びおの珠玉記事

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鰤の話1

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2009年01月10日の過去記事より再掲載)

日本の食文化を代表する一つとして、今回は寒ブリを取り上げます。お正月料理は、先祖返りする機会でもあって、おばあちゃんの味は、伝統的な食の習慣がどこか踏まえられています。寒ブリや新巻サケの料理も、そんな一つです。

ブリ文化とサケ文化

イラスト:小野寺光子

さて、そもそも何故、ブリと呼ばれるようになったのか。
諸説ありますが、貝原益軒は「あぶら多き魚なり、あぶらの上を略」して「ブリ」と呼ばれるようになったといいます。ブリは鰤と書きます。魚に師匠の師を合わせた文字です。
中国語で「魚師」と書くと、大きな魚を意味します。オオブリは1m以上の大きな魚をいいますので、それで鰤という字があてられたという説もありますが、12月の師走によく食べるところから鰤になったという説もあり、またブリは利口で網に掛けるのが難しいから「師の魚」と呼んだという説もあります。
いずれにしても、鰤は国字で、漢字ではありません。

縁起物としてのブリ

広重魚づくし いなだ・ふぐ・梅

広重魚づくし いなだ・ふぐ・梅 歌川広重画 コネチカット大学より

ブリは、ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ(西日本ではツバス→ヤズ→ハマチ→メジロ→ブリ)と呼び名が変わる出世魚です。寒ブリで有名な越中(富山県)では、ツバエソ→コズクラ→フクラギ→ガント(ニマイズル)→コブリ(ハマチ)→ブリ(アオブリ)→オオブリと名前を変えます。当歳魚はツバエソからフクラギまで、二歳魚はコブリ、四歳魚はアオブリ、五歳魚以上がオオブリです。
昔の武将は出世する度に名前を変える習慣があったので、成長につれて名前の変わる魚は出世魚と言われて縁起物扱いされました。しかし、それだけでは説明不足で、民俗学者宮本常一が「海山のあいだ」に関心を寄せ、海と繋がることで、山は生を得ていたことを忘れてはなりません。両者を繋げていたのは塩であり、塩の道とブリやサケの道は重なっています。塩は海そのものであり、味噌や漬物も、姿を変えた塩です。出雲地方の神官は、海の中に浸かって身を清めます。塩や海水は、俗世界の罪汚れを落とすものと考えられているからです。
後に述べるように、富山で水揚げされた寒ブリの飛騨ルートの終着点は伊那盆地から小川路峠を越えて行く遠山郷で、そこに海の神様である金刀比羅さんが祀られています。遠山郷では毎年1月10日に金刀比羅祭が行われています。
柳田國男は『木綿以前の事・食物と心臓ほか』(筑摩書房『定本柳田國男集』 第14巻)の中で、「田作(たつく)りまな祝(いわい)」として、「口をなまぐさくしなくては、堂々として一年の新生に入っていくことができないもののごとくに感じていた名残なのでもある」と書いています。なまぐさくするというのは、この場合、山の獣ではなく、それは塩でまぶした海で獲れるものでした。

ブリ街道、飛騨ブリ

飛騨の正月は、ブリがなければ始まりません。日本では、真鯛とともに縁起のいい魚とされ、飛騨高山ではこれをお正月に食べて、新年を祝います。
飛騨に運ばれるブリは越中産のものでした。富山湾の氷見は「越中式定置網」の発祥の地です。氷見に水揚げされたブリは、船で岩瀬浜へ運ばれました。岩瀬浜は神通川の河口にあります。そこから富山へは神通川の川舟で運ばれ、飛騨高山へは、牛や馬による荷駄によって運ばれました。安政期の記録によれば、総数で140万駄弱の魚が越中から運ばれたといいます。そのうち40万駄がブリとされます。1駄は、馬もしくは牛1頭に積める量をいいます。40万駄として、約100万本のブリが運ばれたことになります。富山からの行程は4日間を要したといいます。

