びおの珠玉記事

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吉村順三の仕事 愛知芸大キャンパス訪問記

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2010年06月16日の過去記事より再掲載)

愛知芸大

尾根に沿って頂上南北軸に配置された講義棟


6月12日(2010年)に「吉村順三の仕事を今、学ぶ――自然に寄添うように計画された愛知芸大の現代的意味を考える」(主催/自然エネルギー研究所)に参加しました。
催しのプログラムは2部構成になっていて、1部は建物見学会、2部は会場を繁華街にあるホテルに移しての「パネルディスカッション」でした。

愛知芸大とは?

愛知芸大の、正式の名称は愛知県立芸術大学です。
旧制の専門学校として戦前から存在した東京藝術大学、京都市立芸術大学に続く、戦後初、日本において三校目となる公立芸術大学として建てられました。音楽学部と美術学部が置かれています。
キャンパスは、名古屋市郊外の愛知郡長久手町にあります。2005年に開かれた「愛・地球博」会場に隣接していて、名古屋駅からは、地下鉄東山線藤が丘行きに乗車し、「藤が丘駅」で下車し、リニモ八草行きに乗り換えて「芸大通駅」で下車します。藤が丘から手前の駅が「長久手古戦場駅」、次の駅が「公園西駅」で、その次が「愛・ 地球博記念公園駅」です。「芸大通駅」からは「トヨタ博物館」にも行けます。

建築当時のこと、設計の意図など

愛知芸大の設計は吉村順三の銘が刻まれていますが、東京藝大建築科教授会挙げての取り組みでした。天野太郎・山本学治・温品鳳冶・茂木計一郎など、錚々たるメンバーがこぞって計画に参加し、その設計の重要な部分を、当時助教授だった若き奥村昭雄が担当しました。
奥村昭雄が木曾三岳村(当時)にアトリエを設け、後に家具制作に励むようになったのは、実は愛知芸大の設計が切っ掛けでした。奥村は、酷暑の名古屋を避けて設計するため、木曽三岳村のお寺の一室を借り受けて、夥しい枚数の図面を描いたのでした。
愛知芸大の設計ついては、『空間の生成 愛知芸大のキャンパス』(発行/鹿島研究所出版会)が『SD』別冊として発行されました。この本を、練馬中村橋の奥村事務所で幾度か目にしたことがあります。愛知芸大の講義棟・奏楽堂・渡り廊下などをシルエットにした紫色の表紙が印象的な本でした。わたしが書棚からこの本を手にすると、奥村は設計当時のことや、設計のディテールで苦心したことなどを語ってくれました。この仕事に寄せた奥村の思いの丈を、わたしはそのとき感じたのでした。

