色、いろいろの七十二候

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霜始降・時雨

時雨
こよみの色

二十四節気

そうこう

霜降
鶸色ひわいろ #D7CF3A

七十二候

しもはじめてふる

霜始降
錆桔梗色さびききょういろ #695F88

秋になると、日本海上で発生した対流雲が次々と日本海沿岸にやってきます。
そうすると時雨が降り、雲が去ると、また晴れます。
日本海岸気候と太平洋側気候の境界に位置する場所、たとえば京都だとか、善光寺のある長野、高山、会津あたりでも、風とともに時雨がやってきます。
そのほかのところでは、季節を問わず時雨のような一時的に降る雨を通り雨と呼びます。仙台に嫁いだ娘から聞いた話では、仙台では、はこびあめ(運び雨)と呼ぶそうですが・・・。

時雨は、冬の訪れでもあって、俳句では冬の季語になっています。
時雨といえば、放浪の俳人・種田山頭火のあの句が頭に浮かびます。

うしろすがたのしぐれてゆくか

後姿は、自分では見えません。もう一人の自分が、それを見ているのでしょう。
この句の前に(自嘲)と文字が振られていますが、見えない後姿を見ている自分を表す言葉なのですね。同じ山頭火の句、

しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
しぐるるや死なないでゐる

「しぐる」という動詞は、比喩的に涙を流すことを意味します。
山頭火は、山口県防府の人です。11歳のときに母親が自殺し、家業は破産し、弟と父親も自殺し、散々な生活苦を強いられ、熊本で寺男になります。大正15年(1926年)に寺を出て、雲水姿で西日本を中心に旅をしながら句作を行ないました。
自由律俳句の代表として、尾崎放哉と並び称されますが、二人共酒癖が悪く、身を持ち崩したところは似ています。これは前に書いたことですが、わたしは放哉のことを知りたくて、仕事のついでに、放哉が墓守をしていた小豆島のお寺を訪ねたことがあります。その寺に山頭火が訪ねていました。放哉は動かず、山頭火は動き回る人だという印象を持ちました。

春しぐれやみたる傘を手に手かな

こちらは、久保田万太郎の句で、しかも初冬の時雨ではなく、木の芽の萌え出す時期の春時雨を詠んだ句です。山頭火の句と比べると陰気なところがなく、華やいだ気分を満喫できる句です。傘を手に手に、春の雨上がりを行く人を詠んでいます。二人の俳人の生き方の違いと言うには、隔たりが大き過ぎます。

時雨を詠んだ子規の句を紹介しておきます。

牛つんで渡る小船や夕しくれ
しぐるゝや腰湯ぬるみて雁の声
しぐるゝや蒟蒻冷えて臍の上
鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな
文/小池一三
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2011年10月24日の過去記事より再掲載)