びおの珠玉記事
第171回
田植えと御田植神事
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2010年06月06日の過去記事より再掲載)
二十四節気の「芒種」に入りました。
芒種について、『暦便覧』(天明七(1787)年に出版された暦の解説書、太玄斎・著)には「芒ある穀類、稼種する時也」とあります。
芒のある穀物の種まきをする頃、という意味です。
「芒」とは、稲・麦などイネ科植物の実の外殻にある針のような毛のことをいいます。
麦はこの頃、黄色く実り、麦秋を迎えます。
一方、苗代では稲が次第に育ち、田植えを待っています。
この時季に熟した麦を刈り取り、稲を植えたことから、「芒種」と呼ばれました。
しかし、現在の田植えの時季は(地域や品種によっても異なりますが)早まってきているようです。
田植えは、育てた稲の苗を本田に植えつける作業のことで、一年間の水稲栽培の中で、収穫と並んで最も重要な作業だとされます。
かつて、田植えは、実際の農作業であると同時に、豊作を祈る田の神の祭りという大切な神事でもありました。
そうした神祭りとしての田植えの伝統を伝える神事は、現在でも全国各地で行われています。
田植えまでの農作業
はじめに、田植えまでにどのような農作業が行われるのか、見ておきたいと思います。
塩水を使い、中身がしっかり詰まった重くてよい種籾を選びます。
選んだ種籾は病気にかからないように消毒します。最近は、農薬を使用しない「温湯消毒」も普及しているそうです。
そして、芽が出やすいように水に浸します。
日本の米づくりは縄文時代の後半から始まったと考えられています。
米づくりが大陸から伝わった頃、種籾は田に直にまかれていました。
しかし、鳥に食べられたり、大雨に流されたり、水が深すぎて発芽しなかったり、雨が少なくて土が乾いたり、雑草が伸びすぎて稲が生長しなかったり、いろいろな問題がありました。
弥生時代の後半、苗代(苗間ともいう)で苗を大切に育ててから本田へ移す方法が伝わり、それ以降この方法で育苗が行われました。
そして、田植えの前日か直前に、苗代から苗を抜いて、根や葉を傷めないように根元の泥を洗い落とし、ほどよい大きさに束ねる「苗取」の作業が行われました。
現在では、種籾をまいた育苗箱を、ビニールハウスや、ビニールをかけたトンネルの中で育てるという方法が多いようです。
田の土を耕します。
田起こしをすることで、稲の根に必要な空気を土に送ります。また、土をやわらかくして根を伸びやすくし、肥料を鋤きこんで田に養分を行き渡らせます。
前年の稲藁や稲かぶを分解しやすくする効果もあるのだそうです。
かつて、草・木の葉・藻類などを田に鋤き込んで元肥(もとごえ。基肥とも書く)とし、これを「草肥」、「緑肥」といいました。
特にマメ科の紫雲英(げんげ=レンゲソウ)や苜蓿(馬肥やしとも書く)などの緑肥作物が効果的でよく知られており、田で栽培してそのまま鋤き込みました。
また、緑肥に代わって干し草や藁なども用いました。
古くは、山野の草の葉や木の若芽などを刈り取ってきて、田に敷き込み、肥料としました。これを「刈敷」といいました。
刈敷は、田の肥料として、起源の最も古いものです。
今日では、化学肥料が進歩普及し、こうした方法はあまり見られなくなっています。
次に、代掻きをします。
田に用水路から水を引き、田の底を掻き回し、水持ちをよくし、肥料を土に混ぜ、表面をならして平らにします。
「代」は植代、つまり田植えをする区画のことをいうのだそうです。
代掻きにより、田から水が漏れるのを防ぎ、水の深さを揃えて、苗を同じ深さに植えられるようにします。こうすることで、田植えがしやすくなります。
また、代掻きと同時に、田の周りの「畦ぬり」を行います。
畦は田の水を漏らさないための堤防のようなもので、田の土を積み上げ、鍬で塗りつけるようにしてつくります。
田起こしも代掻きも、昔は人の手で、また牛や馬の力を借りて行っていましたが、現在ではほとんどが機械化されています。
そして、田植えを迎えます。
田植えの時期が、農家の一年で一番忙しい時期です。
