びおの七十二候

55

山茶始開・つばきはじめてひらく

山茶始開

立冬です。
立冬とは、冬の始まりを意味します。二十四節気の一つ。毎年11月7日か8日ごろ。
立冬は、この日から小雪までの期間をいいます。秋分と冬至の、ちょうど中間にあたり、昼夜の長短を基準に季節を区分すると、この日から立春の前日までが冬となります。

七十二候の「山茶始開」は、立冬の初候。
ひらがなでは「つばきはじめてひらく」と表記されますが、山茶は椿(つばき)ではなく、山茶花(サザンカ)のことをいいます。
椿と山茶花は、同じツバキ科ツバキ属ですが、花期(椿は12〜4月、山茶花は10〜12月)が違います。落花は、椿が首から落ちる(それが斬首刑をイメージさせるのか、武士は椿の花を嫌いました)のに対して、山茶花は一枚一枚バラバラに散ります。
葉は、椿にはギザギザがありませんが、山茶花は鋸歯です。樹高も葉長も異なります。一番大きな違いは、椿には芳香がありませんが、山茶花は独特のニオイがします。それにしても、山の茶の花とは地味な名前です。けれどもその花は、名前に反して艶やかな花です。

童謡に「たきび」(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂)という歌があります。一番は「かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき」で始まりますが、二番は、

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

という歌詞です。さざんかの花が咲く道で焚き火をする模様が歌われているのですが、垣根のある道の曲がり角であったり、山茶花が咲く道で焚き火をすることはなくなったので、今の子どもたちには想像し難い光景でしょうね。
ツバキ科の植物は熱帯から亜熱帯に自生していますが、ツバキ、サザンカ、チャ(茶の木)は温帯に適応した珍しい種とされ、日本は自生地としては北限といわれます。

さて、今回の句は正岡子規です。
1867(慶応3)年9月17日に生まれ〜1902(明治35)年9月19日に亡くなりました。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに(のぼる)と改めました。22歳に喀血して、死を迎えるまでの約7年間結核を患っていました。享年34歳。辞世の句は、

糸瓜咲(ヘチマさい)(たん)のつまりし仏かな

子規の忌日は、この句にちなんで「糸瓜忌」(9月19日)といいます。また、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいいます。

子規については、秋山真之や夏目漱石、高浜虚子、伊藤左千夫、長塚(たかし)、岡(ふもと)との関係など、書くべきことは山ほどあります。子規は、日本に野球が入ってきたときの最初の選手(2002年に野球殿堂入りを果している)でもあって、これについてもエピソードがたくさんあります。

筆名の子規は、ホトトギスを意味します。ホトトギスは、不如帰、時鳥、杜鵑と書きますが、子規とも書きます。当時、ホトトギスは「啼いて血を吐くホトトギス」といわれたように、不治の病とされた結核の代名詞でした。ホトトギスが啼く姿が、結核患者が血を吐く様子に似ていたからです。
劇団新派のレパートリーに、徳富蘆花が書いた『不如帰』があります。主人公浪子は、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」という名セリフで知られ、初代水谷八重子の当たり芸となり、映画にもなっています。浪子は結核患者でした。正岡子規は、血を吐いて結核患者だと分かったとき、

卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規

という句を詠みます。卯の花もホトトギスも初夏5月の季語です。彼は自分に与えられた時間を10年と考え、子規(結核)を名乗りました。同じ時期、子規の親友の夏目金之助は「漱石」を名乗ります。漱石とは、負け惜しみが強い人物のことをいい、中国の故事にちなむペンネームでした。

子規は、日清戦争の従軍記者から帰国途上の船中で大喀血しました。松山に帰郷し、松山中学校に赴任していた夏目漱石の下宿で静養しました。子規は、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症し、床に伏す日が多くなりました。死の前年から亡くなる寸前までの日々を、三度の食事の献立から病苦と死の恐怖への煩悶について書きとめた日録『仰臥漫録』(ぎょうがまんろく/岩波文庫)があります。
この日録は、何の誇張も虚飾もなく、淡々と書かれているのですが、その内容は壮絶なものです。死の前年(1902年)9月14日の日録を見てみます。

