びおの珠玉記事

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こんな筈では!

東日本大震災から12年が経ちます。耐震、エネルギーといった問題だけでなく、都市と地方の関係、地方の産業の問題などさまざまな波紋を起こしたこの震災を経て、今また原発頼りのエネルギー政策が進められようとしています。世論もエネルギー高を背景にそれを是認しかねない様相です。喉元過ぎれば熱さ忘れる、の極みと言えないでしょうか。12年前に私たちがどう受け止めていたのか、当時と、その後に記したものを再録します。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2011年03月16日の過去記事より再掲載)

今回の地震は、地震学者も、建築学者も、原発関係者も、そして死者も、みんな「こんな筈では!」と思い、また思いながら亡くなったのではないでしょうか。

地震の規模は、
地震学者の想像を超えるものだった

東日本巨大地震について、アメリカの地質調査所(USGS)の研究者は、日本列島の位置が8フィート(約2.4メートル)動いた可能性があると指摘しました。
GPSの観測点の1つが8フィート動いたことと、日本国土地理院が提供する地図から位置のずれが分かるそうです(AFP通信)。
また、アメリカ航空宇宙局(NASA)の地球物理学者リチャード・グロス博士は、今回の地震に依って、地球の1回の自転に必要な時間が100万分の1.6秒短くなったとの計算を発表しました(AP通信)。
前者は、地震の衝撃波により地球内部の質量の分布が変わったこと、後者は、わずかであるけれど一日の長さが短くなったことを示しています。確定的ではありませんが、今回の地震がいかに巨大なエネルギーを放出したかを示して余りあります。

コンクリートへの過信

今回の地震は、その規模において、その広域性において、その狂暴性において、いままでに経験したことのないことです。
マグニチュード(M)9は、地震学者が想定する範囲の枠をはるかに超えるものでした。地震学者の「こんな筈では!」です。
日本海溝のプレート境界地震は、M8クラスしか想定されていませんでした。防波堤やハザードマップ(危険予測図)は、この想定に基づいて行われてきました。その見積りの甘さが今回の被害を招いたのは間違いありません。

大船渡港湾口防波堤 断面図・平面図

大船渡港湾口防波堤 断面図・平面図

 

釜石の防波堤は、1200憶円掛けて造られました。わたしは三陸海岸の町に、つごう3回訪ねていますが、三陸海岸のどの町の防波堤、水門も、それぞれの町の誇りというか、安心の基だと感じていると思われました。おそらく起工式で、設計者も、町長も、町民も喜色に溢れ、これでダイジョウブ!と思ったに違いありません。わたしが見たそのどれもが、大層なものでした。お金を掛けているなぁ、ということと、津波に襲われ続けた三陸の歴史を思いました。
しかし、今回の地震の前に、それらの全てが無力でした。何の役にも立ちませんでした。被害に遭った多くの人は、多分、これだけの防波堤、水門があるのだから食い止めてくれるだろう、という見立てがあったものと思われます。
油断があった、というのは死者を鞭打つことになるかも知れませんが、もしわたしがその町に居住していたとしても、「これだけの防波堤があるのだ。明治の津波、チリ地震の津波のときとは違うのだ」と思ったことでしょう。誤解を恐れずにいえば、コンクリートへの過信が、こんなことになった原因ではないか、と思うのです。
しかし、地震学者でさえ「こんな筈では!」と思っていることを、一市民の想像が及ばなかったとして、誰が責められるのでしょうか。結局、自然に対して人知が及ばなかったのです。
そして、もしM9クラスを基本とする災害対策が立てられたとして、それに抗し切れる構造物をつくることはむずかしかった、とわたしは思います。要塞に囲まれた中で、普段の生活を強いられることを、人は欲しないからです。人は、自然の中から生まれ、自然によってリフレッシュされる動物だからです。

