びおの七十二候

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麋角解・おおしかのつのおつる
(さわしかのつのおつる)

麋角解

北海道の道東を車で走ると、鹿をたくさん見掛けます。本州の山村では鹿の被害が絶えないようです。鹿に親しむということでは、何といっても奈良公園の鹿に尽きます。
奈良公園の鹿は、この時期に角を落とされます。

角落ちて耳ふる鹿は哀れなり  渡部風籟

と言いますが、奈良公園の鹿は、角を落とすと散髪直後のようで、何故か気恥ずかげであるように感じられます。
七十二候にいう麋角(びかく)は、「なれしか」の角をいいます。「なれしか」とは大鹿のことで、トナカイの一種です。トナカイはサンタクロースのソリを引く動物として親しみを持たれていますが、フィンランドの奥地、たとえばイナリ湖周辺に行くと、奈良公園の鹿のように、あちらこちらにトナカイがたむろしています。しかし、奈良公園の鹿のように馴れ馴れしくなくて、人が近づくと逃げます。多分、人が危害を加えたのでしょうね。

トナカイ

ツノが落ちたトナカイ

さて、師走の日本は不景気風がびゅーびゅうと吹いています。
この年の瀬の寒空に寮から放り出される派遣社員を見ていると、その酷薄さに切なさを感じます。こんなときは、

しぐるゝや蒟蒻冷えて臍の上  正岡子規

とユーモアで吹き飛ばしたいところです。子規は、病気の苦痛のなかで、それを直截に訴えることなく、臍の上に置かれたコンニャクの冷えを詠むことで間接に病状を語っています。おどけ、とぼけ、たわむれ、滑稽という子規独得の世界です。

秋風や屠られに行く牛の尻  夏目漱石

羊ではなく、牛の尻と詠んで、漱石は見事に肩透かしをくわせてくれます。
アルチュール・ランボーは、「俺は一個の他人だ」といいましたが、自分で自分を突き放して客観視したときに滑稽が生まれるのかも知れません。子規と漱石に共通しているのは、置かれた状態や自分に対して自虐的なところ(漱石の小説を読むと如実です)があって、その自虐を超えたところにあるアイロニー(皮肉)とエスプリ(諧謔)が、この二人にあります。日本の近代が持ち得た、稀なるインテリジェンスです。
しかし、この不景気です。
わたしが住む浜松は、日系ブラジル人が多く住んでいます。彼らには寮さえ提供されませんでした。農家がアパートを建て、そこに入居していました。突然お払い箱になっても、住宅問題が浜松で話題にならなかったのはこのためです。しかし、支払いできないため、徐々にアパートを解約する人が増えてきて、アパートを経営する、わたしの近所の農家は当て込んでいた家賃が入らないと言って大騒ぎしています。
アパートを出た日系ブラジル人は、どこに行ったのでしょうか。兄弟、友人、知人のアパートに転がり込み、凌いでいるということを聞きました。
日系ブラジル人(ドミニカやエクアドルなどを含めて)に対して、自分で移民したのだから、との見方をする人が少なくありません。しかし、それを煽ったのは、当時の政府でした。移民してみたら、日本でいわれていたような土地ではなく、荒地を相手に、塗炭の苦しみを味わうことになります。
「再移民」を強いられた彼らの日本での仕事は、正規雇用ではなく、調整弁としての派遣・臨時社員でした。この雇用形態は、彼らの努力云々を超えたところにあって、彼らはそれを甘受せざるを得ませんでした。しかし、その労働がトヨタやキヤノンに大きな利益をもたらしたことは事実です。「再移民」者に対する政府の方針は、勝手に帰ってきた人たちというのが基本的な扱いです。彼らを支援する団体の人は、「みんな責任を負わないで、彼らの生き血を吸ったとしか言いようがない」といいます。
つらい話です。
つらいけれど、彼らは生きていて、そんな中でも恋を実らせ、結婚し、子どもを産んでいます。時代は違うけれど、石橋辰之助の

冬ひそと家庭工場に子が生る

という句は、そんな世界を詠んだ句です。この世界不況で、コストが厳しく、仕事を打ち切られ、借金に追われる町工場と重ねて詠むことができます。「冬ひそと」というのが、いいですね。大勢の人に取り囲まれて生まれたのではないけれど、この世界の片隅で、子どもが一人生まれたとさ、という感じです。しみじみとして、いいと思います。
この句は、石橋辰之助の体温を感じさせてくれる句で、この人はヒューマニズムの人なのだと思います。

石橋辰之助は、1909(明治42)年に東京都台東区下谷に生まれます。開成中学中退後、安田工業学校電気科を卒業し、神田日活館、新宿帝都座映画等で照明の仕事をしていましたが、戦後は日本映画社の制作の仕事に携わります。
学生の頃から「ホトトギス」に投句。水原秋桜子に従って「ホトトギス」を離れ、「馬酔木」同人になりますが、俳句観の違いから「馬酔木」をやめ、新興俳句運動に参加、杉村聖林子と共に「荒男」を創刊し、無季俳句を提唱します。「京大俳句」にも参加しますが、新興俳句弾圧事件である「京大俳句」で検挙されます。
戦後は「新俳句人連盟」に参加し、連盟の委員長に推されて、それを務めます。1948(昭和23)年8月、急性結核にて東京杉並河北病院で死去します。享年三十九歳。戦争中の獄中生活が祟ったといわれます。
辰之助は、社会的弱者の側に立って俳句を詠み、また、山岳俳句で新局面を開いた人として知られます。

昏々と夜は雪山おほひくる
繭干すや農鳥岳にとはの雪
白樺の葉漏れの月に径を得ぬ
朝焼の雲海尾根を溢れ落つ
風鳴れば樹氷日を追ひ日をこぼす
牧牛に雪解のながれいくすじも

近代登山家の感覚で山岳の壮大な美観を句にしたのは、石橋において初めてといわれます。辰之助は、「垂直の散歩者」を自称しますが、それを表したのが、

朝焼の雲海尾根を溢れ落つ
霧深きケルンに触るるさびしさよ

という句です。あとの句にあるケルンとは頂上に積まれた石のことです。
辰之助は、寡黙な人で、山を愛し妻子を愛しました。

われのみの静けさ霧に妻こほし
酔えど妻子に明日送る金離すまじ
子を妻を梅雨の車中に置き嘆く
妻とおし真実遠しひとり病めば

あとの二つの句は戦後すぐのもので、生活難と多忙と粗食に耐えながら詠まれたものです。

傷兵に昏れゆく路上河のうねり
墓標立ち戦場つかの間に移る
夜学生よ君には戦闘帽よりないのか
夜学果てて寝るより自由なかりしか
秋どゞと獄中信を誰が断ちし
冬日宙見る見る孤児が煙草吸う

今年の七十二候は、これで締めます。
みなさん、よい年をお迎えください。今、身近に起こっていることが、少しでも好転することを祈りつつ。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年12月27日の過去記事より再掲載)

猫と雪