びおの七十二候
第32回
蓮始開・はすはじめてひらく
蓮始開と書いて、はすはじめてひらくと読みます。蓮の花が開き始める時候をいいます。
夜明けと共に、泥の中に、水を弾いて優雅な花を咲かせ、4日目には散ってしまいます。俗世にあって俗世にまみれず、清らかに気高いことから、古代の人は、この花に極楽浄土を見ました。
蓮の花の中には、何千年もの間、泥に眠り続けている種子があるといいます。それがあるとき、ふいと水上に現れて花を咲かせることがあるというのです。
実際にそんなことがあるのか不思議でなりませんが、1951(昭和26)年、千葉市検見川の「縄文時代の船だまり」から発見された3粒の蓮の実は、植物学者・大賀一郎博士(1883〜1965)によって、約2000年前のものと鑑定されました。
その種子は、地下約6メートルの泥炭層から発見されました。大賀博士が発芽を試みたところ、3粒のうち1粒が、その年の5月に発芽し、翌年7月に開花しました。以来、大賀ハスは「世界最古の花」とされ、千葉市千葉公園に移され、また国内外に根分けされました。
古代蓮は各地に見られます。なかでも埼玉県行田の「古代蓮の里」は有名です。この蓮は、ゴミ焼却場建設予定地を掘り起こしている途中に自然発芽し、開花しました。行田蓮は、1400年前から3000年前のものと推定されます。JR高崎線行田駅からシャトルバスがほぼ毎日運行しています。10万株が花開きます。
蓮は「蜂巣」の略とされます。
花床にたくさんの穴があいていて、それが蜂の巣に似ていることから付けられました。
仏典では「蓮華」の名で登場し、仏像の台座によく使われます。スペインのアルハンブラ宮殿にも、蓮池があります。あの蓮池に立つと、不思議とアジアを感じるのは、古代蓮を持つ国に住んでいるからでしょうか。
地下茎はレンコン(蓮根)として食用になります。花、葉、茎、種子なども食用になります。
さて、正岡子規の
という句を紹介します。
子規は、1893(明治26)年7月19日に、開通間もない東北本線の汽車に乗って仙台を目指します。この句は、上野停車場に立って詠んだ句です。
『奥の細道』を意識した句で、芭蕉の野ざらしの旅ではなく、自分はお気楽に、下駄をはいて、ちょいとみちのくに涼みに出掛ける、と洒脱※1にいうのです。
「鉄道の線は地皮を縫い、電信の網は空中に張るの今日」であれば、奥羽が遠いというのは昔の話で、「今は近きたとえにや取らん」と『はてしらずの記』に書きます。奥羽も、今では鉄道のおかげで近くなったというのです。当時、仙台までは12時間を要しましたが、芭蕉の時代に比べれば楽なことでした。
この旅は、子規26歳、新聞社に入社した翌年のことでした。
子規は、仙台に行く途中、二本松で汽車に乗り直し、福島に到着し、そのあと信夫山に散策します。その翌日、子規は信夫文知摺石を見るため文知摺観音に足を延ばします。その石は、芭蕉が訪ねた石でもあって、石の表面に、愛しい人の姿が現れるという伝説があります。石の前に立って、
という句を詠みます。感慨一入といいたいところだけど、自分は暑さに閉口したというのです。子規は、帰り道も炎熱に悩まされました。ところが、人力車で飯坂温泉を目指すと、次には肌寒さが襲ってきて、
「涼極つて冷。肌膚粟を生ず。湯あみせんとて立ち出れば雨はらはらと降り出でたり。浴場は2箇所あり雑踏芋を洗ふに異ならず」(前掲)
と綴ります。
飯坂温泉については、
「ままよ浮世のうき旅に行く手の定まりたるもの幾人かある。山あれば足あり金あれば車あり。脚力盡くる時山更に好し財布軽き時却って羽が生えて仙人になるまじきものにもあらず」
と書いて、
という句を詠みます。この句碑は、飯坂温泉に立っています。
子規は、仙台に着いた後、松島などに遊びます。
8月6日に、作並温泉から関山峠を越えて東根に入り、楯岡に1泊します。7日は大石田。
翌8日は大石田から川船で最上川を下りました。
子規は古口に1泊して、清川まで船で下り、清川から陸路を歩き酒田に着きました。このとき、子規は下駄を捨てて草鞋に変えます。酒田からは、芭蕉が辿った北越への道ではなく、秋田、岩手へと回ります。
「宿を出て北する事一二里盲鼻に至る。邱上に登りて八郎湖を見るに、四方山低う囲んで細波渺々唯寒風山の屹立するあるのみ。三ツ四ツ棹さし行筏静かにして心遠く思ひ幽かなり」
という句を詠んでいるものの、子規は、もうくたくたの状態でした。秋田に行ったというものの素通りに近いものでした。ふらふらになって東京に戻ったのは、出発から約一ヶ月後の8月20日のことでした。
子規は、3年前に喀血し病魔に冒された身体でした。
この旅の顛末は、子規という人をよく表しています。
それにしても上野停車場で詠んだ、出だしの「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」は、いいですね。青年らしい客気があって、とても好きな句です。
日本には緒を用いる、よき履物が三つあって、その一つは、足を乗せる部分に木の台を用いる下駄で、もう一つは草などの柔らかい材料を用いる草履、三つ目は、踵まで覆い足から離れないように緒で結ぶ草鞋です。
下駄は中国にもありますが、日本語の下駄にあたる言葉はないといいます。木靴まで含めて木履といいます。
オランダに行くと、この木靴がお土産で売られています。オランダの湿地帯で仕事をする農夫や 漁師たちに必需品だったそうですが、履いてみて、履き心地が悪く、オランダ人はこれを履きこなしているのか、興味を持ちました。オランダ人が下駄屋や草鞋を履いたら、多分、同じことをいうでしょうが。
日本では、9割以上が砂利道であった市町村道に、東京オリンピックを契機にアスファルトによる舗装が広まり、下駄が廃れたといいます。
下駄の良さは、あの音にあります。「カラコロ」あるいは「カランコロン」と鳴ります。
その音を響かせて、子規は、子規の「奥の細道」に出掛けたのでした。
さて、この「びおの七十二候」は、俳句を主に取り上げて来ましたが、次回から少し趣旨を変えてお届けして行く予定です。お楽しみに。
※1:さっぱりしていること。またはそのさま。
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年07月12日の過去記事より再掲載)