丘に通じる毎日の散歩道

誤解を恐れずにいうなら、防波堤も、水門も不要とする備えを持つことが大切であって、それは自分の足で丘の上に上がる道をつくっておくことではなかったか、というのが、わたしの意見です。
三陸のリアス式海岸の後背は、たいがい山です。その山の中腹部に幾つかの避難場所(建物を持った公園)を設け、食料とかを備蓄します。そこに行く道をつくります。車道ではなくて、歩く道です。避難に車を利用するのは、三陸海岸のような形状の土地ではダメだということがハッキリしました。立派な「歩道」でなくてよく、隣地境界の隙間を縫うような、細い道でいいのです。
強い地震を身体に感じたら、何をおいても、その道を歩いて丘に登ります。そういう道を網の目のように無数につくります。東大地震研の分析によると、今回、津波は最速10分で到達しました。「一瞬が生死を分けた」「忘れ物を取りに戻ったから」とか言われていますが、わずかな引き波から始まり、巨大な壁上の押し波がやってくるまで、とにかくそれだけの時間があったのです。そこに注目すべきです。
普段は、その道を毎朝散歩します。夏休みのラジオ体操のように町を挙げて励行します。道には、その土地の自生種の草花を植えます。高山植物が、疲れ果てた登山者を励ますように、自生種の草花は、毎日の散歩を癒してくれることでしょう。歩けないお年寄りのためには、丘の上に施設をつくります。高齢者や非健常者に対する福祉は、不測の事態に対しての備えでありますので。釜石などの防波堤で使われた1200憶円を用いれば、相当のことがやれる筈です。一瞬のうちにやってくる津波のためでなく、普段のために役立つ施設になります。
津波に流され、灰燼に帰して間もない時点で、町の再建は思いも及ばないでしょうが、もし町を再建するとすれば、これまで以上にコンクリートで固めることではなく、そういう「近自然」(河川に「近自然工法」があります)の視点を持つことが大事だと思います。

三陸津波のこと
山下文男さんの本

1896(明治29)年に起こった明治三陸沖地震では、死者・行方不明者は21,959人でした。このときの津波の高さは、綾里での38.2を筆頭に、20〜30mを超えるところが多かったとされています。
三陸の津波については山下文男さんが、たくさんの本を書いています。

津波の被害 写真記録近代日本津波誌抜粋1津波で全て流された景色 写真記録近代日本津波誌抜粋2
津波の様子の墨絵 写真記録近代日本津波誌3

写真記録近代日本津波誌 山下文男 編著 青磁社 より

『津波ものがたり』(童心社)を読むと、三陸海岸は、湾奥がV字もしくはU字状に狭まっているラッパ状であるため、津波が湾奥へ進むにつれ津波のエネルギーが膨れ上がり、異常な波高となることが書かれています。この本を読んだとき、ここに津波が押し寄せると被害が大きくなるのは避けられないだろうな、と思ったのでした。山下さんは三陸の出身で、ご一族の8人が明治の津波で溺死されています。
この明治三陸津波は、三陸沖合約200kmで起こったM7.6の地震によるものでした。三陸沿岸の地域では震度2〜3(軽震〜弱震)程度の揺れで、この地震によって倒壊した建物はありませんでした。6分間隔で津波が3〜6回来襲したものの、その後、海は静けさを取り戻したといいます。そして数時間後の不意打ち状態のときに、20〜30mもの大津波が押し寄せました。
典型的な、津波地震と言われていますが、今回も、津波によらない建物の破壊は、地震の規模の割にあまり見られません。そこが、まだよく分らないでいます。

