“Families” on the move
移動する「家族」の暮らし方
第11回
同じ場所に居合わせる
最後にアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスを訪れたのは、今から8年前のことだ。地球儀を回してみるとよくわかるが、ブエノス・アイレスは日本のちょうど反対側あたりに位置する。カナダの航空会社の格安フライトで行った時は、成田を出発して現地に着くまでに、乗り継ぎ時間を含めて36時間かかった。果てしなく遠いその街のことが、日本で話題になることはほとんどない。どんな街か、想像すらできない人も多いだろう。ブエノス・アイレスはラテン・アメリカ諸国の中でも、ヨーロッパ的な街並みで知られている。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イタリア、スペインを中心としたヨーロッパ系の人びとの移住が盛んに行なわれた。街を歩いていると、あちこちでカフェを見かける。多くの人がコーヒーを片手に、身振り手振りを交えておしゃべりに夢中になっている。
亡くなった祖母は、ブエノス・アイレスで25年間暮らした。その縁で、私自身も小学生の頃に1年間住んだ(前回の記事で当時のことを少し書いた)。その後、大学時代の交換留学やフィールドワーク、大学卒業後も長期の旅行で滞在した。私が遥かかなたのブエノス・アイレスの街を繰り返し訪れる最大の理由は、「家族」がいることだ。祖母が単身で移住した1950年代から、ブエノス・アイレスには私たち一家を大切にしてくれている人たちがいる。祖母と同時期に日本からアルゼンチンに移住し、「日系人」としてブエノス・アイレスに根を張り、代々生活してきた一家だ。私たちがブエノス・アイレスに滞在する時は、必ず彼らの家に泊まり一緒に過ごすし、彼らが日本に来たら私たちの家に泊まり一緒に過ごす。互いのことを「家族」と呼び合ってきた。空港での別れの時はいつも、次にいつ会えるかわからない寂しさと不安で、涙が止まらなかった。
会えない期間、私たちをつないできたのは、さまざまなメディアだ。1990年代以降、手紙、eメール、Skype、Messengerと使うメディアが変わり、コミュニケーションの仕方も、離れることの意味も変わってきた。最後にブエノス・アイレスを訪れた時、私たちは空港で、初めて涙を流すことなく別れた。Messengerを使い始めた年だ。飛行機で36時間かけて移動しなくても、PCやスマートフォンの画面越しに顔を見ながら話すこともできるし、互いの近況を写真や動画で知ることもできるようになった。同じ場所に居合わせること、会うことに、以前ほどこだわらなくてもいいのかもしれないと思えた。しかし、2年前、ブエノス・アイレスの「お父さん」的存在である信洋さんが亡くなった時、そのことを思い直した。
信洋さんは、交換留学中もフィールドワークや旅行で訪れた時も、毎回私を家に迎え入れてホストファザーとして世話してくれた。厳格で頑固な一家の大黒柱というタイプの人だったが、私が安心して滞在できるようにいつも温かく見守ってくれた。信洋さんの闘病のプロセスや亡くなった時の様子は、娘のみよちゃんがMessengerで逐一知らせてくれていた。だから、一連の出来事を「情報」として知ることはできた。しかし、私は信洋さんが亡くなったことを、実感を伴って受け入れることはできなかった。今でもまだ信じられずにいる。闘病中の信洋さんの手を一度でも握っていたら、葬儀に参列してみよちゃんのそばにいられたら、自分の身体的な感覚を通して、この出来事を理解して受け入れられていたかもしれない。同じ場所に居合わせる、会う、という体験を通してしか感じられないことがある。メディアを介したコミュニケーションの限界を思い知らされた。大切な人と離れて暮らすとは、そのような限界とともにあるということなのだ。