びおの七十二候

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虹蔵不見・にじかくれてみえず

虹蔵不見

きょうから小雪(しょうせつ)です。この日から大雪までの期間をいいます。
小雪は、太陽黄経が240℃のときにあたり、北国や山間部で、チラホラと雪が降り始めるころをいいます。

七十二候にいう「虹蔵不見」は、春の清明の末侯「虹始見(にじはじめてあらわる)」に対置されていて、そのときから約7ヶ月、日の光が弱まって虹が見えにくくなる頃をいいます。
晩秋から冬にかけて、虹をみることはあまりありません。けれども、季語に「冬の虹」があるように、雨上がりの暖かい日に、おもいがけず虹をみることがあります。しかしその虹は、夏のように確かなものでなく、どこか弱々しく、じきに消えます。だけど印象は鮮明で、こころに残ります。
しかし、虹はどうして円弧状の光を描くのでしょうか。英語のレインボー(rainbow)は、「雨の弓」を意味します。また、フランス語ではアルカンシエル(arc-en-ciel)といい、「空に掛かるアーチ」を意味するそうです。

水滴がプリズムの役割を果たし、光が分解されて赤から紫までの光のスペクトルが並ぶのが虹です。アイザック・ニュートンは、望遠鏡の研究の過程において、プリズムに白色光をあてると、色が分解し虹が見られることを発見し、虹の色数が七色であると最初に言いました。
ニュートン七色虹説は専門家の間でずい分、物議をかもしましたが、最終的にはドレミの音階(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)から七という数字に落ち着きました。

この虹が円弧を描くのは、観る人を基点とすると、太陽とは正反対の方向の対日点(たいじつてん)が、地平線の下にあるため、虹は半円に見えるのだといいます。この理屈は、まあ分かるとして、虹を、単なる大気光学現象の理屈に押し込んで、分かったつもりになりたくありません。それは、あの円弧状の光彩に、多くの人が思いを託してきたからです。時間が経過すると、しかし虹は儚く消えてなくなります。虹は消えても、そこにたしかにあったのです。残像もまぶたにくっきりと残っています。
つまり、現象的には大気光学現象ですが、人のこころに色濃く残るのが虹なのです。
虹を手持ちのカメラで撮って、あとで見るとひどくつまらない写真になっていて、がっかりすることがありますが、虹は、その意味で大気が折りなす瞬間芸なのかも知れません。

さて、富澤(とみさわ)赤黄男(かきお)の句です。

あはれこの瓦礫(がれき)の都冬の虹
稲光りわたしは透きとほらねばならぬ

という句を詠んで、まるでシュールな絵画のような句と思ったものです。
赤黄男には「あはれこの瓦礫の都冬の虹」とは別に、虹を詠んだ句があります。

乳房やああ身をそらす春の虹

というもので、乳房や、と詠み出し、弓のように身をそらす女性の律動があって、その向こうに春の虹が架かるのです。きれいで、生命感に溢れた句です。
この句に対して「あはれこの瓦礫の都冬の虹」は、空襲で焼け野原となった東京の空にかかった虹を詠んだもので、感情に流されないで瓦礫の都を凝視しているが故に、冬の虹がいっそう儚く感じられる句です。
この二つの句は、色取りを異にしていますが、通底するものが巌としてあります。それは対象を決して見逃さず、しかと客観視する目を一方に持ちながら、自己内部からの、突き上げるような発露があるということです。
俳句的趣向がありません。素朴な写実主義もありません。高浜虚子(きょし)や、前回に紹介した星野立子の句と読み比べると、そのことは如実です。赤黄男の句は『ホトトギス』に投稿されましたが、入選することはありませんでした。虚子およびホトトギス派とは、結局、世界が違っていたのです。

富澤赤黄男は、1902(明治35)年、愛媛県西宇和郡保内町川之石(現八幡浜市)に生まれました。保内町は佐田岬半島の付け根に位置する町で、柑橘類の生産が盛んです。町に赤黄男の句碑が立っていて、そこには、

蜜柑酸ゆければふるさとの酸ゆさかな

と刻まれています。赤黄男は、早稲田大学を出て、国際通運東京本社に勤めたのち、帰郷します。国立第二十九銀行(現在の伊予銀行)に勤めますが、その後、父が事業に失敗して家産を失い、赤黄男も銀行を退職に追い込まれることになります。以後、赤黄男は職を転々とすることとなり、生活の辛酸を舐めます。

