物語 郊外住宅の百年
第7回
なぜ、レッチワースは
ステキであり続けたのか(1)
日本からの視察者と受容のかたち
レッチワースを最初に視察した日本人は、内務省地方局嘱託技師だった生江孝之である。生江の赴任地は神戸で、役職は外事係長だった。
神戸という地名は、明治初期には開港場一帯の村の名前でしかなかったが、生江が赴任した頃は、メリケン波止場(米国領事館が置かれ、「アメリカン」の原音発音から「メリケン波止場」と呼ばれた)が開港していて、同時期に発展した横浜港とともに日本を代表する貿易港として名を高めていた。邦船の上海航路によって、遥かなる西洋は近くなっていた。
内務省地方局は神戸にいる生江に、感化救済事業の調査を目的としてロンドン視察を命じた。生江は勇躍、神戸の港からロンドンへと向かった。
ロンドンに着いた生江は、ロンドンで話題を呼んでいた田園都市レッチワースに向かい、2週間ほど滞在。ハワードと会見し、その報告書を『欧米視察細民と救済』(博文館)にまとめている。
「都會に於ける職工は自己の住宅の前後、若しくは其の附近に於て、少しの空地をも有せざるは勿論、終日螢働に疲れ、家に蹄れば顔面蒼白なる妻と、餓鬼の如き児童の姿を見るのみ」、「然るに細民窟にあつては、其樂しき「ホーム」を造る能はざる状態なるに、田園都市に於ては、英國固有の楡快なる「ホーム」を造り、健全なる國民と爲すことが出來るのである謝。」
視察の目的とされた感化救済事業は、都市の貧困と犯罪と不潔の克服を課題とし、ロンドンにおける細民の救済をレポートすべく海を渡ったのだった。それは多分に社会福祉事業の見聞録の性格を持っていた。
後に生江は「社会福祉事業の父」と呼ばれるようになるが、生江の関心はもっぱら産業革命末期のロンドンの不衛生な環境の改善の処方としての田園都市にあった。横山源之助が著した『日本之下層社会』(初版1899年)に見るように、当時の住宅問題は福祉(衛生)問題の性格を帯びていた。
生江はレッチワースの開発計画や建築に対する関心は低く、彼が書いたレポートを見るに、田園都市の意味や価値をまったく読み取れていない。
内務省地方局有志編による「田園都市」像は、「田園都市の理想とする所は、即ち此都会生活より起れる不快と苦痛を防褐せんとする所にあり」というもので、その中心人物だった内務官僚井上友一は、感化救済事業講演会でこう述べている。
「此種樹園のことを調へて居ると丁度英吉利から書物か來た。それは所謂近頃有名なる田園都市の計書であります。これは英吉利の富豪ハワードといふ人か作つたのてあるか都に人か集まつて互に喧嘩をしたり杜會を破壊するやうな議論を唱へるのは詰り是は食へぬからである。又家庭の趣味か無いから起るのである。(原文ママ)」
生江孝之の「細民救済」レポートは純なるものであったが、石川県の士族出身で内務省の中枢にいた井上友一のそれは、かなり政治性がつよい。
井上友一は東京府知事(現都知事)を務めているが、この講演から読み取れるのは、都市の貧困細民を物理的にクリアランスし、帝国日本の空間的理想として田園都市を対置しており、それはハワードがやろうとしたこととおよそかけ離れている。
「産業報国1」の視点から空間的理想として田園都市を評価したのは、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一だった。渋沢は一銀行家の枠を超えて、社会性やモラルを尊んだ人だった。生涯に約500の企業の設立育成に係わり、約600の社会公共事業や民間外交に尽力したが、渋沢が三井高福や岩崎弥太郎、安田善次郎などと異なるのは、「私利を追わず公益を図る」立場を貫いて「渋沢財閥」をつくらなかったことである。
渋沢は井上友一から田園都市の話を聞いて、ハワードが設立した田園都市株式会社と同名の会社を設立し、レッチワースをモデルにした洗足田園都市や田園調布をつくり井上友一の施策を後押しした。
また渋沢は、子息の渋沢秀雄を専任取締役として就かせ、秀雄は開発地区のために鉄道敷設・電力供給、多摩川園遊園地などの事業を興した。その事業を継承したのが今の東急である。
明治時代は、維新の理想主義と富国強兵策が絡み合い、同床異夢を伴いながら複雑に進行した。日本における田園都市建設は、何はともあれ晴れやかに出発を遂げたのだった。