愛知県立芸術大学マップ

愛知県立芸術大学マップ

「愛・地球博」海上の森

この本の中に『丘の上のキャンパス』という吉村順三の一文があります。吉村はそこで、初めてこの地を訪ねたときの印象をこう述べています。
「六年前に、私がはじめてこの愛知県立芸術大学の敷地を訪れたときには、この辺り一体は静かな農村地帯で、丘の上から見渡す風景には一軒の家も見えなかった。処々に色とりどりの野の花が咲いていて、丈の低い松の木の茂る丘陵が幾重にもつらなり、遠く木曾の山々が美しく眺められた」
先に、このキャンパスは「愛・地球博」会場に隣接していると書きましたが、万博会場は「海上かいしょの森」として知られます。この敷地が万博の候補地として浮上したとき、絶滅危惧種のオオタカや、東海地方にしか植生しないシデコブシをはじめとした貴重な植物への影響が指摘され、自然保護をめぐって物議が醸されました。万博会場は、最終的にその保全をはかるため、大幅に縮小することが余儀なくされました。
愛知芸大キャンパスも、この「海上の森」に連続する地理的条件に置かれていたと見ることができます。
また、この辺りは、北に向かうと瀬戸、南の知多半島に向かうと常滑につながる丘陵地形をなしていて、それは海成の堆積岩系と東海湖の堆積土を用いた古窯の道でもあって、近くから平安中期の窯跡が発見されています。
キャンパスの設計は、この地理的・歴史的な条件をどう踏まえるかがポイントになりました。吉村は、「どうしたらこの自然を損なうことなく」計画できるかに腐心し、「造成土量と自然林の破壊を出来るだけ少なくすることが計画の重点」(前掲)とする方針を立てました。
実は、大阪万博が開かれた千里丘陵も、つくば科学博が開かれた筑波地域も、広大な里山を壊してつくられたもので、愛知万博もそれに続こうと計画されたのですが、少しばかり時代が遅れたことにより、強い批判にさらされました。当時、愛知県の職員から「うちの県は何故か間が悪い」という言葉を耳にしました。わたしは、それによって大規模な開発を免れたのだからよかったんだよ、とその職員に言いました。
この本が、吉村や奥村のボキャブラリーからすると、やや異例といえる『空間の生成』というタイトルを用いたことに、わたしは奇異な印象を持っていましたが、今回、訪問してみてストンと肺腑に落ちました。
何十年か先を見据え、時間デザインを巧みに組み込んで「空間の生成」を図ろうというしたつよい意思を、そこに見ることができたからです。
千里や筑波の計画が、里山を壊し、平地に均したのに対し、このキャンパスは、丘陵のうねり湿地の凹みなど、自然の形状を、大きく変えることなく計画されたのでした。この点で、このキャンパス計画は類い稀なものであり、歴史に残る記念碑的な仕事といってよいと思います。このキャンパスが、今のように自然破壊が問題にされる以前に、自然保護の視点を持って設計されたことは特記されていいことです。
そのことを愛知県は、もっと誇っていいし、再評価すべきではないでしょうか。上海万博を見ていると、文明の先にあるところの危うさを感じてなりませんが、抑制された「愛・地球博」のあり方を再評価する声は、上海万博のあと数年を経て明らかにされるものと、わたしは見ています。
今回の催しのパネルディスカッションの冒頭、建築家の永田昌民によって、建築当時の写真が映し出されました。その時、キャンパスは荒涼としていて、建物だけが浮き上がっているように見えました。
わたしが最初にこのキャンパスを訪ねたのは、もう25年も前になります。わたしが訪ねた時には、築後20年近くを経ていて、今のキャンパスの風景はかたちづくられていました。けれど、今回訪ねてみて、その豊かなる緑の空間に接し、緑の復元力に圧倒されました。このキャンパスは、日本ではめずらしい「森の中の芸術大学」といえます。
わたしは、アルヴァ・アアルトの仕事で知られる、フィンランド・ヘルシンキ郊外にあるオタニエミ工科大学を何回か訪ねたことがあります。森の中の美しいチャペルや、あの扇形の図書館が建っていて、その地名が「岬」(niemiニエミ)を意味することを知って、地形に対する見事な計画をそこに見ることができました。
それと同じ感銘を、わたしは25年を経て訪ねた愛知芸大のキャンパスに覚えたのでした。



講義棟の窓から奏楽堂を見る

講義棟の窓から奏楽堂を見る

建物の配置

奥村昭雄は『空間の生成』に、『愛知芸大のデザイン』について詳しく書いています。奥村はその全体計画について、先ずこう述べています。
「ひくい松の茂る丘の連なり、散在する溜池、開けた視界、その中で建物は風景に定着するのびやかな構成をとり、重なる丘と空へのひろがりをもった『間の空間』を作ろうとした。少ない学生数のキャンパスで、創作活動の場としての個々の部分の特性を持ちながら、しかもいきいきした『全体場』を構成するために、全体の領域の中に、人とその生活自体を参加・登場されることを試みた」
この試みを奥村は、建物からの「視線」を通じて解いていて、6枚に及ぶ「視線図」は、このキャンパス計画が、どのように形成されたかがよく分かります。部分と全体、全体を見渡せる場の設定、広場と緑の空間の広がりなど、「間の空間」がいかなるものか、明瞭に示されています。

