びおの七十二候
第72回
鶏始乳・にわとりはじめてとやにつく
大寒は、冬の最後の節気にあたります。鶏始乳は、その大寒の末候。乳と書いて、「とやにつく」と読みます。春の気を感じたニワトリが、鳥屋に入って卵を産む時候をいうのですが、今は人工的に採卵されるので、この自然は壊れています。季節を感じて産まれる卵を食べたいと思います。
今年の節分は2月3日。旧暦の晦日にあたります。昔は、四季の移り目をそれぞれ節分といっていましたが、今は立春の前日だけを節分と呼んでいます。節分には、1年の終わりに豆をまいて鬼を追い払い、そうして福を招き入れます。
二月の異称は如月です。衣を更に重ね着をすることから、「衣更着」とされますが、草木の芽の張り出す月=「草木張月」、あるいは「萌揺月」との説もあります。このいずれも春の到来を告げる言葉です。
節分の日に、柊の一枝を鰯の干物を刺し通して戸口に挿しておく習慣が熊野、志摩の漁村にあります。柊の葉は棘ていて、その棘を用いて、鬼が戸口より侵入するときに鬼の眼を刺すというのです。目突き柴、鬼の目刺しなどとも呼ばれるユエンで、鰯を目刺しというのは、ここから来ているといいます。
さて、大寒の末候ということで、究極の冬の句を取り上げます。西東三鬼の句です。西東三鬼は〈さいとうさんき〉と読みます。本名が齋藤敬直で、その〈さいとう〉と、英語のサンキューを捩って〈さんき〉と名乗りました。
得体が知れないような恐いペンネームですが、わけを知ると、何だそれはと拍子抜けしてしまいます。三鬼は1900(明治33)年に岡山県の津山に生まれた歯科医でした。33歳のときに、患者達のすすめで俳句を始めました。そのときに、このペンネームを用いました。そんな三鬼の俳句開眼が、後に新興俳句を代表するといわれるこの句です。
昭和10年の冬のある日、三鬼は、肺結核を発症し、四十度の高熱に魘され、毎日、毎夜、死線の境をさまよいました。熱に浮かされた頭を冷やす水枕が、何故、寒い海へと飛躍するのか。この場合の、寒い海は「死海」を意味します。三鬼は熱に浮かされながら、夢の中で、その熱で溶けた水枕の氷が砕ける音が聞こえたのだと思います。そこから夢は寒い冬の海に直結してしまい、驚いた三鬼はガバリと起き上がります。俺はまだ生きていた、という感じでしょうか。
死線をさまよって目覚めた経験を持つ人から話を聞いたことがありますが、その人は、ぼんやりと目覚めたといいます。周りの人が、その人の名前を呼んでいるけれど、自分は言葉を発せない、そのもどかしさが段々と膨らんで、あゝ自分は生還したのだと思ったといいます。
三鬼が、ガバリと起き上がれた(あるいは起き上がったと感じられた自分)ということは、寝ている間に体力が回復しているか、よほど強い生命力を心中に持つ人だったのでしょう。
熱が出ると、昔はすぐに水枕が用意されました。微熱なら水だけを入れ、高熱の場合は氷を入れました。それは日常の生活用具そのものでした。この即物的な水枕を、ガバリという擬態語を間に挟んで、死の海という超絶の世界、非現実的な心象風景へと変容を遂げているところに、この句のただならぬ世界があります。
これらは三鬼を代表する名句です。どれも斬新で、洒脱で、機略縦横、ユーモアに富んだ句です。俳人というと、芭蕉でお馴染みの宗匠帽を被った像を想像しますが、三鬼のトレードマークは、コールマン髭とベレー帽でした。いうところのダンディ男で、お騒がせなドンファンでもありました。
三鬼は、京大俳句会に所属し、新興俳句運動の担い手でした。この句は、戦争に批判的な句で、戦時下の特高から目を付けられることになり、京大俳句事件で検挙されます。
以下は、戦後の句です。
戦後民主主義で解放された生の謳歌と、一方において、性に追われ疲れ続けた三鬼がここにあります。最後の句の「夜の桃」は、女陰を意味していて、戦後の三鬼は、はちゃめちゃとしか言いようのない女性遍歴を重ねたのでした。webで検索すると、どこまで本当なのか分かりませんが、とんでもないエピソードが「見ていたように」書かれていて、相当に割り引いて読んでも、まあ大変な人だったようです。
しかし、三鬼には広島を詠んだ句もあって、これらの句には、いのちを破壊する原爆に対する鋭い批判が籠められています。
三鬼は、亡くなる1ヶ月前に『変身』という句集を発行します。
この句の「声なり」の初五は四音で破調です。それが利いていると大岡信は『新折々のうた4』に書いています。若い頃の三鬼の才気溢れる句と違って沈痛でありますが、人生への凝視がここにあります。
36年8月、三鬼は末期癌の宣告を受けます。亡くなった日はエイプリル・フールでした。一代の鬼才、ドンファン三鬼の最期の日が4月1日だったのです。
(2009年01月30日の過去記事より再掲載)