びおの七十二候

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土脉潤起・
つちのしょううるおいおこる

雨水初候・土脉潤起

昔から農耕の準備を始める目安とされる雨水うすいの季節をむかえました。空から降るものが雪から雨へと変わり、雪が溶け始めるころをいいます。暦便覧には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されています。
「陽気地上に発し」なんて生易しいものではなく、暑気さえ感じる陽気の年もあります。銀座の歩行者天国を半袖姿の親子連れが闊歩する写真がカラー写真で、新聞一面にでていたり。これでは土のなかの虫たちも落ち着いておられず、啓蟄を待たずに地上に姿をみせるかも知れません。
この季節には、春一番はるいちばんが起こり、雪崩や融雪洪水、突風、竜巻などによって、毎年、地上でも海でも何かと騒がしくなります。天候によって飛行機が飛び立てず、乗客は足止めに遭うなど。
雨水の初候は、土脉潤起つちのしょううるおいおこる。雨が降って土が湿り気を含む、土が湿り気を帯びてくるといった意味でしょうか。

春の訪れを何によって感じるかは、個々違いがありますが、わたしはたんぽぽが咲くと、春が来たなと感じます。もっとも最近のたんぽぽは、外来種や、ニホンタンポポと外来種との交配種が幅を利かせるようになって、一年中花を咲かせるようになりましたが。
しかし、よく目を凝らして観察すると、和種のたんぽぽは今でも春に花を咲かせます。和種のたんぽぽは、腐葉土の多い多湿弱酸性の土質を好みますので、都市化によって生育地が狭まっているのですが……。

きょうの句は、中村草田男くさたおが38歳のとき、1939年に詠んだたんぽぽの句です。

蒲公英のかたさや海の日も一輪

文藝評論家の山本健吉は、この句を「古今のたんぽぽの句中の白眉はくび※1である」と絶賛していますが、言われるだけのことはあります。この句は、犬吠埼いぬぼうさきに立って詠まれた連作句「岩のなみ、砂のなみ」の一つで、とても気宇きう※2の大きな句です。
犬吠埼という地名を聞くだけで想起されるイメージがあります。それを意識化にのぼらせることで、一輪のたんぽぽが、怒濤の海を前にして、地に張りつくように咲いているさまがクローズアップされます。草田男は、たんぽぽをかたい表情を持つ花だと詠みます。いわれてみると、車が排気と土埃りを撒き散らすところに置かれても、たんぽぽは花を咲かせていて、かたくなに咲き続けることをモットーにしている花です。
春いまだ遠く、寒天下の犬吠埼に咲くが故に、たんぽぽの表情のかたさは際立っていて、それがこの花の生命力のつよさを表わしています。空は曇天だけれど、一条の光が、身をちぢこませて咲いている花を浮かび上がらせます。天があり、海があり、地があり、それらが一輪のたんぽぽの花に凝縮表現されているのです。

たんぽぽは、春の野に咲く花の代表なのに、短歌にも、俳句にも、あまり詠まれてこなかった花です。若山牧水わかやまぼくすいに、

多摩川の土手にタンポポ咲く頃は我にも思う人のあれかし

という歌があり、高野素十たかの すじゅうと寺山修司に

たんぽぽのサラダの話野の話
車輪繕う地のたんぽゝに頬つけて

という句があります。前者が素十で、後者が寺山です。共に、語りたくなる内容を持った名句です。牧水の歌は、たんぽぽという花の性格をよく表わしていて、たんぽぽって、そういう花だよね、と思わせてくれます。
素十の句は、食材としてたんぽぽを詠んでいて、この時季になると、野に咲く草花に目が向いて、だれかが口を開くと場が盛り上がって話の種がつきない模様が、よく詠まれています。思わずにこりとしたくなる、たのしい句です。
寺山の句については、次回の更新で書くことにします。

文/びお編集部

春霞

春霞版画

春霞はるがすみは、春の季節に立つ霞をいいます。霧と霞は違っていて、気象的には視界が1キロ未満のものを霧、それよりも遠くを見渡せるけれど、景色がぼやけて見えるものを霞といいます。霞はカスミと読みますが、モヤとも読みます。カスミは気象観測上の用語ではありません。煙や雲がたなびいたり、霧やもやなどのため遠景がぼやけて見える状態をいいます。遠景に棚引いている薄雲は霞ですが、その中に入ると霧の状態ということもあります。しかし、霧が棚引くという言葉はなく、立ち昇るは雲ではいいますが、霞がたちのぼるとはいいません。
語源的には、微(かすか/微小なさま)、掠(かす/機敏な動作で物を盗る)むと同じです。ほのめかすという意味もあります。いずれにしても、霞は遠く、微かなもの、ほのかなものです。
発生メカニズムは、気温の変化により、大気中の水分や植物の蒸散が微粒子状の水滴となり、それが可視化されることをいいますが、春になるとやってくる黄砂も含まれます。
歳時記では、霧は秋の季語とされ、春の霧は、霞にくくられます。夜の霞はおぼろといいます。朧月夜は、春の夜の、ほのかにかすんだ月をいいます。

春なれや名もなき山の薄霞 芭蕉
草霞み水に声なき日ぐれかな 蕪村
橋桁はしげたや日はさしながら夕霞 北枝ほくし
霞みけり山消えうせて塔一つ 子規
ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも 柿本人麻呂
春霞たなびきにけり久方の月の桂も花や咲くらむ 紀貫之

芭蕉の句は、人麻呂の「あま香具山かぐやま」と対比したとき、俄然、光彩を放ちます。早春の大和平野を歩きながら、「もう春がやってきたんだ」と名もなき山を見ながら詠んだのですが、この句は俳諧の人、芭蕉がくっきり顔を見せていると思いました。
北枝は、蕉門十哲しょうもんじってつ※3の一人で金沢の人です。いかにも江戸の風情が感じられていいですね。
子規の句は、秋の句「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」に対し、春の塔を詠んだ句で、霞で山が消えうせ、塔だけが立っています。

文/小池一三
※1:ずば抜けて優れている
※2:心のもちかた
※3:松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指す語
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年02月19日・2012年02月19日の過去記事より再掲載)