びおの七十二候
第61回
閉塞成冬・そらさむくふゆとなる
二十四節気は大雪。この日から冬至までの期間をいいます。
太陽黄経が225度のときで、雪が激しく降り始めるころ。
『暦便覧』では、「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と説明しています。
閉塞成冬とは、天地の気が塞がって冬となることを意味しますが、それによって、ブリなどの冬の魚が登場したり、ナンテンの実が赤く色付いたり、ウインタースポーツの幕が開いたりするのです。冬は冬でいいのです。熊は、長い冬眠に入りますが……。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
三好達治
この二行詩は、『測量船』という詩集にあります。
タイトルは「雪」です。
国語の教科書によく出てくる詩です。
「眠らせ」たのは、お母さんなのか、雪なのか?
太郎と次郎は兄弟で、一緒の家に住んでいるのか、いないのか?
降り積む雪とは、いったいどんな雪なのか?
といったことを生徒に聞いたりしながら、たのしく授業をすすめます。
この二行詩は、俳句でも、短歌でもありません。俳句としてみても、短歌としてみても冗漫だといわれます。けれども、詩としてみると、冗漫なんてものではなく、ぴんと張り詰めた緊張があって、ひとつの宇宙があります。そうして抒情の内実は、伝統詩形にはない新しさを持ちながら、じつに俳句的であり、短歌的です。「都会人の雪に対する情緒的な表現」とする見方や、「民話的情感に寄り過ぎている」という批判がありますが、日本人のこころに、すっと受け入れられる伝統性を持っています。
この雪は深く、人は雪の下に埋もれて暮らしていて、その家に横たわって眠っています。深く眠っています。物音をものみな吸い取って雪は、なお降りつもっています。
そう、太郎と次郎を眠らせているのは、その静かな静かな雪なのですね。お母さんではありません。これは文法的にも「雪」です。
三好達治は、1900(明治33)年、大阪市に生まれました。
達治は、軍人を志して幼年学校に進みます。一年半の課程を終えて、朝鮮の会寧に「教育赴任」します。半年間の教育赴任の後、陸軍士官学校に入学しますが、達治はそこを脱走して樺太へ渡ろうとします。北海道まで行って連れ戻され、憲兵に捕えられて陸軍衛戌刑務所に入れられた後、退校追放となります。
何故、恋焦がれた軍人の道を断ってまで脱走したのか、それはかくあるべしと思っていた理想と、朝鮮の会寧に「教育赴任」してみた現実とが、あまりに乖離していたからだといいます。この間の見聞を書いた散文詩に「国境」があります。
(跋)
この国の南端の港の桟橋を踏むだとき、人人は彼らの粗末な食物と、苦役にも等しい激しい労働とを見るだろう。この国の北端の国境に立って、人人はこの晴衣の行進を見なければならない。対岸には早や移住した幾万の彼等が畠を作り街を作っている。その数を二十万人に近いとも云ふ。そして毎日毎日この行列は続いている。旅行の間彼等の一組は他の一組と親密しない。彼等はお互に見識らない。(全集第12巻、『測量船』拾遺に属す。初出は『青空』28号、1927年6月)
会寧は朝鮮北端に近い豆満江岸の国境都市です。川を渡ると、中国領の間島に接しています。間島は、旧満州のどんづまりというべき中国領土です。暮らしにつまった朝鮮人が国境の無人地帯を開墾して暮らしていました。
1919年3月1日に「独立万歳事件」(朝鮮全土をゆるがす独立運動蜂起)が起こりました。「帝国臣民」であるはずの朝鮮人の頑強なまでの反抗に、日本軍は驚愕し「不逞鮮人討伐」を掲げて、徹底的な弾圧に乗り出します。それは苛烈を極めました。これはベトナムでも、アフガンでも、イラクでもそうですが、この種の戦争は、無辜の民を巻き込み、彼らが一番の犠牲の対象になります。それが占領者への敵意を醸成し、いよいよ泥沼に入り込むのです。当時の朝鮮では、3.1事件の弾圧を逃れた人々は、やがて国境を越え間島にたどりつき、そうしてそこは、朝鮮独立軍(抗日パルチザン)の根拠地となります。
達治が赴任した会寧は、当時こうした朝鮮独立軍と日本軍との激突の最前線でした。つまり、達治はその真っ只中に放り込まれたのです。
この間島での出来事を、朝鮮側から書いた詩に、槇村浩の「間島パルチザンの歌」があります。
白頭の嶺を越え、落葉松の林を越え
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赫ちゃけた地肌に黝ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
雪溶けの小径を踏んで
チゲを負い、枯葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追われて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負縄はいかにきびしく食い入ったか
ひびわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか
この詩を槙村浩が書いたのは、1930年ですから、三好達治が会寧にいた時期とは重なりません。槙村浩は、日本の高知県にいて、「間島パルチザン」のことを想像して書きました。槙村浩は、そのとき十九才でした。この若きプロレタリア詩人は、やがて苛烈な弾圧の対象となり、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。
この夭折の詩人のことは、野中兼山の娘を描いた『婉という女』《講談社文庫/今井正監督、岩下志麻主演で映画にもなっています》で知られる大原富枝の『一つの青春』(講談社刊)と、高知市在住の作家・土佐文雄の小説『人間の骨』(新読書社)に描かれています。『人間の骨』は、高知県民の手によって映画化(木之下晃明監督)されています。
ご紹介した「間島パルチザンの歌」は、高知市内にある槙村浩の記念碑に刻まれています。
ただ、歴史というのは皮肉なもので、槇村浩が詩に描いた、間島で流された朝鮮人の多くの犠牲の上に今の北朝鮮があり、そこは金日成が闘った聖地として、極端にフィクション化されます。つまり、金日成に「間島パルチザンの歌」は食べられてしまったのです。そのことと、槇村浩の想いや独立を闘った朝鮮の勇士が一緒ではありません。圧制に立ち向かった人たちと、それを権力のために食べてしまった者とは、事柄の本質において、まったく異なることですので……。
話を戻します。
「雪」の詩人、三好達治が士官学校を脱走して、樺太に行こうとしたのは、当時シベリア出兵軍が樺太を占領していて、それを実見見聞することによって、それが間島で起こったことと一緒のものなのかどうかを見極めて、士官学校当局に教育内容の検討を直訴するつもりだったといわれています。詩人になる鋭敏な感覚は、自分が理想とした軍人のあり方と現実との乖離に懊悩しないではおられなかったのだと思います。
その行動は、軍当局にとって危険極まりないもので、彼は放逐の対象となるのです。しかし、後年三好達治は、軍国主義を称揚する詩人として立ち現れます。
この賊はこころきたなしもののふのなさけなかけそうちてしつくせ
「馬来の奸黠」
などという詩を、三好は書くのです。
彼にとって、この軍国の詩は、少年の日の理想なのかも知れません。けれども、それがまるでフィクションであることを、三好自身は知覚していたのでしょうか。
吉本隆明は、「三好が、その戦闘詩でつきあたった残忍感覚と、(「雪」にみる)情緒的な日常性の併存」との「日本的庶民意識」(「四季派の本質」)を問題にします。
「四季」派の詩人たちが、太平洋戦争の実体を、日常生活感性の範囲でしかとらえられなかったのは、詩の方法において、かれらが社会に対する認識と自然に対する認識とを区別できなかったこととふかくつながっている」
一人の詩人の人生としてみるとき、純粋であることが、結果においてそういう歪みを生むことがあることを、われわれは知っておきたいと思います。
陸軍士官学校を放逐された三好達治は、大阪に戻り、数カ月の勉強の後、京都の東大仏文科に学びます。東大在学中、梶井基次郎、丸山薫、小林秀雄、中島健蔵などと知り合い、「青空」の同人となり詩を発表し、やがて処女詩集「測量船」を上梓します。「雪」は、この処女詩集に出てきます。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
「雪」を書く前の三好達治を知ると、このふりつむ雪は、想像しがちな東北や越後や信濃の村ではなくて、朝鮮の会寧なのではないか、と想像してみました。そうすると、夜半に歩哨に立った三好達治が、寒さに震えながら想像の中にみた、李少年を眠らせ、李少年の屋根にふりつむ光景だったように、思えてきます。
果たしてこれは、三好のヒューマニズムが生んだ詩なのではないか、と。
会寧の地べたに無惨に転がる李少年の死体をみて、あゝ李少年は、ふりつむ屋根の下にいて、やすらかに寝息を立てていた少年だったかも、という想念を三好が抱いていたであろうことが、何故か思い浮かんでしまったのです。
歩哨に立っていたときでないかも知れませんし、帰郷の夜列車に乗り、家々の明かりをみながら、その少年のことがふと思い出されたのかも知れませんが、日本に戻った後、いても立ってもおられず樺太に脱走する、激し過ぎる三好の行動に、「ふりつむ雪」の光景への思いが、彼のはらわたの底にあったように思えてなりません。
この詩は、そう考えると、稀にみる反戦詩なのではないでしょうか。二行詩による、これほどの平和を希求する詩を、ほかに知りません。
この詩に、彼の憤りのつよさをみるのは、三好の後年の軍国称揚とあまりに矛盾しますが、そういうものを含み込みながら、それでも三好が書かないではいられなかった「雪」を、そこにみたいと思うのです。
(2008年12月07日の過去記事より再掲載)