小池一三の週一回

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ボツにした原稿

今、私は「びおソーラー」の新しいリーフレットを編んでいます。こうした企画を立てる場合、最初は、全体のイメージをぼんやりと考え、次に、どんなビジュアルで構成するかを考えます。文字そのものをビジュアルにする場合もありますが、絵や、図や、写真や、表があるとカタチが固まってきます。
昨年、「びおソーラー」をReデビューさせたときには、秋山東一さんにイラストを依頼しました。

びおソーラー実践塾

秋山さんのイラストは、30年前にOMソーラーを開始したときにもお願いしていて、あのイラストで、OMソーラーが何かがよく分かりました。「びおソーラー」のReデビューのコンセプトは「よりかんたんに、より安く、よりピュアに」というものでした。秋山さんは、屋根の上の3枚の集熱ユニットが、瞬く間に取り付けられるプロセスを3軒の家に描いてくれました。「やっぱり上手いなぁ、秋山さんは」と感心しました。
さて、Reデビューから1年、ここまで45pのパンフレットと、6pのリーフレットと、大きなポスターをつくり、何種類もの、そのバリエーションを生んできました。主として工務店や、設計事務所を対象としたものでしたが、助走期間を終えて、この技術をユーザーにダイレクトに伝えるリーフに、ということになり、今、四苦八苦しているところです。
ということで、私の頭に最初にイメージされたのは、OMソーラーの開始時、コピーライターの広瀬正明さんがコピーしてくれた、「冬の朝、母は鶴になる」でした。その頃、OMソーラーのモデルハウスを釧路で建てていて、釧路湿原を生息地にするタンチョウ鶴を何回も目にすることがあり、雪原に降り立った鶴の美しさに心を洗われました。
あのときのことを頭に浮かべて、私は「家族の記憶5話」を書きました。
けれども、今、ユーザーに知らせたい「びおソーラー」は、こういうことなの? という意見があり、そう言われるとまだるっこいな、と思えてきて、ボツにすることにしました。書いたものを捨てるのは寂しいことなので、ここに掲載させていただくことにしました。

冬の朝の母は、鶴になった

母は、3人の子どものお弁当をつくるため、家の中の一番の早起きだった。ある寒い朝、台所の母を見たら、一本足で立っていて、鶴みたいだと思った。床が冷たいので、足を交互にあげてお弁当を作っていた。

夏の夜、父はぬれ縁で涼んでいた

寝苦しい熱帯夜、父は床から起き出し、大きなうちわと豚の蚊やりを持って、ぬれ縁に出て涼んでいた。時々、うちわを扇ぐ音が聞こえた。隣の家の外灯が、父を照らし出していて、その背中は、肩幅が広くて頼もしかった。

冷え性の姉ちゃんは、腹巻をしていた

銀行勤めの姉ちゃんは、いつも冷房がきついと愚痴っていた。汗っ掻きの支店長は、冷房はお客様へのサービスだというの、と。細身の姉ちゃんは、夏なのに腹巻をして、厚い靴下を持参して勤めに出ていた。

火鉢の上のヤカンが湯気を立てていた

火鉢の上のヤカンが湯気を立てていた。友達の家のおしゃれなストーヴでも、ヤカンが湯気を立てていた。友達は、そのストーヴをアラジンだといった。かっこいいストーヴだと思った。ヤカンのお湯は、湯たんぽに注がれた。朝まで暖かかった。

猫のミーちゃんの居場所

観察好きの母は、ミーちゃんの一日の行動を見ながら、ミーちゃんを抱っこしながら、ミーちゃんはかしこいね、いつも一番いい場所を選んでいるのね、とひとしきりほめるのだった。猫はみんなそうなのに、特別のことのように。

5話のショートストーリーのうち、父の話と、湯気を上げているヤカンの話と、猫のミーちゃんの話は、私の記憶の中の話だけれど、母の話と姉ちゃんの話は「つくり話」です。私には、姉はいませんから。

著者について

小池一三

小池一三こいけ・いちぞう
1946年京都市生まれ。一般社団法人町の工務店ネット代表/手の物語有限会社代表取締役。住まいマガジン「びお」編集人。1987年にOMソーラー協会を設立し、パッシブソーラーの普及に尽力。その功績により、「愛・地球博」で「地球を愛する世界の100人」に選ばれる。「近くの山の木で家をつくる運動」の提唱者・宣言起草者として知られる。雑誌『チルチンびと』『住む。』などを創刊し、編集人を務める。