「ていねいな暮らし」カタログ
第25回
「ていねいな暮らし」
語りの棲み分け
今回もまた、『つち式』を取り上げながら、今日の「暮らし」語りの位置について考えてみたいと思います。私自身が『つち式』を読みながら感じたことは、「(ていねいな)暮らしを語ることがかなり一般化してきたのだな」ということでした。
それはどういうことかと言いますと、『つち式』では、衣食住の中でも特に「食」の生産に関わりながら、「十全に生きる」(p.100)ことを追求しようとしています。「見かけとしては地方移住か田舎暮らしといったライフスタイルと似ている部分はある。だが、そのような分脈に本誌が位置づけられることは本意ではない」と著者が述べるように1、昨今の暮らし語りを意識した冊子となっていることが興味深い点です。都会の喧騒から離れて里山に移住すること、自分の手で作物を作ること、そして「暮らし」に関心をもつこと。こういったことが「普通」のことになりつつあり、暮らし語りの中で「表層的(に見える)/本質的(に見える)」ものという構図がグラデーションをもって存在しているのだなということを感じたのです。『つち式』では、やや近代小説のような表現を用いる傾向があり、他の冊子のように短い記事でまとめてわかりやすく伝えるというよりは、言葉を必要なかぎり重ねて、一つの長編小説のようにも読める形をとっています。
前回も触れましたように、『つち式』では、原始的な狩猟採集生活に戻すというのでもなく、「より共生的な農耕の形態の確立」(p.19)を目指すと明言しています。この異種の生物たちとどのように距離を取るかということもまた、第14回でまとめた今日の「暮らし」描き方マッピングの一つの要素となりうるようです。
2019年3月現在、「ていねいな暮らし」を検索システムで調べてみると、「オブセッション(強迫観念)を感じてしまう人たちの声が並ぶ一方で、Instagramで調べるとなおも「っぽい」写真が多く見られるなど、メディアによって印象の棲み分けが起こっているなということを感じています。次回は、このことを意識しつつ、海外の「ていねいな暮らし」イメージに目を向けてみたいと思います。
※文中のページ表記は、東千茅『つち式 二〇一七』(私家版、2018)からのものです。