びおの七十二候
第23回
紅花栄・べにばなさかう
紅花栄と書いて、べにばなさかうと読みます。ベニバナの紅黄色の花が盛んに咲く頃をいいます。
「びお」の七十二候は、本朝七十二候によりますが、中国の七十二候では「靡草死」といいます。靡草はナズナなどの草をいいます。ナズナは、よく知られているように、せり・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろと並ぶ、春の七草のひとつです。ナズナという名前の由来は、なでたいほどかわいい菜、の意から変化したもの。茎が出る前の柔らかいうちにゆでて食べるとおいしくいただけます。
日本の七十二候では、ベニハナの花が咲く(さかえは、咲くことを意味します)頃をいい、中国ではナズナが枯れる頃を言うといいます。咲くと枯れる、この違いがおもしろいですね。
ベニバナと言えば「紅花油」を思い出す人が多いようですが、口紅や布などの染料としても知られています。
ベニバナは、エジプト原産といわれ、古くから世界各地で栽培されています。紀元前2500年、エジプトのミイラの着衣に紅花色素が認められます。日本にはシルクロードを経て、推古天皇の時代(6世紀末から7世紀初め)に朝鮮半島を経て渡来したといわれ、近畿地方を中心に全国に広まって行きました。安土、桃山時代から江戸時代にかけて、京染めの藍茜、紫根と共に染料植物として用いられました。
江戸時代中期以降、山形県最上地方で盛んに栽培されるようになりました。最上地方は米どころとして知られていますが、最上川舟運の中継地であった大石田(現・大石田町)に残された記録によると、ベニバナの出荷量から推計して、800〜1500haの作付け面積があったようです。
米とベニバナは、「最上川舟歌」を聴きながら酒田に集まり、それを近江商人が北前船に乗せて京・大阪へと運びました。日本の特産物の番付を決めた「諸国産物見立相撲番付1」によると、東の関脇が「最上紅花」で、西の関脇が「阿波の藍玉」でした。紅と藍は、江戸時代の二大染料でした。最上地方は、いまでも紅花の日本最大の産地であり、山形県の県花になっています。河北町には、「紅花資料館」があります。
町の工務店ネットは、作家の天野礼子さんと森里海連環学の実践塾を各地で開いていますが、山形では、杉の産地として知られる金山町で開催しました。最上川の舟下りがプログラムにあり、リバーポートは戸沢藩船番所跡にありました。番所というには不似合いな、大きな関所門が建てられ、中に大きな土産物屋がありました。そこを通らないと舟に乗れないことになっていました。
その土産物屋で見たのは、中国産の「紅花(乱花/花びらを直射日光と風で乾かしたもの)」でした。いかにも山形産のような装いをして売られていました。産地で起こっている現実に唖然としました。
さて、ベニバナの花の色は黄色です。何故、それが「紅花」になるかと言うと、その黄色い花を摘んで、水にさらして乾燥させ、それを幾度か繰り返すと紅色になるからです。
ベニバナの花は、水に溶けやすい黄色の色素と、水に溶けにくい紅色の色素が含まれています。ベニバナは、水にさらすことによって分離します。おもしろいのは、ベニバナの色素は99%が水溶性の黄色であり、赤の色素は1%しかないことです。1%しかない色素が、黄色の色素を劇的に変えてしまうのです。
紅花油は、サフラワー油と呼ばれ、サラダ油やマーガリンの原料になります。また、乾燥させた花は紅花と呼ばれ、血行促進作用がある生薬として日本薬局方に収録されています。この生薬は、養命酒などにふくまれており、紅灸・葛根紅花湯・滋血潤腸湯・通導散などの漢方方剤として用いられています。
ベニバナは、末摘花、紅藍、久礼奈為、呉藍などとも呼ばれていました。末摘花は、茎の先端につく花を摘み取って染色に用いることから呼ばれるようになりました。
しかし、この名前は花の名前というより、『源氏物語』の末摘花という女性の名前としてよく知られています。末摘花は、『源氏物語』の中で、醜い女性として描かれていて、その容姿は、原文ではこう記されています。
(『源氏物語』第六帖より)
この部分、与謝野晶子の現代訳では、こう記されています。
(与謝野晶子訳『源氏物語』角川文庫)
また谷崎潤一郎の訳では、こう記されています。
(谷崎潤一郎訳『源氏物語』巻一 中公文庫)
田辺聖子のものは、訳と記されず『新源氏物語』というタイトルがつけられています。
(田辺聖子『新源氏物語』上/新潮文庫)
このように同じ箇所を並べると、それぞれの個性が出ていておもしろいですね。ほかに円地文子や瀬戸内寂聴、窪田空穂、五十嵐力等のものがありますので、興味のある人はそちらに訪ねてください。
『源氏物語』は、美女ばかりが出てくる物語ではありません。桐壺や、藤壺や、葵上や夕顔、六条御息所は、美しい女性たちだったと思われますが、紫式部は、これらの女性の容貌をほとんど書いていません。「いとにほやかにうつくしげ」などと抽象的に書いているだけです。しかし、醜い女性に話が及ぶと、俄然、筆は躍動をみせ、ハツラツとした文章が踊ります。空蝉や花散里、色好みの老女源典侍の描写がそうですし、末摘花は、ここまで書かなくてもいいのではと思われるほどに書き込んでいます。
それは末摘花の容貌だけでなく、光源氏に覗き見させて、零落2した常陸の宮家(末摘花はそのお姫さん)の暮らし振りや衣装についても、料理は粗末で、お付きの女たちの白い着物は古ぼけて鼠色していて、髪に差した櫛はずれ落ちそうだとか、容赦なく書き込んでいます。常陸の宮家だけでなく、夕顔の巻では、五条あたりの下町の生活も書き込んでいて、このリアルな描写は、作者が見聞きし、体験したことにもとづいているように思われます。寝屋の描写で、その枕元にゴロゴロと鳴る雷よりも恐ろしいカラスの音を響かせているところなど、現代小説を読んでいるようです。
光源氏は、夜があけて末摘花をみて仰天し、言葉を失い足が遠のきました。しかし、末摘花は、居場所を変えることなく、純情一途に光源氏を待ち続けました。
この歌は、光源氏が末摘花を詠んだものです。
末摘花が送ってきた正月用の衣装を光源氏が受け取り、あまりのセンスの悪さに呆れかえり、悪寒さえ感じました。なぜこんな女性に袖を触れてしまったのかという、からかい半分にいたずら書きした歌です。光源氏は、酷薄3な男でした。
光源氏が須磨へ下って二年が経ちました。
末摘花の屋敷は、荒れ果てていました。末摘花は、そこで光源氏を待ち続けていました。この空き家のように荒れ果てた屋敷に、光源氏が再び訪れました。どうしているのだろう、という程度の興味だったのでしょう。しかし光源氏は、末摘花の困窮ぶりを見て同情します。そして、末摘花のあまりに真っ直ぐな心根に、見捨てられないものを感じます。紫式部は、光源氏の特性として〈心長さ〉を与えています。読者はここで、酷薄ではない光源氏をみます。末摘花は、光源氏によって二条東の院に呼び寄せられ、日々の食物に困ることなく暮らすようになりました。
末摘花を真心の持ち主として描いているところに、紫式部の人間をみつめる目があります。
それが中国の『紅楼夢』や、ペルシャの『千一夜物語』などとの違いなのでは、と思いました。このロマン小説が不動の世界文学とされるユエンです。
※2:落ちぶれること。
※3:残酷で薄情なこと。
(2009年05月26日の過去記事より再掲載)