内陸部の地震被害はどうなんだろう

コマーシャルも何もないテレビは、わたしにあっては浅間山荘、昭和天皇崩御、阪神淡路大震災に続いて4度目の体験です。東京テレビ系のBSを除いて、全部、同じような報道が続いています。
これだけの震災なので、海岸部に目が注がれるのはやむを得ないとして、3/16の時点では、内陸部の被害はどうなのかという報道が何もないことに気づきます。
阪神淡路大震災の教訓として、建物の倒壊を食い止めれば人的被害を少なくできる、ということがありました。あの地震における神戸の死者の92%は、地震が起こって14分間に亡くなっており、それは建物の倒壊による圧死、窒息死によるものでした。
しかし、今回の津波による被害は、大地に根を張っている筈の建物の無力さを、いやというほど知らされ、この圧倒性の前になすすべがなく、呆然とするばかりですが、津波被害を免れている内陸部ではどうなんだろう、果たして建物は持ち堪えているのか、どうなのか、それを正確に報道してほしいと思っています。
これは、内陸部ではなく、数百人の行方不明者が伝えられる仙台市若林区ですが、わたしの娘夫婦と孫は、同じ若林区なのに、水道も電気も来ています。永田昌民さんが設計した建物は壊れていません。また、武山倫さんから、自分が設計した「石巻の家」は、国土地理院が災害地の空撮映像で見る限り、津波に流されることなく健在だとメールを下さいました。益子義弘さんからは、「東京も、第一報の九段会館の天井落下以外は、見えてこない。こちらの関連で郡山や一関の知り合いにその点を尋ねていますが、どうもまだよくわからない」とのメールをいただきました。このことからすると、大きな倒壊は生じていないように思われますが、果たして明治の三陸地震と似た現象なのかどうか、まだ、よく分りません。

計画停電とオール電化

政府と電力は計画停電を実施することを発表しましたが、実にいい加減なやり方に終始しています。
タレントの鈴木京香さんや江波杏子さん、賢そうな子どもを登場させて、「スイッチ」とか言って、オール電化を煽ってきたのは誰だったか、と言いたいですね。膨大な宣伝費を湯水のように用いてやっていました。東電は、その責任を何も感じていないようです。
これだけ電力を膨らませておいて、病院や高齢者施設などの味噌も、パチンコ屋や自販機などの糞も「計画停電」だといいます。先ずパチンコ屋を休業させ、自販機を停めてから言ってほしいと思っています。あの消尽的な、野放図なエネルギー消費たるや、半端ではありません。暖房便座なども考え直し、規制を加えるものは山ほどあります。
国難をみんなで乗り越えよう、というのはいいけれど、一方で批評性を持たないと、教訓が教訓にならないのが、この国の塀です。
先々週の『週刊朝日』に、日本人は、映画「ALWAYS三丁目の夕日」の生活に戻るべきだ、という記事が出ていました。人間にとって何が大切なことなのか、見直す時期に来ているように思います。
マキシム・ゴーリキーは『どん底』で、韃靼人に「人間は、夜は寝るものだ」というセリフを言わせています。

福島原発事故のこと

三陸沖に、米空母がやってきました。被災者救援のための「トモダチ作戦」を行うため原子力空母ロナルド・レーガンのほか、計14隻の艦船で展開されています。ところが、福島原発事故により、が風で拡散され、ヘリコプター搭乗員から放射線が微量に検出されたということで、作戦が一時停止されました。思わず笑ってしまいましたが、放射能は、それほどに敏感なものだということを改めて感じました。
今、進行している原発事故は驚くべきことで、「安全性」を強調するための避難訓練も「あり得ないことだから必要ない」こととされて来ました。津波にやられ、放射線に見舞われ、20キロ先まで退避しろ、家から出るなと言われる側は、たまったものではありません。家に閉じこもっていろといわれても、停電・断水のなかで、食料は、燃料はどうするのか。個々の避難者宅への支援の態勢は話題にすらされていません。今、原発の「安全神話」は、音を立てて崩れています。
海岸線にあって、同時に地震の危険性がある場所に原発が置かれているのは、日本だけではありませんが、日本が一番多いのです。『大地動乱の時代』(岩波新書)を著した石橋克彦氏が、「海岸線に54基の愚 悟れ」という文章を新聞に書いていますが、同感です。
氏は、津波震災を「原発震災」なのだと、前からずっと警告を発していました。氏が言い続けた事態が現実に起きたのです。
中国は、今後数年間に日本を上回る原発建設を進めていますが、日本と違って用地に苦労しない、という中国当局者の談話記事が、この地震の前に新聞に出ていました。今回のことがあってどうかと思っていたら、今日の新聞に、「計画に変更はない」「中国の原発は日本より安全」という記事がでていました。この「中華思想」におぞましさを感じるものですが、日本やフランスが、それに免罪符を与えているのではないか、と思いました。
3/14までにテレビに出ていた専門家は、原発擁護派ばかりでした。普段の宣伝費が効いていると思いました。見事にコントロールされていて、電力資本の意図を見ないではいられません。

