流しの洋裁人の旅日記
第6回
綿は日本でどのように伝わったのか
2月は山梨県富士吉田市へ引っ越しして早々に、夜中にはマイナス14℃になる気温や水道凍結との戦いをしておりました。自然環境に対する生活の知恵がつきそうです。17日は 富士吉田市内での流し、20・21日には愛知県一宮市で開かれたヤーン展の出展と設営で一宮市に滞在し、23日から25日は横浜大桟橋ホールで開催の素材博への出展、27日には和歌山のパイル織工場見学と奈良の貝ボタン工場見学などなど山梨での生活基盤も疎かなままに流しておりました。今後は目の前にそびえる富士山を毎日眺めつつ制作をし、全国に向かいたいと思います。
さて、先月号までふたつきにわたって「洋服は何からできている?」をテーマに綿の、<棉を育てる・繊維を取り出す・紡いで糸にする>という工程をご紹介しました。でも実はこの綿、日本人に昔から親しみのあった植物でも素材でもないようです。ではどのようにして綿が日本で衣服素材として普及していくようになるのでしょうか。今月は、資料や秋田で見てきた織物に触発されながら追っていきたいと思います。
棉はもともとインドやパキスタン、メキシコなどの温かい地域が原産だといわれており、平安時代に綿花栽培を一度試みられたものの日本では育ちませんでした。国内栽培に成功するまでは戦国大名たちが火縄銃の火縄や、帆布用に朝鮮や中国から綿布を仕入れていたようで、こうした綿製品の輸入と同時に少々寒くても育つよう改良された棉の種を得て、国内で栽培されるようになったそうです。
まずはこうして戦争用品としてや階級の高い者たちが衣服として綿を身につけていたわけですが、綿以前に日本人が衣服素材として用いていたのは、麻・苧・葛・藤・楮などの植物繊維や絹でした。これら絹以外の着心地が悪そうで硬そうで寒そうな素材は、綿素材が一般人にまで普及する江戸時代の中頃まで続いていたようです。
綿はそれまでの植物の素材より、柔らかく、温かく、吸水性があり、染色性にも優れたことから尊ばれ、需要が高まりました。しかしながらやはり綿栽培の北限はあったようです。私がその北限を意識するようになったきっかけが、昨年11月末に秋田県の羽後亀田駅から徒歩30分にある秋田県の史跡保存伝承の里、天鷺村の天鷺ぜんまい白鳥織を見に行った時です。
ぜんまい白鳥織は、文字通りぜんまいの綿毛と羽毛を混紡して織った織物ですが、どんな風に織り込むのかを見に行きました。
なぜぜんまいの綿毛を使おうと思ったのか起源を聞いてみると「ほら、昔はこの辺、綿が貴重だったのよー。ここらは寒いから綿が育たなくてね。北前船とかで運ばれてきた綿とか古着を大切に使っていたって聞いたわよ。ぜんまいはたくさん生えていたみたいだし、綿に対しての嵩増しかしらね」とお話いただきました。綿素材が手近にある私にとって、その貴重さは考えたこともなく……なるほど、育たないから貴重で……あぁ、だから「ボロ」とか「刺し子」とか「こぎん刺し」とか、ハギレを重ねたり補強したりが寒い地方で特に発達したのか……そして「流しの洋裁人」は、文化の廻船的役割を果たしたいと言いつつも綿の普及からみた廻船(北前船)の役割は調べたことがなかったので、廻船についての本『海の総合商社 北前船』加藤貞仁著、無名舎出版を読みました。
「木綿が育たない米沢、会津、仙台以北で廻船が綿普及に果たした役割」の観点から読み進めていくと、北前船が綿普及のキーマンであったことがうかがえました。北海道で獲れた魚肥は綿作の肥料になるので、綿花の育つ西の寄港地では魚肥を売って、代わりに古手(古着)や繰綿、綿糸、ノシ継(一度仕立てた着物をほどいた木綿生地)、屑継(布の端切れ)を買い集め、綿の育たない秋田西岸以北の港で売りさばくといった往復をしていたようです。廻船によって寄港地には問屋が生まれ、産業の専業化が進み、名産品が生まれました。木綿でいえば○○綿といったブランド化もされていきました。地産地消を超えた経済活動になっていく様が、現代のグローバル化にも似ており、なかなか面白いですね。
現代においては物流システムが発達してモノはどこにいても簡単に安く何でも手に入るので、綿が貴重だった当事者の気持ちは測りかねますが、無い故に生まれた東北以北の布の文化に、無いものがなかなかないこの現代において何をいかに廻船していくか、今後の活動に掲げる目標として少しヒントをいただきました。
参考文献
柳田国男『木綿以前の事』岩波書店、2013
加藤貞仁『海の総合商社 北前船』無名舎出版、2003
福井貞子『木綿口伝』法政大学出版局、2000
大野泰雄・広田益久『はじめての綿づくり』木魂社発行、1988
『秋田の民芸』秋田魁新報社、1983
『もめんのおいたち』日本綿業振興会、1976
『そだててあそぼうワタの絵本』社団法人農山漁村文化協会、1998