びおの七十二候

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雷乃収声・かみなりすなわちこえをおさむ

秋分雷乃収声
稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ  中村汀女ていじょ

秋分の初候は、雷乃収声かみなりすなわちこえをおさむです。次候は、蟄虫坏戸むしかくれてとをふさぐです。雷乃収声の前候は、白露の末候、玄鳥去つばめさるでした。気づくことは、これらはすべて春の候と対になっていることです。春は、蟄虫啓戸かくれたるむしとをひらく雷乃発声かみなりすなわちこえをはっす玄鳥至つばめいたるの順になっていて、四季の巡りの微妙が、この七十二候に映し出されています。

さて、雷乃収声ですが、読んで字の如く、雷が鳴り響かなくなる季節をいいます。秋分の日を告げるのが「雷乃収声」だというのは、とてもドラマチックな話だと思いませんか。

夏の間、夕立とともに鳴り響いた雷鳴は、この頃になると鳴りを潜めます。遠雷です。遠雷は夏の終わりを告げる雷です。

余談になりますが、立松和平に『遠雷』という小説があります。この小説は、野間新人文藝賞を受賞しており、根岸吉太郎監督によって映画化されています。バブル経済前夜の1980年代、都市化の波が押し寄せた宇都宮郊外を舞台にして、悩ましい青春物語が繰り広げられます。この映画はDVDにもなっており、主演は永島敏行と石田えりです。この映画では、最後のシーンに、雨がないのに「遠雷」が響きます。

舞台となった宇都宮は、「雷の銀座通り」とされ、「雷都ライト」と呼ばれています。宇都宮には、この名前がつけられた「雷都ビール」という名の地ビールや、「雷都物語」という名前のお菓子もあります。

秋の雷鳴は、夏のそれと比べると寂しい音色です。

雷鳴は放電現象が発生したときに生じる音ですが、雷が地面に落下した衝撃音ではなく、放電の際に放たれる熱量により、雷周辺の空気が急速に膨張したときに生じる衝撃音です。秋になると、放電の熱量が小さくなり、したがって雷鳴の音量も小さくなるのです。

「雷」「かみなり」は季語としては夏を表しますが、「稲妻」は秋の季語です。

古語や方言などではいかずち、ごろつき、かんなり、らいさまなどとも呼ばれています。稲妻は、雷の光で、稲光いなびかりともいいます。落雷した田では、稲が良く育ったため稲穂は雷に感光して実るとされ、そこから稲の「妻」と呼ばれるようになります。

古今集に、

秋の田の穂の上を照らす稲妻の光のまにもわれや忘るる」
(巻十一 五八四) よみ人知らず

という歌がありますが、電光が稲を実らせることを歌っています。

秋の雷鳴は寂しいものですが、闇夜に走る稲妻は美しく、澄んだ秋の空気を裂いて夜空を明るくします。それはまるで花火のようで、ここに紹介した「稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ」という句は、そんな稲妻に魅せられた句です。

音もなく、遠くに稲妻の閃光が走る、それを眺めていると飽きることはないけれど、そろそろ寝る時間なのでは、という句です。

中村汀女(なかむらていじょ/ 明治33年~昭和63年)の句です。

汀女の有名な句に

外にも出よ触るるばかりに春の月

がありますが、秋の稲妻と似ています。汀女の句は、みなこのような句で、家庭的な日常茶飯を、その細やかな感情を、淡々と詠んだ俳人として知られます。現代女性に俳句を広げた功労者とされています。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年09月23日の過去記事より再掲載)


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