田植えは、育てた稲の苗を本田に植えつける作業のことで、一定間隔に苗を数本(3~6本)ずつ植えます。苗を一定の間隔で植えることにより、どの株にもムラなく太陽の光が当たり、地中の根が広がりやすくなります。
田植えは、現在では機械化が進み、それほど大変な作業ではなくなりましたが、昔は一株ずつ手で植えていく辛い重労働でした。
また、田植えは、限られた短い期間のうちに行わなければならず、一軒の家の田植えは一日で終えてしまわなくてはなりませんでした。(田植えは、遅くとも半夏生までに済ませておかなければならないとされていました。)そこで、村人総出の協同作業として、村中の田植えを次々に行いました。
親戚や親しい家、近隣の人たちなどと「結い」を組んでお互いに力を貸し合ったり、早乙女を雇ったりして、相互に苗を植え合いました。
農業が機械化されて、どこの家でも機械を使うようになると、人々は「結い」をむすばなくてもよくなり、田植えも家ごとの作業となりました。
▼農林水産省 グラフと絵で見る食料・農業/お米 5 米のできるまで
▼JA全農山形 庄内平野のホームページ/庄内平野の米づくり 米づくり一年の流れ
https://www.zennoh-yamagata.or.jp/rice/yamagata-rice
神祭りとしての田植え
かつて、田植えは、実際の農作業であると同時に、豊作を祈る田の神の祭りという大切な神事でもありました。
祭りのやり方は地域によって様々ですが、早苗の根を洗い清めて三束とし(三把の苗)、榊や御幣のように、神のよりまし(神が宿るところ)とする点は、どこの田植え祭りにも共通しているのだそうです。
3つに束ねた稲の苗を神前に祭り、豊作を祈るのです。
田植祭りとはどういうものだったのか、見てみましょう。
まず、田植えの最初の日や、大きな田植えがある日には、田植えに先立って、田の神をお迎えする「サオリ」と呼ばれる儀礼を行います。
早朝から、ハレの装束を身に着けた田植え組の人たちが、田の神を拝みます。
それから、笛・太鼓・鉦・簓(先を細く割った簓竹と、のこぎりの歯のような刻みをつけた棒の簓子とをこすりあわせて音を出す)などの楽器が奏でるお囃子にのって、声を合わせて田植え唄をうたいながら、苗を植えていきます。
実際に田に入って田植えをするのは女性の仕事で、「早乙女」と呼ばれました。
忌みごもりをして身を清めた早乙女たちが一列に並んで田に入り、苗代から取り分けた早苗を本田に植えていきました。
早乙女は、揃いの新しい仕事着や、笠、襷を身に着け、飾り立てた牛に代掻きをさせることもありました。
昼になると、田の神と一緒にごちそうを食べます(神人共食)。
そして、夕方までに一軒分の田を植え終えるのが普通でした。
田植えの後、早乙女が田植え踊りを踊ったりすることもありました。
田植えが全て終わると、田の神を送る「サノボリ」、「サナブリ」、「シロミテ」と呼ばれる行事を行いました。
田植え始めと同じように神棚に洗い清めた三束の早苗をお供えし、農具を飾り、赤飯を炊いたり、餅を搗いたりして祝います。田植えに参加した人たちを集め、早乙女を上座に据えて、祝宴が行われました。
家々の田植えが終わった時に行うのを「家さなぶり」、村全体の田植えが終わって行なうのを「村さなぶり」といったそうです。
現代では、これは、田植えの後の休日として扱われることが多いようです。
なお、「サ」は古来、田の神を意味していました。
田植えが始まる前の「サオリ」は「さ降り」。
田植えが終わった後の「サノボリ」は「さ昇り」(さ上り)。
「サナブリ」は「サノボリ」の訛ったもの。(当て字で「早苗饗」と書かれます。)
「シロミテ」は「植完了(ミテ)」(あるいは「代満て」)の意だとされます。
各地に残っている御田植神事
このように、田植えの際、私たちの祖先は、毎年、稲が順調に実るように、田の神を迎えて豊作を祈りました。
こうした神祭りとしての田植えの伝統を伝える神事は、全国各地に残っています。
代表的なものを以下に挙げます。
6月14日、大阪市住吉区の住吉大社の神饌田を植える神事。
大阪では「御田」と呼んでいます。
菅笠をかぶり、襷がけの早乙女が田植え唄を唄いながら早苗を植えていきます。
その後、田舞い、住吉踊りなどが奉納されます。