「被曝と言う言葉は適切ではない。あまり恐れることはない」
「問題になるレベルではない」(放射線医学者)
「福島の第一原発は、想定外の事故によるもので、たまたま不幸が重なった」
「これを乗り越えると、日本の原発の信頼性が高まる」

などとのたまく「専門家」が次々に登場していて、何とまあ呑気な人たちばかりだろうと思いましたが、この程度の「専門家」にジャックされて、日本のテレビは批評性を持てないでいます。
これらの「専門家」は、1号炉の事故が起こったとき、2号炉、3号炉に関しては「おなじことは起こらない」と言っていました。まして休眠中の4号炉まで事故になるとは夢想もしなかったことでしょう。彼らは総じて非常に楽観的なもの言いに終始してきました。しかし、現実に重大事故は起こりました。その同じ「専門家」が、コメンテーターとして引き続きテレビに登場していたりします。
そもそも、「日本ではスリーマイル島で起こった炉心溶融など起こらない」「あり得ない」と言い切っていたのが、日本の原子力関係者です。今回の事故は、したがって彼らにとっては「こんな筈では!」という連続の事態だと思います。
発電の場で、発電機を動かす電気が津波で壊れた、というのはアイロニーそのものです。地元の小さな町の消防自動車から原子炉に水が注がれている可笑しさに気づかなかったのでしょうか。それでは間に合わないと、とうとう3炉とも海水を導入することになりました。
恐いのは、3号炉です。3号炉は、毒性の強いプルトニウムとウランの混合酸化物(MOX)燃料を用いています。いわゆるプルサーマル発電です。
テレビの「専門家」は、3/16現在、この危険性に触れていませんが、これからの救助活動の中で、もし放射能汚染が顕著になると、米軍の「トモダチ作戦」の一時停止ではありませんが、海外の救助隊は腰が引け、逃げ帰る国もあるかも知れません。それより何より、被災者、国内のボランティアも放射能に晒されることになります。
今回の地震に襲われた太平洋岸の4原発炉は、11基が運転されており、6基が停止されています。今回の地震に併発されて、直下型の地震や大きな余震が起こることは否定できないばかりか、可能性大です。

武谷三男の「安全性の考え方」まで戻って考える

『安全性の考え方』(岩波新書)が出たのは1967年でした。著者の武谷三男は原子核・素粒子論の研究者として知られ、戦時下に、理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発(2号研究)に関わった人でした。戦後、鶴見俊輔らと『思想の科学』を創刊し、科学史、技術論などの分野で多く論文を発表しています。
わたしなどの世代には、『弁証法の諸問題』の著者として身近な存在で、「人間の認識を現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階の三段階を経て発展する」という武谷の「三段階論」を、あれこれ論じたものでした。
武谷は、現代文明はさまざまな危険に囲まれており、その危険性をどう考えればいいかについて『安全性の考え方』という本を新書で書きました。『弁証法の諸問題』と違って、こちらは分りやすい本で、たちまちベストセラーになりました。
当時、四日市ぜんそく、水俣病、白ろう病、放射能汚染、薬害などが問題視されるようになり、その「安全性」をどう考えるか、議論が沸騰していました。武谷は、星野芳郎らと共に、「安全の側にたって考える態度」「疑わしきは罰す」という態度で一貫していました。しかし、高度経済成長の波の前に、強靭なる武谷理論でさえ駆逐され、タブー視されるようになり、この国は爆走することになります。
EUは、CO2を産業革命期まで戻すことを目標としていますが、原発の安全問題を1967年に武谷が考えたことにまで戻って考えるべきではないか、と思わないではいられません。

原子力安全委員会は機能しているのか?

