「ていねいな暮らし」カタログ
第34回
使い手の「手」で考える
——『工芸批評』
前回からご紹介している『工芸批評』について、私は、高木崇雄氏の「工芸は存在しない、」と、沢山遼氏の「無頭人の連鎖」とをおもしろく読みました。どちらも、最終的には使い手ないしは「手」を工芸批評におけるキーワードとして語っています。これはどういうことでしょうか。
高木氏の文章は、タイトルの「工芸は存在しない、」という話に始まり(これは比喩ではなく、工芸が美術制度的に「残りもの」扱いされてきた経緯からこのように表現されています)、工芸を持ち上げる際に使われがちな「自然」という言葉を手がかりに、柳宗悦の民藝運動につなげ、権威的なものへの抵抗として花森安治の『暮しの手帖』の話へとつながっていきます。そして、英文学者の吉田健一の「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」1 の一節を引用し、最後に「生活工芸」について触れます。
高木氏は「生活工芸、というムーブメントのはたから見た面白さは、作家ではなく、売り、使う側にこそ主導権がある、つまり「生活者ー工芸」となっていることだ」2 と言います。使い手の人たちは、「生活工芸」をうたう人たちの抱える困難について興味があるわけでもなく、作家たちの思いといったものも都合よく解釈できる立場にいます。それゆえ、使い手たちは、工芸が直面している制度的なものとも「すれ違」うことができると言い、従来の「工芸論」とは別の回路が使い手にはあると指摘します。
このことは、次に紹介する沢山氏の文章ともつながっているように読めます。工芸には、(無名の)制作者たちがいると同時に、無名の使い手がいることに着目し、「一個人の寿命を超えて存在する工芸作品の使用者たちこそが無名であった。使用者が複数存在するゆえに、それが継承される過程で生じるのは、無数の判断=批評の連鎖」3 であることを考えようとします。沢山氏は、ルドルフスキーの無名建築群の議論を持ち出しながら、工芸は作品であると同時に、人の手を介して伝えられていく道具であり、使い手による「使いやすさ」の判断が、結果的に工芸物への批評として機能していると言います。
これらの論考は、工芸作品の一つ一つに対する造形批評ではなく、人々の生活とともにある工芸という状態そのものについて説こうとした文章となっています。三谷氏たちの掲げる「生活工芸」は、「生活」を主題にし、こと、工芸は産地のあるもの=場所に紐づいたものでもあるので、それは無数の、小さな、使い手による物語を引き受けることで成立するものと言えます。
現に、本書の中ほどに載っている「工芸批評展」のために選んだ「工芸品」5点について、高木氏は「メキシコのブリキ絵」や「新羅凧」、「そばちょこ」等を挙げています。ここに説明として付されるのは、造形のことよりも、これらがどのような背景を持ち、どのように販売されているのかなどの話です。ものについて知ることは、ものを選ぶことや使うことでもある、ということのようです。
(2) 高木崇雄(2019)「工芸は存在しない、」『工芸批評』p.19
(3) 沢山遼(2019)「無頭人の連鎖」『工芸批評』p.34