儀式を略することなく、当時と同じ格式を守り、華やかで盛大に行っている祭りとして、重要無形民俗文化財に指定されている、とのことです。
http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/otaue.html
▼You Tube 住吉大社御田植神事
http://www.youtube.com/watch?v=vaG7dPKvCGQ
伊勢神宮の別宮、伊雑宮で毎年6月24日に行われます。
一般に「御神田」といわれ、国の重要無形民俗文化財です。
勇壮な「竹取り神事」があり、その後、早乙女が簓や太鼓の囃子にのって、にぎやかに田植えをします。
その後、「踊込み」が行われます。
http://www.isejingu.or.jp/naigu/naigu3.htm
広島県山県郡北広島町(旧・千代田町)壬生で、6月第1日曜日に行われます。
「囃し田」とも呼ばれます。
非常に華麗で高度に芸能化された行事とされ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
また、今秋、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に決まる見通しなのだそうです。
田に水を引いて田の神を招く儀式をした後、牛の背に金色の鞍を置き、幟や花笠を立て、「まんが」(馬鍬の訛)という田をならす農具を引かせて、代掻きをします。
菅笠をかぶり、着物に帯をしめ、手甲をつけた早乙女たちは、苗取りをしてから田の中に一列に並び、田植えをします。
初めに花田植えの指揮者「さんばい」が、簓を両手に持って打ち、田植え唄の上の句を唄い、続いて早乙女たちが下の句を唄います。一区切り唄い終わるたびに、早乙女たちは右手で3~4本の苗を田に植えていきます。
そのとき、早乙女の後ろにいる若者たちが太鼓や笛、鉦で「田楽」を囃します。
「花田植」と呼ばれる田植え行事は、六月中旬に、中国山脈が走る鳥取・島根・広島・山口地方の山地の村々で行われていました。
昭和の初めごろまでは各地で見られましたが、現在では、壬生の花田植えなどいくつかが残されているだけなのだそうです。
その他にも、
等々が挙げられます。
また、Webのニュースなどでも、各地の御田植神事についての記事を見ることができます。
思っていた以上に、全国各地で、多くの御田植神事が行われているようです。
田植えは日本の芸能のルーツ
こうした田植えの神事の中で行われたお囃子や田植え踊りは、芸能化して「田楽」となり、そこから「猿楽」や「能」、その他の芸能へと発展していったとされています。
つまり、日本の芸能のルーツは田植えだといえます。
また、米の豊作を祈る行事や祭りは、田植えの他にも、いろいろと行なわれました。
春になって苗代をつくり、種籾をまく時に行なわれる「水口祭り」。
米づくりに欠かせない水が十分にあることを祈ります。
また、雨乞いの祭りも行われます。
夏には、稲に害虫がつかないように、また害虫を追い払えるように、「虫封じ」や「虫送り」。
お盆が過ぎる頃になると、「風袋様」。
福島県浅川町の人々は、「二百十日」(雑節)の頃に、風袋様が台風を追い払ってくれるように祈ります。
稲刈りが終わると、「かかしあげ」(稲を守ってくれた案山子に感謝して祭る)や「十日夜」(田の神が山へ帰っていくのを送る行事)、様々な収穫祭など。
冬にも行われます。
庭田植え、田打ち正月、田遊びなど、主として小正月に、年間の農作業のしぐさを真似たり、木の枝に餅などをつけて実りを表したり、害獣を追う仕草をしたりして、その一年間の豊穣を祝い願う「予祝行事」と呼ばれる行事がありました。
東北地方には「えんぶり」という豊作祈願の舞もあります。
今回参考にした資料(『自然と遊ぼう 田んぼの楽校』)の中に、「田の神様や人びとの想いが織りなす田んぼは、日本文化のゆりかご」だという言葉がありました。
こうして、田植えや、田んぼ、米づくりにまつわる多くの祭りや行事などを見てみると、この言葉には大いに納得させられます。
「御田植祭」を見てきました