九月十四日 曇
午前二時目さめ腹痛し 家人を呼び起こして便通あり 腹痛いよいよ烈しく苦痛堪えがたし この間下痢水射三度ばかりあり 絶叫号泣 
隣家の行山医を頼まんと行きしに旅行中の由 電話を借りて宮本医を呼ぶ
吐あり
夜明やや静まる 柳医来る 散薬と水薬とのむ
疲労烈し
氷片をかむ あるいは葡萄酒を入れて
牛乳 葛湯 ソップ 飴湯

何とも凄まじい記録である。痛みをモルヒネで抑えていたものの、脊髄カリエスが悪化して臀部や背中に穴があき膿が流れ出ていました。けれども、日々の食事は、これもまた凄まじい食欲を示していて、たとえばそれはこんなふうでした。

九月十九日
朝飯 粥三碗 鰹のさしみ 味噌汁さつまいも 佃煮 奈良漬 梨一つ 葡萄一房
間食 牛乳五勺ココア入 菓子パン 塩センベイ 飴一つ 渋茶
便通及包帯取替
晩飯 粥三碗 泥鰌鍋 キャベツ 奈良漬 梅干 梨一つ

十月一日 晴
朝 ぬく飯三わん 佃煮 なら漬
便通及ほーたいとりかへ
牛乳五勺ココア入 菓子パン
午 まぐろのさしみ 粥三わん みそ汁 なら漬 林檎一 ぶだう一ふさ
牛乳五勺ココア入 菓子パン
便通やや堅し
晩 親子丼(飯の上に雉肉と卵と海苔とをかけたり)焼茄子、なら漬 梨一 林檎一

この2日間だけ特別に食欲があったわけではありません。延々とこういう記述が続きます。この頃の子規は寝たきりの病人でした。食事も、原稿を書くのも、すべて寝たままです。題名の「仰臥」とは仰向けのことを言います。「漫録」とは短文、俳句、日記、墨絵などによる記録をいいます。子規は仰向けのまま、筆を執って半紙に軽やかに俳画を描いたと言われます。墨の濃淡が巧みに使われていて、仰向けでなければ出せないような描線が、岩波文庫からうかがえます。
子規は、臀部や背中の膿がでるので、寝返りを打てません。それでも、子規は食べ続けます。まるで食べることが生の証であるように……。そういう状態においての朝、昼、晩の食事でした。毎日欠かさず出てくるのが「牛乳五勺ココア入」「菓子パン」です。間食というだけでなく、食後、間を置かずに飲み、食べています。
嵐光三郎さんは「文人悪食」の中で「子規の悪食」(新潮文庫)を指摘します。

三羽の鴫を翌日の昼食に焼かせて三羽とも一人で食い、粥三わん、梨、葡萄もあわせて食い、間食に牛乳一合、菓子パン大小数個、塩煎餅、夕食は与平鮨二つ三つ、粥二わん、まぐろさしみ、煮茄子、なら漬、葡萄をたいらげ、さらに夜食として林檎二切、飴湯を飲んだ。

食いしん坊として人後に落ちない嵐がいうのだから、これは本物の「悪食」というしかありません。嵐はお酒の好きな人でしたが、子規は下戸で、甘いものが好きな人でした。
そういう人であることを知って、

柿くへば鐘がなるなり法隆寺

を詠むと、そのときの子規の調子が伝わってくる気がします。
柿は法隆寺の鏡池脇の茶店で出されたものでした。法隆寺の周辺は「富有柿(ふゆうがき)」の産地でした。茶店の「下女は直径一尺五寸もありさうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た。流石(さすが)柿好きの余も驚いた」(明治三十四年四月「ホトトギス」)
山と盛られた柿を食べたら鐘が鳴った、何という明朗な句でしょう。子規は、喀血した自分を血を吐くホトトギスに見立てて俳号したことにみられるように、自虐気味の俳人と見られるかも知れませんが、この湿気のなさはどうでしょう。
食べ物を詠むことは、短歌ではあり得ないことでした。

柿などゝいふものは從來詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に余良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかった事である。余は此新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかつた。(『くだもの』)

と書いていて、漱石の『坊ちゃん』がそうであったように、伊予のハイカラ好みが横溢している句といえないでしょうか。

山茶花を雀のこぼす日和かな

今回の句にも、穏やかな子規がいます。
子規のことは、また書きます。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年11月07日の過去記事より再掲載)

山茶花と猫