物語 郊外住宅の百年
第11回
ハワードのアメリカ生活
ハワードは、21歳にアメリカに渡った。
アメリカ中央部に位置するネブラスカ州に入植者として入った。ネブラスカ州は「グレートプレーンズ(大平原)」が占めている州である。ハワードは、ジャガイモとトウモロコシを栽培したが実らず、持参したお金はすぐに底をつき、栽培に成功した同じ入植者の農場に転がり込んだ。ネブラスカ州は「法より平等」をモットーに掲げていたが、別段、入植者の生活を保護してくれるわけではない。生活は好転せず、ハワードは痩せ細り、農業を断念せざるをえなくなり、シカゴに引っ越して法律専門の速記者の仕事に就いた。
ハワードがシカゴで出会ったのは、クエーカー教徒のオロンゾ・グリフィンだった。ハワードはグリフィンから本を借りて、ホイットマン、エマーソン、ソローなどを読み漁り、当時のアメリカの精神世界に触れた。
わたしはアメリカが歌うのを聞く、そのさまざまな喜びの歌をわたしは聞く。
機械工たちの歌を、めいめいがじぶんの歌をそれにふさわしく陽気に力強く歌うのを、
大工が厚板や梁の寸法を測りながらじぶんの歌をうたうのを、
石工が仕事の用意にとりかかりながら、また仕事を止めながら、じぶんの歌をうたうのを、
船員が船のなかでじぶんの持場のことを歌うのを、甲板水夫が汽船の上で歌うのを、
靴屋が仕事台に腰かけながら歌うのを、帽子屋が立ったまま歌うのを、
木こりの歌を、朝の道すがら、昼の休み、また日暮れどきの百姓の子の歌を、
母親の、仕事にいそしむ若妻の、また縫いものや洗濯する少女の、こころよい歌を、
ひとつひとつ男女めいめいのもので、他の誰のものでもないものを歌い、
昼には昼につきもののうたを—–夜には逞しい人なつっこい若者たちの一団、
口を大きく開いてかれらの力強い調子のよい歌を歌うのを。
(ホイットマン『わたしはアメリカが歌うのを聞く』木島始・訳 岩波文庫)
ホイットマンの詩集にある「きみの扉を閉ざすな」「ただひとり遠く野生の森に」などを詠むと、無骨だけど慈愛に満ちたホイットマンその人がいて、大都市ロンドンの絶望を見て育ったハワードに、つよい印象を与えた。
エマーソンは、自然とは言語であり、人が学び得る場と考えた作家で、個人の情熱が時代を開くトランセンデンタリズム(超絶主義)の信奉者だった。
アメリカは繁栄期を迎えていた。南北戦争が1865年に終息し、1869年には大陸横断鉄道が開通し、一方において世紀転換期の矛盾が吹き出ていた。
「森の中、われわれは理性と信仰をとりもどす。そこにいれば私は自分の人生に自然がつぐなえないことは何ひとつないと感じる。」
(『エマソン論文集』酒本雅之・訳 岩波文庫)
エマーソンの思想は、ヘンリー・ソローに影響を与え、ウォールデン池畔の森の中での生活を描いた『ウォールデン 森の生活』が生まれた。
ハワードは、この「アメリカ・ルネッサンス」ともいうべき、アメリカの精神が謳歌された時代に居合わせたのだった。ハワードの田園都市思想における神秘的な側面は、エマーソンの超絶主義の影響が色濃い。
けれども、アメリカでのハワードの現実の生活は過酷なものだった。4年間のアメリカ生活に見切りをつけ、ハワードはイギリスに帰国したのだった。
ネブラスカ州での農業生活、大都市シカゴでの下積みの生活は、社会の冷たさと人の温かさを彼に教え、居住福祉重視のレッチワースの計画につながって行く。ハワードは後に、アメリカでの生活を「私に課せられた仕事の準備期」だと書いている。