まちの中の建築スケッチ

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昭和のくらし博物館
——終戦後の公庫住宅——

戦争が終わって、しばらくは連合国の占領軍下にあった日本で、まず焼野原に必要なものは、住宅であった。そして、各地に散らばった人間を東京に戻ることができるようにするのも、住宅なしでは、できない。東京への人口集中の始まりである。
わが神田家も、そのひとつ。父は東京都大田区馬込に会社があるので、歩いて通える地をさがし、自分で一生懸命に設計図を描いて、屋根裏付きの木造片流れ屋根の家を建てた。昭和26年2月、ようやく東京への転居が許され、住まうことができるようになったのである。資金は、住宅金融公庫の第1号をとったのだと、自慢していた。小学校高学年になったころに、8畳間の縁側を1間の廊下に増築したり、妹が中学生、自分が高校生になったのを機に、それぞれの部屋をというので、2階を増築したりした。その後、父が亡くなって後、昭和59(1984)年に台所・風呂部分を改築し、平成3(1991)年に他の部分も建て替えて今に到っている。

まちの中の建築スケッチ 神田順 昭和のくらし博物館

この4月の大田区長選に、区長候補として立候補したことで、知らずにいた大田区のさまざまな風景やいろんな方との出会いがあったが、昭和のくらし博物館もその一つである。下丸子から久が原への高台へ上がったところの、今は新しい住宅地になっている中に隠れるようにして、昭和26年竣工、住宅金融公庫融資第1号の住宅が残っている。小泉和子館長は、個人的な思いから博物館として残し、さまざまな催しも企画されている。昨年からはNPO法人の運営となっている公庫住宅だ。
大学で同期、江戸時代の建築を専門としている玉井哲雄が親しくしていることを知った。同時に、1学年下のイタリアの建築史で著名な陣内秀信も、講演会などで、ここをよく利用していることも知ったのである。こうして、選挙の車で乗り付けたのが、昭和のくらし博物館との初めての出会いであった。
外壁の下見板張りや、緩い瓦の屋根勾配、急な梯子段など、いかに安く設計するかという工夫がみられるのも、かつての我が家を思い起こして懐かしい。柱なども細いけれど、丁寧に使ってあって、気持ちよい現役の住宅の様を呈している。
都内にも、この時期の住宅はほとんど残っていない。特に風呂や台所が、当時とは全く様変わりしている。当時、どこの家でも生活の中心になっていた4畳半の茶の間も懐かしい。戦後すぐの中流家庭とはいえ、ゆったりした2階建てで、広いとはいえなくても庭付きである。今の標準となってしまった、敷地も半分以下、木造3階建ての都市内の住宅は、これだけ豊かなはずの時代に住宅の質としては、戦後すぐのものよりも、貧弱というのは、悲しいことである。これからの人口減少社会で、都市内住宅がどうあるべきか、税制の問題も含めて、国も自治体も制度を考える必要があるのではないか。昭和の戦後の住宅が、新しい令和の時代の住宅政策を考えさせるきっかけになった。