鰤のきた道

氷見で水揚げされたブリは、かつては野麦峠を通って各地に運ばれました。

「越中式定置網」によって、魚を傷つけず生きたまま揚げられた鮮度の高いブリは、内臓が取り出され、淡い塩水で血や汚れが落とされました。一尾あたり4キロの塩が、腹や切れ目になすり込まれ、それを重ねてムシロをかけ10日ほど置かれると、塩が身に馴染みます。製法は新巻鮭と一緒です。浜値のブリは米1斗で買えたといいます。それが飛騨に運ばれ、飛騨ブリと名前を買えて信州に入ると米1俵になりました。1俵=4斗ですので、浜値の4倍に相当します。
飛騨高山から北アルプスの峠道を越えて信州に入る物資輸送ルートは、鉄道が通るまでは、鉢ノ木峠(2541m)中尾峠(2269m)安房峠(1812m)野麦峠(1672m)長峰峠(1502m)の5つの峠越えを必要としましたが、冬季間はどこも積雪が深く、寒ブリを牛馬の荷駄で運ぶのはムリでした。
そこで、最も越え易いとされた野麦峠が選ばれ、高山の歩荷(ボッカ)が担いでこれを運びました。歩荷が運んだ荷物は、男性が16貫(60キロ)、女性は12貫(45キロ)だったといいます。高山から松本までの距離は24キロ、8日間を要したといいます。
野麦峠は、『あゝ野麦峠』(山本茂実著 朝日新聞社刊/大竹しのぶ主演で映画にもなりました)で知られるように、岡谷に糸取りに行く工女道として知られています。大勢の工女が通った後は、赤く染められた工女たちの腰巻きの色で雪が真っ赤に染まったといいます。鉄道が通るまでは、同じ道を辿って飛騨ブリが信州へと運ばれたのです。
岡谷まで来ると、ブリはもう紫紅色をしていて、それを口に入れるとピリッと舌を刺したといいます。つまり初期の発酵が始まっていて、山国の人は、むしろそのピリッとした感触を楽しんだといいます。
野麦峠からは、奈川村で南下し木曾谷に運ばれ、また木曾谷からは権兵衛峠(1522m)を越えて伊那盆地へと運ばれ、伊那盆地からは、さらに小川路峠(1494m)を越えて遠山郷に運ばれました。遠山郷から南は、青崩峠かヒョー越峠を越えると、そこはもう太平洋岸に面した遠江です。
『南信農村史遠山』(南信濃村々史編纂委員会)によると、遠山郷のハレの日である年とりの膳には、五色の菜(里芋・ゴボウ・ニンジン・昆布・大根)と共に、年とり魚としてブリは欠かせなかった、と記されています。富山湾で獲れたブリが、人の背によって、遥かに遠い遠山郷まで運ばれ、それを食すことで年とりの膳にしていたという、年に1回だけの贅沢というか、この究極のスローフードは、ほとんど感動ものです。
木曾谷の民家の写真を見ていたら、ブリの尾が神棚に奉じられていました。ブリの鰭(ひれ)を切り取って、贈り物の熨斗(のし)代わりに使われていたようです。
富山から信州松本への主要輸送ルートは二つありました。飛騨ブリを野麦峠を越えるルートと、もう一つは、越後糸魚川を経由して千国(ちくに)、大町を経るに千国街道といわれるルートです。千国街道の塩ブリは、糸魚川までは船で運ばれました。越中(富山)と越後(新潟)の間には、親不知子不知(おやしらずこしらず)があり、牛馬による荷駄で運ぶのは難しかったからです。糸魚川から松本へは野麦越えと同じように歩荷(ボッカ)によって運ばれました。

ぶり

信州に運ばれたブリは、腹の正中線を割くマハラと、横腹を割くヨツの二つの捌き方があり、同じ伊那盆地でも、上伊那はマハラ、下伊那の飯田はヨツに割かれました。これはブリの食べ方の違いによるといわれます。信州は伊那盆地や善光寺平、松本平、木曾谷など、地域によって食文化が大きく異なります。松本では、塩ブリを茹でて食べ、上伊那では酒粕で煮て食べ、飯田では塩抜きして焼いて食べることが多かったといいます。身は照り焼きに、半端な部分はお雑煮に入れられ、アラは大根などと一緒に煮物や粕汁にされ、頭(おかしら)は酢につけて氷酢にしたりと、ブリは一匹まるごと、どこも捨てるところなく食べられました。川魚しか縁のなかった信州人にとって、ブリは「海」そのものだったのです。

鮭(さけ)文化と、鰤(ぶり)文化

ブリとサケを調べていると、フォッサマグナによって東西が分けられ、という記述が多いことに気づきます。東は赤身魚、西は白身魚の文化圏という説や、ウナギの背開き腹開きの違い、肉を鍋で焼くすき焼と肉を煮る牛鍋の違い、お雑煮の丸餅・角餅、味噌(白・赤)・醤油(濃い口、薄口)、だし(昆布・丸干し・鰹節など)の違い等々。
法医学者の古畑種基(下山事件などで有名な古畑鑑定の古畑さん)によると、東日本にはB型の血液型が多く、西日本にはA型が多いといいます。25万人のサンプル調査をもとにした指紋調査では、東には蹄状紋が多く、西は渦状紋が多いといいます。俄かには信じられないような話ですが、それらとフォッサマグナに相関性があるのでしょうか? 俗説に過ぎないのでしょうか?
確かに、中央日本を南北に走るフォッサマグナ(中央構造線)は、地質構造上、日本列島を二分します。その西縁は糸魚川・静岡構造線です。
フォッサマグナというと、この糸魚川・静岡線とだけ思っている人が少なくありませんが、糸魚川・静岡線はフォッサマグナの西縁に過ぎず、全体としていうと、東縁までの間の「面」を言います。「線」ではありません。西縁は構造線が露出している場所があって目立ちます。そのため、フォッサマグナというと糸魚川・静岡構造線と思う人が多いようです。信濃と遠江を分ける青崩峠に立つと、この構造線が露出していて、飛騨ブリの終着点の遠山郷は、その真上に位置しています。

フォッサマグナ

wikipediaより 薄い赤色の部分の西端が糸魚川静岡構造線。

東縁については、いろいろな説があります。
直江津・小田原構造線が有力ですが、柏崎と千葉県銚子を結ぶライン説、上越と銚子ライン説、新発田と小出を結ぶラインとする説もあります。いずれにしても、そのあいだは200万年前まで海溝(大きな窪み)だったわけです。
本州が海溝で分かれていたことが、その後の日本の歴史にどういう影響したのか、おもしろいテーマでありますが、ここではフォッサマグナを境にして、東側にサケ文化圏が、西側にブリ文化圏が、いかにして形成されたかについて述べることにします。