まちの中の建築スケッチ

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釜石製鉄所
——ランドマークとしての煙突

震災復興を支援している唐丹町小白浜こじらはまは釜石市にある。高度経済成長期の昭和30年の市町村合併で、それまでは気仙郡唐丹村だったのが、釜石市唐丹町となった。その釜石市は2019年ラグビー・ワールドカップ開催のための新しいスタジアムを鵜住居うのすまい地区に完成させて、盛り上がりを期待している。かつて新日鉄釜石のラグビーチームの活躍がその裏にはあるし、それは釜石が製鉄のまちとして繁栄をした歴史の一部でもある。
鉄鉱石とコークスから質の高い鉄を作る近代製鉄技術は江戸末期から明治期に高炉法で成功するが、そのあたりの苦心のいきさつは、釜石市にある「鉄の歴史館」で、模型なども交えて丁寧に紹介されている。近代製鉄の父とよばれる大島高任たかとう(1826-1901)の偉業という形で語られ、釜石駅前には大島の像も立っている。近代製鉄所150周年ということで、市としても広報に努めているということがうかがわれ、初期の橋野高炉跡は、世界遺産にも登録されている。

釜石製鉄所

20世紀にアメリカが鉄鋼生産でも世界をリードしていたのはもはや過去の話で、今もリサイクル鋼の電炉による生産は続いていても、早々に高炉製鉄から撤退している。その点、日本においては最先端技術の高炉製鉄を各地に展開しているが、釜石製鉄所では1989年に高炉を解体し、今は特殊鋼線材メーカーとなっている。
高炉のあった場所にある高い煙突は、今も毎日水蒸気を噴き上げているが、製鉄所内なので鉄鋼生産のものかと思われがちであるが、実は火力発電を担っている。岩手県内での発電量の30%を占めるという。高炉のための燃焼技術の開発が、発電のために活かされているということのようである。
我々の子供時代は、都内でもまだ風呂のある家が少なく、銭湯がどこにもあった。そして風呂屋の煙突が住宅地でのランドマークになっていた。今でも多少残ってはいるが肩身せまそうに、高層マンションに隠れるようになっている。それに対して工場の煙突は規模も異なり、遠くからも目立つ存在である。
釜石市は最盛期1960年代には9万人を超える人口を抱えていたが、高炉操業を止めてからは工場規模も縮小され、3万5千人と減って来ている。人口としては2011年の津波災害以降ほぼ横ばいである。新日鉄住金の釜石製鉄所は、釜石駅前の広大な土地にあり、駅に降り立つと、巨大な煙突が目に飛び込んでくる。その意味からは釜石というまちにとって今もランドマークとしての意味をもっている。山を背にした市街地の中の工場の風景は、釜石ならではの味わいでもある。
煙突を眺めては、釜石の栄光の歴史を想う。これからの釜石がどう活性化して行くかは未知数である。三陸鉄道も今年度中には宮古・釜石間が復旧の見通しで、宮古・久慈間の北リアス線と釜石・盛間の南リアス線がつながる。ただ周辺の漁業集落がベッドタウン化しても市に活力がなかなか湧いて来るものではない。人口的には兄貴分である宮古、大船渡、気仙沼といった三陸の他のまち同様、漁業と観光だけでなく主軸となる企業の存在が鍵を握ることは確かだが、それがまだまだ見えない。

著者について

神田順

神田順かんだじゅん
1947年岐阜県生まれ。東京大学建築学科大学院修士修了。エディンバラ大学PhD取得。竹中工務店にて構造設計の実務経験の後、1980年より東京大学工学部助教授のち教授。1999年より新領域創成科学研究科社会文化環境学教授。2012年より日本大学理工学部建築学科教授。著書に『安全な建物とは何か』(技術評論社)、『建築構造計画概論』(共立出版)など。