小池一三の週一回
第1回
Web昨今
前にブログでやっていた「小池一三の週一回」を再開することにした。
このブログは、写真を一切用いないで、文章を長々と綴るだけのもので無粋なものだったが、それなりに楽しみにしてくれる人もいて、2006年9月から2013年5月まで8年弱続けた。4年ぶりの再開となる。
止めた理由はfacebookの普及が大きく、自分が書くものに馴染まないように思った。いわゆるSNSの進展は、その後も留まることなく変化しており、instagramの登場に及んで、私は完全な浦島太郎状態を自覚せざるを得なくなった。
私は活字人間であって、今も本の虫である。
昨日、『文明に抗した弥生の人びと』(寺前直人著・吉川弘文館) という本を読んだ。日本に稲作が入ってきて、日本に農耕社会の定着を見たのが弥生時代である。縄文文化が駆逐されたこの時代を、私は好ましいと思っていなかった。やがて金属器社会が登場し、階級社会が露わになるのであるが、この本は、縄文時代の土偶や石棒が、水田稲作の開始期に最盛期をむかえたことを追い、およそ生産に貢献しないであろう銅鐸がなぜに普及を見たのか、その不思議を解いている。目からウロコであった。そういえば若い頃、三遠式銅鐸が天竜川を遡行して信州和田峠まで運ばれたことを知って、そうまで難儀して運ぶ必要があったのか、ふと疑問に感じたことが、頭の中で蘇った。
こういう興奮はWebでは、なかなか味わえない。
ビートたけしは、スマートフォンに高じる人を「手錠をかけられている」ようだと揶揄する。電車の中で、何人もの人が画面に見入っているサマを見ると、この指摘は当たっている。
しかし、SNSの登場によって、「若者の文字消費は有史以来の量」だという調査結果が出ていて、SNSは「実社会での人間社会が希薄になるとのイメージを抱く人もいるが、実態はちがう。むしろ社交性を育んでいる」との報道があった。SNSで「交流していると実際に会いたい思いも強くなる。若ければ若いほど、実社会での社交性も高くなっている」というのである。
なるほど、そういうこともあるのかと思った。
Webびおの編集人の役割を負うことになり、雑誌や書籍のそれとの違いに戸惑うことが多いが、この記事を読んで、言葉を捨ててはいけない、信じることだと思ったのだった。