視線図

視線図

「全体場」の中心になる講義棟は、この敷地の尾根に沿って頂上南北軸に配置されました。この講義棟は宙に持ち上げられ、白いルーバーで覆われた直線的な建物は、それ自体、美術館を思わせるものがあり、とてもシンボリックな建物です。吉村順三は、概してシンボリックなものを避ける建築家であることを考えると、この計画に寄せた吉村の思いのつよさが感じられます。
キャンパスは、この講義棟を中心軸にして、東側に音楽学部、西側に美術学部が配されています。音楽学部と美術学部と結んで渡り廊下が設けられています。
奥村は、この渡り廊下について、その「軒先の線のほそさが、全体の建物のスケールの感覚を支配しているのに、お気づきになったでしょうか」(奥村昭雄『愛知芸大を見学に来てくださった皆様へ』季刊『C&D』より)と述べていて、「奏楽堂の貝殻のような浮いた屋根にアフロデイテの立つ姿を思い浮かべてくださいましたでしょうか」とも述べています。アフロデイテとは、いうまでもなく愛と美と性を司るギリシア神話の女神です。英語形は「ヴィーナス」です。そういえば、サンドロ・ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」は、海より誕生した女神で、大きな貝殻の上に立っています。建築について、こういうモチーフを奥村が語ることもめずらしいことです。
このキャンパスについて触れるとき、吉村も奥村もどこか若やいでいて、そこに青年の客気みたいなものを感じるのは、わたしだけでしょうか。

奏楽堂の空間そのものが一つの楽器とされる

奏楽堂の空間そのものが一つの楽器とされる

外から透き通して見える石膏室

外から透き通して見える石膏室

美術棟の廊下、順光の窓とトップライトがキレイ

美術棟の廊下、順光の窓とトップライトがキレイ

愛知芸大の大規模改築の動き

現在、この愛知芸大に大規模な建て直し構想が持ち上がり、愛知県は、音楽学部棟建て替えの実施設計費として、本年度予算に約1億1100万円を計上しました。
3月上旬まで、この構想に基づくとみられる模型が校内に展示されていましたが、今は撤去されています。
中日新聞3/25日号によれば、磯見輝夫愛知芸大学長は「正式な計画ではない」として、誤解を招きかねないからと模型を撤去したのです。しかし同紙は「全体計画がないのに「改造」が静かに進むという奇妙な現象が起きている」と指摘しました。
伝えられるところによれば、建物の劣化が酷く、また施設の狭さを理由にして、少しずつ解体・改築が進められ、最終的には現在のキャンパスの姿をとどめないものに変えられるといいます。建て直し反対の声に正対しないで、なし崩し的にやろうということでしょうか。県当局による、愛知博でのゴタゴタの経験に学んだノウハウだと穿った見方をする人がいますが、そう思わせるものを、わたしも感じました。
愛知芸大の建物の劣化は、メンテナンスの悪さに尽きるもので、たしかにどの建物もボロボロの状態にあります。あちらこちらに雨漏りの跡が見られ、コンクリートに亀裂が走り、建物の外壁の汚れが酷く、お手入れの悪さは目を覆うものがあります。建築からこの間の建物の扱いがいかなるものであったか、それらは正直に、もっといえば露わに示しています。

想像力とデリカシーの問題

外国人教官の宿舎へのアプローチ 建物は朽ちていてもその姿は美しい

外国人教官の宿舎へのアプローチ 建物は朽ちていてもその姿は美しい

宿舎の荒れ果てた内部

宿舎の荒れ果てた内部


宿舎玄関

宿舎玄関

宿舎に向う入口の看板

宿舎に向う入口の看板

その極端な悪例を、相当に躊躇しましたが、ここに紹介します。
それは外国人教官のための宿舎にされた建物のことで、「公舎」と呼ばれています。この建物の室内は、廃屋といっていい状態にあり、荒れ放題でした。障子は、いつもの吉村障子の形をとどめているものの、酷く破損されていました。和室の開口部の低さも、吉村メソッドを表すもので、外国人教官に、どうかして日本建築の魅力を伝えようとした気持ちが伝わってくるディテールです。吉村順三設計の「小住宅」が、このような形であれ残っていることは、建築を学ぶ者にとっては大きな魅力で、今回の見学会に参加した若い設計者は、建物は廃屋同然だけど、元の姿を掴み取ろうと、目を光らせて見ていました。