神祭りとしての田植えの伝統を伝える神事は、現在でも全国各地で行われていますが、そのうちのひとつ、静岡県浜松市北区引佐町にある井伊谷宮の「御田植祭」を見てきました。
先に挙げたような御田植神事と比べると、こぢんまりした祭です。
「御田植神事を早乙女の奉仕にて行い、豊かな実りを祈念する祭」で、神社から徒歩10分程のところにある神饌田にて行われる、とのことでした。
季節は、新緑が目に眩しい5月末。
記者は、御田植神事を見るのは初めてでした。神社にお参りした後、どのようなものなのか、期待を抱きながら神饌田へと向かいました。
辺り一面は田んぼで、広々とした空間が広がっています。
神饌田には人が集まっていて、すぐに場所が分かりました。
神饌田の周りには竹が立てられ、注連縄が張られていました。
神饌田の前には祭壇が設えられ、塩・野菜・酒・海藻・果物・そして早苗がお供えされていました。
祭壇の横に、神職の方、そして早乙女、地元の方がいらっしゃいます。早乙女は、地元の小学生の女の子が務めるようです。
参列者も集まっています。
いよいよ「御田植祭」が始まりました。
まず、祭壇の前で神事が行われました。
神職の方が御祓いをし、祝詞を上げます。その間、参列者も頭を下げます。祝詞は独特の言葉と節回しで、素人の記者にはどのような内容なのか全ては分かりませんでしたが、田植え当日の日取り、豊作を祈る言葉、そして早乙女を務める子たちの名前などが含まれていたようです。
その後、神職の方が鍬を持ち、神饌田に進み出て、鍬を振り下ろす動作をします。
そして、早乙女たちに早苗が渡されます。
早苗を受け取り、早乙女たちは神職の方を中心にして、神饌田の前に一列に並びます。
中心にいらっしゃる神職の方に続いて、早乙女たちが神饌田に入ります。
半分の子たちはわりとすぐ田に入ったのですが、半分の子たちは少しとまどっているようでした。実際の田植えの経験はないのかな?と思いました。神職の方に促されて、恐る恐るといった風情で、田に入ります。その微笑ましい姿に、参列者から小さなあたたかい笑いが起こりました。
いよいよ田植えの始まりです。
苗をまっすぐ植えられるように、定規のような棒を目印にして植えていきます。
中心の神職の方、そして左右に農家の方が入って、植え方を指導していました。
また、田植え唄を唄いながら苗を植えていくというのが元来の姿でしょうが、この日は田植え唄のCDが流される中で、田植えが進んでいきました。
田植えが終わると、再び祭壇の前で神事が行われます。
田植えを終えた神職の方、そして早乙女が祭壇の前に進み出ます。
その後、地元の方も祭壇の前に出ました。
再び、神職の方が祝詞を上げます。
神職の方にお話を伺ったところ、この御田植祭は、10年前ぐらいから始めたのだそうです。もっと古くからのものかと勝手に思っていたので、少し意外でした。
この辺りでは田植えの神事が行われていなかったため、それはどうだろうかということになり、始めることになったそうです。
神職の方は、その他、日本人は米とともに生きてきて米によって生かされてきたこと、御田植神事は大変な農作業の時期のまさに「お祭り」で人々の楽しみであったこと、田植え唄のこと、古来からの日本人にとっての「神様」の在り方、等々、いろいろなお話をしてくださいました。
また、このままでは田んぼのある風景はいずれ日本から失われてしまうのではないか、と憂えていらっしゃいました。この辺りでも、田んぼでお米をつくっているのは、高齢の方が多いのだそうです。米づくりの技術は実際にやりながら身を以って覚えていくしかないし、一朝一夕に身につくものではない、ということもおっしゃっていました。
御田植神事をはじめ、米づくりにまつわる行事や祭りに触れることで、私たちの先祖の古来からの営みに思いを馳せることができ、米づくりについて、ひいては私たちの「食」について、自らの足元を見直すきっかけになるのではないか、と思いました。
辺り一面の田んぼでは、もう田植えが済んだ田もあり、また、そこここで実際に田植えが行われていました。
山と、早苗が植えられた田んぼに囲まれた、広々とした空間に身を置いていると、自然と心が落ち着き、さわやかな風も吹いていて、本当に気持ちがよかったです。
御田植祭を見られたことは、貴重な体験でした。