テレビに登場して「安全」の説明をしているメンバーに、原子力安全・保安院なる組織があります。経済産業省の一機関であり、同省の天下り組織の一つとされています。このメンバーによる説明は事実をどこまで隠せるか、安全神話を守れるかに神経が回っていて、東電の説明と何も変わらず、見ていてイライラが募りました。彼らの情報のほとんどは東電からのもので、独自の調査は何もありませんでした。
こういうテーマこそ、東電からも、経済産業省からも独立した中立的な立場の機関が役割を果たすべき、原子力安全委員会は何をしてるのだ、と疑問を持ちました。委員が100名前後もいるので、この非常時の委員会開催は得策ではないという判断が働いているのかも知れませんが、ヘリコプターを使ってでも100名の委員を集め、英知を結集して論議を究め、専門部会が事にあたるべきです。そして記者会見に臨んでは、今、何がどのように起こっていて、何をどうするかを、まさに「中立的」な立場から説明してもらいたいものです。
原子力安全・保安院を表に出し、役不足となるや引っ込め、彼らは後ろに引っ込んでしまいました。このあたりの対応のまずさは目を覆うばかりです。

浜岡原発はどうなのか?

危険視される東海地震の頂上に位置する御前崎海岸にある浜岡原発は、間違いなく液状化する土地だといわれています。それなのに、今、新基の6号機が計画されています。今回のことで見直し必死といわれていますが、ゾンビのように生き返えってきたのが、これまでの彼らでした。

浜岡原発

浜岡原発

3/14、中部電力が地元の自治体議会・首長らに説明会を開き、浜岡では福島原発のようなことは起こらない、また、デーゼル発電機も二基新たに購入したと説明したそうです。これまで原発に賛成してきた首長から「100%安全だと信じていたけど、100%とはいえない」という苦言が出されました。「こんな筈では!」の最たるものです。

浜岡原発
写真に見るように浜岡原発には、津波の防波堤さえありません。もう時効だからいいますが、この写真は『住まいを予防医学する本』をつくるときに、浜岡原発の海側から忍び込んで撮影したものです。
3/16の朝刊によると、中部電力は浜岡に12メートルの超防波壁をつくることを発表しました。小高い砂浜と松並木があるからダイジョウブと言ってきましたが、「原発への不安に対応」するためだそうです。釜石などの防波堤でも「超防波壁」といわれました。この地震の津波は、いとも簡単にこの壁を越えて町を襲いました。この愚を繰り返そうと言うのです。
しかも、建設に2年を要するといいます。その間に東海地震がおきたらどうするというのでしょうか。昨夜遅く(3/15)、富士宮でM6の地震がありました。まさに「大地動乱の時代」に突入したとの観を深めております。
尾池和夫高等研究所所長(前京都大学総長)は、「東南海地震を起こすフィリピン海プレートと、東日本の大地震を起こした太平洋プレートとは別物」だけど、今回の地震を「広い意味での余震」と捉えるべきと言っています。卓見です。
浜岡原発の根本対策は、直ちに運転を止めるほかありません。

テレビ情報は、つくづくアテになりません。
原子力資料情報室の情報に耳目を寄せるのが賢明です。
考え方に違いがあるとしても、情報は正確であるべきです。

著者について

小池一三

小池一三こいけ・いちぞう
1946年京都市生まれ。一般社団法人町の工務店ネット代表/手の物語有限会社代表取締役。住まいマガジン「びお」編集人。1987年にOMソーラー協会を設立し、パッシブソーラーの普及に尽力。その功績により、「愛・地球博」で「地球を愛する世界の100人」に選ばれる。「近くの山の木で家をつくる運動」の提唱者・宣言起草者として知られる。雑誌『チルチンびと』『住む。』などを創刊し、編集人を務める。

連載について

住まいマガジンびおが2017年10月1日にリニューアルする前の、住まい新聞びお時代の珠玉記事を再掲載します。