びおの七十二候
第18回
牡丹華・ぼたんはなさく
牡丹華と書いて、ぼたんはなさくと読みます。 牡丹が大きな花を咲かせる時季をいいます。牡丹は、中国では花の王と呼ばれ、華やかさの象徴とされます。「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」など、たくさんの呼び名を持っています。子規に、
という句があります。晩年の子規は、水彩で絵を描くことが、病床の慰みとなりました。牡丹と芍薬の描き分けがむずかしくて、それが子規には愉しかったのですね。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といわれます。完全無欠の女性美を謳った言葉ですが、こういう言葉は、まずパロディの対象にされます。
「立てばパチンコ、座ればマージャン、歩く姿は馬券買い」が有名で、最後の歩く姿は「二日酔い」というのもあります。『朝日小学生新聞』で連載された尼子騒兵衛の忍者ギャグ漫画『落第忍者乱太郎』に、「立てば食欲、座れば布団、歩く姿はブリの腹」というのもあります。また、webに「立てばルージュラ、座ればプリン、歩く姿はナゾノクサ」というのがありました。
パロディの方に親近感があり、そういう人いるよね、ということになりますが、理想の女性は、何故、立てば芍薬なのか。それは芍薬が、すらりと伸びた茎の先端に美しい花を咲かせるからです。芍薬は、すっと枝分かれすることなく立っています。
牡丹は枝分かれするので横張りの樹形になり、まるで座っているかのように見えます。牡丹は、座って観賞したほうがきれいに見えます。
では何故、歩く姿は百合の花なのか。百合は、しなやかな茎の先にややうつむき加減に花を咲かせます。風をうけると揺れます。それはまるで、女性が優美に歩いているように見えるからです。いやはや、ホント、そんな女性いるのかしら?
今候の句は、このうち、芍薬を詠んだ炭太祇(宝永六<1709>年~明和八<1771>年)の句を紹介します。
という句です。花の宰相と呼ばれる芍薬の華やかさが、よく詠まれています。
太祇は、江戸時代の有名な俳匠です。太祇は、大徳寺真珠庵で道源という僧名を持つお坊さんでした。しかし、どうにも窮屈だったのか還俗して、京・島原の妓楼、桔梗屋主人呑獅の後援を受けて、遊郭内に不夜庵を結びます。そんなわけで、門人は歌舞伎者や遊女、富商などの変わり者ばかりでした。そういう人に囲まれながら、太祇は「仏を拝むにも発句し、神にぬかづくにも句せり」と詠み、酒と俳諧を生涯の楽しみとしました。
当時、京都には七歳年下の与謝蕪村がいました。蕪村は、太祇を交遊の友にしたというのは、なかなか楽しげな話です。
太祇は、大酒のため明和8年8月9日に、京都綾小路通り大宮西の光林寺にて、脳溢血で死去します。享年六十三歳。句集に『太祇句選』『太祇句選後篇』(明和六年刊)などがあります。太祇の句を幾つか紹介しておきます。
太祇の句を読むと、明和時代の京の俳諧の豊饒ということを感じます。
芍薬を詠んだ名句を紹介しておきます。
大きなランドセル
光陰矢のごとし。入学式に挑む小学生を微笑ましく眺めていたのは、随分前のことのように思えますが、まだ10日あまりが過ぎたばかりです。
子どもの頃は1年がずいぶん長かったのに、大人になったらあっという間にすぎていく、ということを感じる人は多いのではないでしょうか。小学校の6年間の長さに比べると、中学以降の6年間、そしてもっと直近の6年間は、みるみるうちに過ぎていってしまいます。
小学校1年生、6歳だとすれば、小学校生活の6年間は、それまでの人生に相当する長さです。6歳の1年は、人生の1/6。これが30歳になれば、1年は1/30。同じ1年でも5倍の速さ、という計算。なるほど、そういう考えかたもあります。
いっぽうで、かの天才の有名な言葉。
When a man sits with a pretty girl for an hour, it seems like a minute. But let him sit on a hot stove for a minute and it’s longer than any hour. That’s relativity.
可愛い女性と一緒にいるときは1時間が1秒に感じられるけど、ストーブの上に一分座っていたら、どんな時間より長いだろう。それが相対性理論だ。
相対性理論の説明を求められたときの、アインシュタインの言葉です。
相対性理論に基づく(?)と、小学校の生活は苦痛な時間で、大人の時間は素敵な時間、なのかもしれません。でも、酸いも甘いも噛み分けてくると、なかなかそれも、素直に認められませんね…?
20年ほど前、『ゾウの時間ネズミの時間』という本が話題になりました。
ネズミの寿命はゾウに比べてずっと短い。けれど、それでネズミがかわいそうというわけではない。
哺乳類の寿命は体重の4分の1乗に比例して、心臓が脈打つ周期が長くなり、生涯での心臓の鼓動の回数はほぼ同じ。
ハツカネズミは2〜3年、インドゾウは70年ほどを生きるけれど、心拍数は同じぐらいの回数で、それを単位に考えれば、ほぼ同じ時間を生きている、ネズミにはネズミの、ゾウにはゾウにとっての時間がある――という話です。
とはいえ現代人は、この法則に当てはまらずに長命です(当てはめると、30年未満になってしまいます)。
子どもの心拍数は一般的に大人より早く、つまりこの法則を部分的に当てはめれば、同じ時間のなかでも、子どもは大人よりも濃密な時間を送っている、といえるでしょう。
大きなランドセルが、だんだん小さくなっていくように、彼らにとっての時間は、大人が思っているほどに絶対的なものではないのかもしれません。
現在施行されている新学習指導要領では、小学校は23年度から、中学校は24年度から、高校は今年、25年度から、授業のコマ数が増えています。
ゆとり教育といわれ、減ってきた授業時間が、「脱ゆとり」、「生きる力」を鍛えるとして、増加に転じました。
小学1年生は、平成20年度の旧要領による年間782コマ、週23コマから、移行期間を経て平成23年度から年間850コマ、週25コマの授業日数に増加しています。
大きなランドセルの新1年生も、少しずつ学校に慣れ、だんだん本格的な授業に入っていきます。
結局のところ、時間の流れを感じる速さの違いは、どの説も完全に納得できる、というものではありません。そもそも、「神様が与えてくださった平等(本田宗一郎)」であるはずの時間が、あくまで社会的なものであり、本人にとって、一人ひとりにとって異なる流れをしているのだ、と考えると、まさに時間というものがなんなのか、わからなくなってきます。
はたして脱ゆとりが正しいのか、その結果は簡単にはわかりません。兎も角、大きなランドセルを背負った子どもたちの、大人に比べておそらくずっと長いかれらの1日、1年を、どうか大切に使って欲しいと思わずにいられません。
(2009年04月30日・2013年4月20日の過去記事より再掲載)