まちの中の建築スケッチ
第12回
パレスサイドビル
——東京の近代建築景観——
大学で建築学科に進学してすぐのころ、故林昌二氏が設計製図の講師をされていて事務所の設計の話を聞いたのがきっかけかもしれない。イーゼルを立てて、パレスサイドビルを油絵で描いた記憶がある。地下鉄東西線の竹橋駅の大手町寄り皇居側の出口は現在工事中であるが、堀端に歩道を回してあって、50年前とほぼ同じ場所に立つと、全く同じ景観が眺められた。都心で、珍しく景観の保存されているところである。
2か月前、横浜を訪れてエリスマン邸の2階で、新聞記事に林昌二を見つけたときに、パレスサイドビルを思い浮かべ、東京の近代建築もスケッチに加えたくなった。記事の中にもあった因縁のアントニン・レーモンドによる設計のリーダーズ・ダイジェストビルが取り壊された跡地に建てられた林昌二会心の作品(1966年竣工)である。毎日新聞とリーダーズ・ダイジェストの本社機能を入れ、地下には輪転機の印刷工場も有する巨大なビルだ。
その後に建設された五反田のポーラビル、六本木の日本IBM本社ビルも、同様な両端コア形式の事務所ビルとして設計されたものである。ただの四角な平面に比べて立面が変化に富んだ表情になるし、事務所空間が2面からの採光になって、計画として理屈がわかりやすい。
日本IBM本社ビルは、鉄骨が立ち上がる経過を眺め、自分にとっても建築で構造設計を志すきっかけを与えてくれたビルでもあった。すでに取り壊されて9年にもなる。40年にも満たない寿命であったのは、寂しい限りである。特に保存運動のような話もでなかった。浜松町の貿易センタービルもまもなく解体されると聞くし、中野サンプラザビルも存続を望む声をよそに解体が決まっているという。経済効率から味わいのある建築が簡単に取り壊されるのは、市場経済社会とはいえ悲しいことである。
戦後の近代建築は、鉄とコンクリートとガラスで無機質な空間が特徴でもあるが、パレスサイドビルにあっては、薄い庇におしゃれな縦樋やさまざまな部位に見えるスリットが、外から眺めて改めて表情の豊かさになっており、繊細な作りこみは見事である。パレスサイドという名前から当然のことかもしれないが、堂々と皇居に正対してしっくり馴染んでいる。前景としての内堀通りの歩道は常時ランニングする人が行き交い、ゆったりした並木道になっている。スケッチの左手は、平川門に向かう橋が架かる。裏手にはビルに接するように高架の首都高速道路が通っているが、目隠しの役も果たしてくれているようだ。
そうしてみると、ここでも江戸時代の城とまちの関係が、建築にとって居心地の良い条件を与えていることに気づかされた。