<遠野便り>
馬たちとの暮らしから教わること
第9回
6月:山上げの季節
〈場〉の支配を巡る力学
前回、群れの一員になることと、その次のステップとしての関係を構築することとそのアプローチについて書きました。その次の段階として、群れの一員として、人が馬に対して〈場〉を支配する、ということがあります。
ただ、このテーマについて英語圏ではdominant=支配、という言葉をもっぱら使っていますが、何となく日本語での支配という言葉はそぐわない感じがしています。何というか、結果的に群れ全体が安定するために必要な、個体間同士の明瞭な関係性の構築といったニュートラルな生命同士のやりとりであって、〈支配〉という言葉が含意する固定的な上下関係とか優劣とかは含まれていないように思うのです。とはいえ、適当な言葉が見つからないので、そのような注釈を加えつつ、ここでは〈支配〉という言葉を用いようと思います。
さて、人よりはるかに大きな馬が人に対して場を支配する力を行使できる関係は、人の生命にとってとても危険です。常に人がどの馬に対してもその場を支配するという関係をもっておくこと、そのことについて自覚的であることがとても大事になります。
先ほど山上げで紹介した荒川高原牧場は標高1000メートル近い牧場ですが、夏の多い時期には100頭を超える馬たちが集まってきます。ここの馬たちの行動を外側から観察していると〈場〉をめぐる関係がとても複雑で流動的であることがわかります。
彼らの関係性は、時間帯によって、個体と個体の相性のようなものによって、虫の多い時期とそうでない時期によって、天気によって、時々刻々と変化していきます。ひとつのファクターだけが〈場〉をめぐる個体同士の関係を決定しているようではないように思います。
けれども、今この時、〈場〉をどちらが優先的に支配するかという明瞭な関係の決定については、おそらく馬の長い進化の中で獲得されてきた共通のふるまい=身体言語によって行われています。
たとえばこんな感じです。ある馬Bを動かしたいとき、動かそうと意図する馬Aは、まずは目線をちらと送ります。それで応答がないときは馬Bに向かってほんの少し頸を振ります。耳は倒れています。それでも馬Bに動きがないときは馬Aは耳をさらに倒して加速をつけるような感じでぐいと接近します。それでもダメだとなると頸筋のあたりに向かって歯をむきだして噛みつこうとします。それも通じないとなると最終的に体ごとぶつかるように頸を伸ばし歯を剥きだして実際に頸などに噛みつきます。あるいは反転して後肢で馬Bに蹴りを入れようとします。当てるときも当てないときもあります。この光景は普通に見られ、そしてとても迫力があるものです。このようにされて動かない馬はありません。噛みつかれた馬Bは瞬時に飛びのきます。しかし遠くまで逃げることはあまりありません。数メートル先でふたたび草をはみ始めます。噛みついた馬Aも深追いすることはめったなく、そうやってできたスペースで草をはみ始めます。そこらじゅうが牧草=食べ物だらけなのにこれはいったいなにをしているのでしょうか。〈場〉をめぐる個体同士の力学を確認し、そうやって結果的に群れ全体の安定性を構築しているように思えます。鳥でいうペッキングオーダー(つつき順位)とその確認行為の身体言語が馬同士にも日常の大事なコミュニケーションと存在しているように思います。
人が馬たちとともに暮らそうとするとき、瞬間瞬間に生起するこの〈場〉をめぐる力学のなかで、常に、かならず、上記の例でいうと馬Aでありつづけることがとても重要です。それができなければ結局、馬Bの立場に立たされる状況が起こりうるということになり、それは人が、人より圧倒的に強い馬に対して〈場〉をめぐる身体言語を行使される(噛みつかれる、後肢で蹴られる)可能性がつきまとうことを意味します。それが常態化すると、やがてその馬に対して、この馬は危険な馬だ、という烙印が人によって押され、場合によってはその馬はもう飼うことができない処分するしかない、という結論に至りかねません。人が危険にさらされる、そして馬が生きる場所を失う、というのはどちらにとっても大変不幸なことです。
ですから、馬Aが馬Bに対して行う身体言語を人は人なりに身につけ、リラックスの状態から毅然として油断なく瞬時に〈場〉を支配する行動が行えるようになることが肝要になります。敵対や怒りの感情なしに。興奮のアドレナリンをむやみに上げたりせずに、平穏な心で。
天空の緑の大草原は馬たちにとってはまるでパラダイスです。今度、そのパラダイスに行ったときは遠くからでもいいですから、群れの様子、個々の関係の様子なども観察してみてください。思いのほか、いろいろな関係が生起していて、見ていて飽きないかもしれません。
次回は、梅雨のさなか、晴れれば炎天下の7月にお会いしましょう。