太陽にまつわるエトセトラ
第3回
太陽が人間の歴史を作った。マウンダー極小期の詩人たち
17世紀後半の太陽黒点減少
17世紀の日本は人口が増加した。江戸時代が始まる1600年ごろに約1400万人~1600万人だったと推定される日本の人口は、1721年には人口3128万人まで膨らんだ。この100年間に日本列島の人口がほぼ倍増したのだ。この人口増加を支えたのがおもに東北地方で行われた灌漑による米の生産増だった。ただ、冷害に強いジャポニカ型の早稲種ではなく、冷害に弱いけれど生産量の多いインディカ型の晩稲種が好まれて植えられた。これは17世紀前半の日本の気候が比較的暖かかったから、と推測される。米をたわわに稔らせる晩稲種が、日本の増える人口を支えた。
しかし、17世紀の半ばに太陽の活動が変わった。1645年から1715年にいたるまで太陽の黒点がほとんど観測されなかったのだ。黒点の数が減ると太陽の活動が衰え、太陽から地上に届く熱の量も減る。この黒点減少の時期は「マウンダー極小期」と呼ばれ、地球の平均気温が1~2度下がったとされる。おまけに1640年には蝦夷駒ヶ岳が噴火して火山灰が太陽光を遮った。そのため、冷夏が冷害に弱い晩稲種を襲った。米の生産量が一時的に減り、増えた人口を食べさせられなくなった。このことと幕府の飢饉対策の未熟さが合わさって1640年から数年にわたる寛永の大飢饉が起こる。東北地方から米を買っていた北海道の大名・松前家は、飢饉による米価上昇の影響を受け財政が悪化、アイヌ人との交易条件を厳しくした。不利な交易に苦しんだアイヌ人は1669年にシャクシャインの反乱を起こした。この飢饉による混乱期に、日本中で捨て子が増えた。
このようなマウンダー極小期の混乱は日本だけではなく全世界で起こった。中国の明王朝は農民反乱軍によって帝都北京が落とされ1644年に滅亡。イギリスでは1665年にはロンドンでペストが流行し、アイザック・ニュートンはロンドンを離れて故郷に戻り万有引力などの着想に取り組んだ。1677年には画家アブラハム・ホン・ディウスによって凍結したテムズ川が描かれている。アメリカ大陸では社会不安から1692年にセイラム魔女裁判が始まった。
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
という俳句が『おくのほそ道』に掲載されている。これが作られたとされる1689年(元禄2年)はマウンダー極小期のただなかだ。夏草の色はたぶん今の夏草の色とは違うだろうし、感じる湿度も違っただろう。松尾芭蕉は、現代の人が想像するようなムッとするような夏草の草いきれのなかで戦乱の世を想ったのはない。もっと乾いた、寂しい風が夏草を分けていたのだろう。
マウンダー極小期の芸術家
松尾芭蕉は1644年に生まれ、1694年に死んだ。人生のほとんどを太陽が不活発な時代に生きた。松尾芭蕉の俳句の根本理念に「軽み」や「寂び」などがある。いずれも主観を抑えた平淡な表現のことだ。これらの自己抑制された表現は、マウンダー極小期を生き、奥の細道などの旅の途中で捨て子や飢餓にあえぐ東北地方の農村をその目で見た松尾芭蕉だからこそ育みえたのだろう。そして松尾芭蕉をはじめとして井原西鶴・近松門左衛門という江戸時代を代表する三人の作家はいずれもこのマウンダー極小期を活動時期としている。苦しい時代だったからこそ人々は救いを求め、これらマウンダー極小期の詩人たちはその期待に文学作品で答えたのだ。
音楽だって例外ではない、ヴァイオリンの名器「ストラディバリウス」の黄金期は1700年から1720年の製作とされる。そのうち三大ストラディバリウスは1714-1716年に製作された。この時期のストラディバリウスが秀でていた理由は、工法の熟達もあるが、地球規模の低温化によりヴァイオリンの材料となった唐檜の年輪幅が狭く材が硬かったから、冷夏で冬と夏の年輪幅の差が小さく音が均質になったから、などと言われる。太陽活動の不活発が世界最高の音を作った。そしてストラディバリウスのヴァイオリンはマウンダー極小期の音を現代に響かせている。
哲学者ニーチェは、苦悩や困難が人間を高みへ成長させると書いた。マウンダー極小期という太陽の動きとそこからもたらされた苦悩や困難がほんとうに人類の芸術性を高めたのだとしたら、私は星占いを信じても構わない。
沢山美果子『江戸の捨て子たち』吉川弘文館2008
片岡龍峰「マウンダー極小期と魔女狩り」2012
田家康『気候で読み解く日本の歴史』日本経済新聞出版社2013
田家康『異常気象が変えた人類の歴史』日本経済新聞出版社2014
宮崎正勝監修、造事務所編『天気が変えた世界の歴史』祥伝社2015