高層ビルは林立し、風景として見られるのは、JRの線路の反対側にある、旧芝離宮庭園からくらいである。
現在は、浜松町駅から首都高速道路をまたぎ、一直線に竹芝地区にいたる空中デッキが工事中である。これは、来年の東京オリンピックを目指しての整備計画である。小学校の頃、自分で描いたかどうかは定かでないが、未来都市を想像して、超高層ビルが林立し、その間の空中を道路が巡っているような絵が、今や現実になっていると思うのである。
ある意味では、日本の現代建築の歴史を開いたビルが、こうして早々と寿命を迎えてしまうことを悲しく思う。物理的な耐力でなく経済収益性こそがビルの寿命を決めるとはいうのであるが、それを上回る建築の質や価値が認められなかったということなのだろう。経済性という意味では日本以上に合理的な社会のニューヨークで、エンパイヤステートビルやクライスラービルは、1930年代に新しい建築の歴史を開いた価値が生き続けている。
東京に残されたいくつかの庭園は、多くが大名屋敷跡で、江戸時代から変わらぬ自然を取り込んだ風情を残しているが、都市のオアシスであり、それなりの広さもあって超高層ビルを風景として取り込んでくれてもいる。