びおの七十二候
第6回
草木萠動・そうもくめばえいずる
「萌え」という言葉は、近頃、ずいぶん危うく用いられています。
アニメ・漫画・ゲーム等の媒体において、「萌え」は、対象への好意・傾倒・執着・興奮等のある種の感情を表す隠語だそうです。性的欲求に近い感情のスラング(符牒、俗語)と考えられますが、このオタク言葉は、そのまま日本語の乱れを表しています。
「萌え」は、古典文法にしたがえば、ヤ行下二段活用の動詞である「萌える(萌ゆ)」の連用形です。『広辞苑』で、「萌え」は「芽が出る。きざす。芽ぐむ」と記されており、雅語※1の文脈に属する言葉です。
萌葱色(もえぎいろ)は、葱の芽が出た時の、薄青と緑の中間色を指します。とてもきれいな色で、まさに春の到来を告げる色です。
「萌え」の対義語は、萎えなので、隠語としての萌えは、そこから来ているのではと勝手に解釈していますが……。
今回は、坪内稔典さんの句です。何だコリャ? と思う人がいるかも知れません。この句は、1月から12月まであります。
この中で一番評判を呼んだのが三月の句でした。暖かくなって、春めいて、思わず「うふふふふ」と含み笑いが出てしまうような、そんな感じがよく出ています。
この句を詠んだことで坪内稔典(愛称がネンテンなので、以下ネンテンさんと呼びます)は甘納豆が大好物だと思われ、あちらこちらから甘納豆が贈られてきたそうです。
俳句は、5・7・5と言う枠(定型)をつくることによって、非日常(虚構)の世界を生みます。
ネンテンさんは、芭蕉について語る中で、「古池」と「蛙」を取り合せて「古池や蛙飛び込む水の音」という名句ができたといいます。言葉の意外な取り合わせによって、思いがけない名句ができるわけで、その俳句のおもしろさ、不思議さを縦横に示したのが、一連の甘納豆の句ではないでしょうか。
「十二月をどうするどうする甘納豆」など、俳句を練っていて詰まったのか、もう今年も十二月だ、どうするということと、年が越せるのかどうか分らずに、どうするどうするなのか、いろんなふうに受け取ることができます。
ネンテンさんは、「言葉の取合せが一番簡単に、しかも見事にできるのが、実は五七五なんです。限られた字数の中で何かを表現しなくてはと考えると一見難しそうに思われるかもしれませんが、五七五というのは、やってみると意外に簡単な取合せの“装置”なんですよ」といいます。(「こだわりアカデミー」より)
どうですか、自分も俳句を詠んでみようかな、と思われましたか。
伊藤園が「おーい お茶」のイベントとして俳句を募集したところ、160万件の応募があったそうで、若い人たちの間で俳句熱が高まっているという報道がありました。日常の何気ないことを、五七五にするだけで違う世界がそこに生まれます。
花
二十四節気は「雨水」、雪が雨に変わり、地面が湿り草木が芽生えるころです。
梅は百花に先駆けて咲く、といわれ、寒さのなかにも春を感じさせてくれる花です。桜の季節はもう少し先ですが、静岡県の河津町に咲く河津桜は、1月下旬から2月ごろに咲く早咲きの桜として、河津桜まつりというイベントも開催され、観光名所になっています。
この河津桜、一部の樹に開花促進剤が使われて話題になりました。
この開花促進剤は、休眠打破剤、ともいわれ、農薬として登録されているシアナミド液剤です。
果樹の休眠打破に使われる薬剤ですが、桜の休眠打破(すなわち、花を咲かせること)にも利用できた、という成果があった、ということです。
伊豆地域を代表する誘客のイベントに‘カワヅザクラ’の景観を楽しむ「河津桜まつり」、「みなみのさくらまつり」がある。
しかし、‘カワヅザクラ’の開花時期は年による変動が大きく、あらかじめ決められたイベントの開始時点には開花が始まらないこともある。
とあるように、観光シーズンに主役がいないのでは商売上がったり、ということでの実施だったようですが、観光客は果たしてまつりが見たいのか、早く咲く桜を見たいのか…なんともすっきりしない出来事です。
シアナミドは人間に対しては、アルコール中毒の治療のために用いられる薬物です。お酒のアルコール(エタノール)は、アセトアルデヒドに分解された後、酢酸、そして水と二酸化炭素に分解されます。あのつらい二日酔い、という症状は、毒性の強いアセトアルデヒドが体内に残ってひきおこしています。シアナミドはアセトアルデヒドの代謝を阻害する、即ち酒を飲めばかならず二日酔いのような苦しい症状を引き起こすため、禁酒剤として販売されています。
そんなシアナミドを投与されて、本来の開花時期とは異なる時期に花を咲かせる――
花は、ある意味では植物の生殖器という役割以上に、人の眼を愉しませる対象でもあります。
そのため、人は園芸種としてさまざまな植物に改良を加え、また薬剤や温度などをコントロールして、その生育時期もコントロールして来ました。
たまたま観光のイベントに使われたため、報道され話題になることになりましたが、花に限らず、多くの野菜や果物がいつでも手に入るのは、そうした技術があってのことです。それと引き換えに、「旬」という考えを失った、と言えるかもしれませんが…。
世阿弥の「風姿花伝」花伝第七 別紙口伝中に
とあります。花が咲くのを見て、万事を花に例え、道理をわきまえるべし、花は四季それぞれに咲くもので、そのタイミングにあえたからこそ、珍しく、愉しめるのだ、ということです。
世阿弥は能の芸を花にたとえ、珍しいと面白いも、花と同じだといいます。「風姿花伝」というこの書物は、先人の風姿を継承するだけでなく、心から心に伝わる「花」をも受け継いでいく、ということで名付けられました。
いけばなの世界では、花のない木々も「花」と呼びます。
花は、そこにあっても「花」でないこともあれば、咲いていなくても「花」であることもあります。
ハレの日もあればケの日もある。そのどちらにも、それぞれに花があるのだと思います。
※1平安時代を中心とする古典にみえる「正しいことば」。みやび言葉とも。
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年03月01日・2013年02月18日の過去記事より再掲載)