今日(2010年6/16)の中日新聞朝刊によると、この「公舎」と学生寮の解体費用が、本年度予算約1億1100万円のうち、約5000万円が含まれているとの報道がありました。予算書に明記(対象施設は「音楽学部校舎」のみ)されず、県議会でも説明されていません。同紙によって報道された「全体計画がないのに「改造」が静かに進むという奇妙な現象が起きている」との指摘を裏付けるもので、まさに「闇討ち」に等しいやり方です。
今日の記事では、鳥取県知事時代に予算の透明化に取り組んだ片山善博慶応大教授の談話が掲載されていて、片山氏は「意図的なごまかしだと言える。透明度が低い自治体の生活習慣病のようなものだ。予算は明朗であることが原則。県側が説明していないのは議会を欺く行為で、議会がなめられているということだ。知事が知っていたなら非常に姑息こそくだし、知らないうちにそうなっていたとしたら、私が知事なら担当者はクビにする」と述べています。

建物は、確かに酷い状態です。けれど解体する前に、この建物の意味と価値を問い直し、遺すことを懸命になって考えるべきです。呆気なく、あまりにも軽々しい行いといわなければなりません。
この建物のアプローチに、学生たちが造った木製のプランター・ボックスが置かれていました。全部で22個ありました。それぞれのプランター・ボックスには、植えられた草花の名札が付けられていましたが、木枠は朽ち果て、崩れて残されたボックスに茫々と雑草が茂っていました。これを制作した学生は、もうとうに卒業しているでしょうが、それを受け継ぎ、育てることを放棄していることに、何ら痛痒を感じないのでしょうか。
愛知県は、この秋に開かれる「生物多様性条約会議(COP10)の開催県です。
また、教授たちは、多分講義棟の教壇に立って、「エコデザイン」を語っていることでしょう。先ず、足元にある花を見よ、といわざるを得ません。

講義棟前にあるロダン作のバルザック像

講義棟前にあるロダン作のバルザック像

講義棟の前、ロダンのバルザックのブロンズ像が立っています。
バルザックは。『ゴリオ爺さん』、『谷間の百合』などで知られる、19世紀を代表するフランスの作家です。ロダンは、この石膏像を制作するのに7年を要しました。ここに立つブロンズ像は、その石膏像をもとに鋳造されたもので、1895年に東京藝大で複製されたものの一つがこのキャンパスに運ばれました。
バルザックは夜中に仕事をする人で、寝巻きのガウンを羽織り、闇の中に立ち尽くして小説の構想を練るバルザックの姿を石膏像にしました。ロダンがバルザックにみたのは、苦悩する創造者の姿でした。ものを生むことの苦しみを知るが故に、このキャンパスがどのような思いを込めてつくられたのか、もっと想像力を働かせてほしいと思うのです。
「奏楽堂の貝殻のような浮いた屋根にアフロデイテの立つ姿を思い浮かべて欲しい」という奥村の言葉に、どうか真摯に耳を傾けてほしいと思います。

著者について

小池一三

小池一三こいけ・いちぞう
1946年京都市生まれ。一般社団法人町の工務店ネット代表/手の物語有限会社代表取締役。住まいマガジン「びお」編集人。1987年にOMソーラー協会を設立し、パッシブソーラーの普及に尽力。その功績により、「愛・地球博」で「地球を愛する世界の100人」に選ばれる。「近くの山の木で家をつくる運動」の提唱者・宣言起草者として知られる。雑誌『チルチンびと』『住む。』などを創刊し、編集人を務める。

連載について

住まいマガジンびおが2017年10月1日にリニューアルする前の、住まい新聞びお時代の珠玉記事を再掲載します。