貧乏にまけさうになる水を飲む
さぶい夕焼である金銭借りにゆく
金銭貸してくれない三日月をみてもどる
氷砂糖かりかり噛んで風邪の妻
風邪の妻梅酒に酔ふてゐたりけり
困憊(こんぱい)の日輪をころがしてゐる傾斜

赤黄男は、大阪に移りますが、工兵将校として中国各地を転戦し、マラリヤに罹り帰国、また北千島の戦地に赴き、終戦をむかえます。

戞々(かつかつ)とゆき戞々と征くばかり

これは、「蒼い弾痕」に収録されている戦争俳句です。戦場の体験が、赤黄男自身の肉体を通して詠まれています。つまり赤黄男は、貧困と戦争の只中を生きた俳人でした。花鳥風月に目が向わなかったのは、むべなるかなです。
赤黄男の俳人としての流れは、雑誌「ホトトギス」の有力同人であった水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)が、同誌を脱退したことに端を発します。秋桜子は、客観的写生を唱える虚子とそれを支持する高野素十(すじゅう)に反発して、俳句の題材を自然と関わる人間の生活そのものに求めました。これに刺激された若い俳人たちは「新興俳句」を立ち上げ、より過激な俳句革新運動を起こします。若い作家たちは季語を拒否し、新しい俳句を目指します。
赤黄男は象徴主義の詩の影響を受け、俳句に抽象的な表現、隠喩(メタファー)の手法を導入しました。このため、赤黄男の俳句は難解といわれます。

爛々と虎の眼に降る落葉
蝶墜ちて大音響の結氷期
石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり
雪つもる夜は深海の魚となる

新興俳句運動が盛りあがり、それが軍国主義とぶつかり、弾圧にさらされたとき、ほかの上調子のものは、完膚なきまでに潰されましたが、赤黄男の句は、それ自身の世界を持っていたので、時の権力の手によって葬り去られることはありませんでした。
それは太宰治が、言論統制の厳しい時代において『お伽草子』(吉本隆明は、日本の抵抗文学の最良の書といっています)を書き、久保栄が『火山灰地』を書いたのに似ていて、これらの句が分かりにくいのは、当時の状況下、抽象的な表現、隠喩の手法を駆使するほかなかったことに起因しているものと思われます。
この最後に挙げた「雪つもる夜は深海の魚となる」などは、想像を逞しくすると、ぐっと胸に来るものがありませんか。かつて戦前の読者が、伏字で消えた文字を必死になって読み取ったように、隠喩を楽しみ、解きながら詠んでみてください。

いま、世界的に「貧」があらためて浮上しています。日本では、小林多喜二の『蟹工船』が時ならぬブームを呼んでいます。ドイツではカール・マルクスの『資本論』が売れていて、東独崩壊後、すっかり落ち目になっていた資本論の講座が大学で再開され、多数の学生によって盛況を極めているといいます。フランスでは、金融危機によって銀行が危ないということなのか、金庫が1929年の金融恐慌以来の売れ行きだといいます。
こんなふうでは、花鳥風月を言っていられないので(ほんとうの花鳥風月は、赤黄男の向こうにあると筆者は思っておりますが)、これからの時代、富澤赤黄男は蘇るのではないか、という予感があります。
もう一度、四つの句を並べてみます。

爛々と虎の眼に降る落葉
蝶墜ちて大音響の結氷期
石の上に秋の鬼ゐて火を焚けり
雪つもる夜は深海の魚となる

抽象的で難解と思われた句が、急にイキイキとした世界を持ったものとして詠めませんか。今を悩む若い人は、みじめな現実を超えた一種名状し難いまでの誇り高さ、といってよいのか、そういう赤黄男の句につよく魅かれるのではないでしょうか。
赤黄男の句は、思念的に見えて、いずれも自己の肉体を通り抜けた句であり、厳しい自己問答と葛藤の果てのものです。実に禁欲的で、孤絶した姿勢から発露されたメッセージがここにあります。赤黄男(かきお)というペンネームも、句を詠み込むと、何だか分かったような気になってきます。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年11月22日の過去記事より再掲載)

虹と猫