まちの中の建築スケッチ

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文化学院のアーチ
——保存による記憶——

文化学院

美術と文芸の専門学校として大正年間に文化学院は誕生し、多くの卒業生を輩出している。2006年に、新しい校舎を建てると発表された時に、在校生や卒業生たちから昭和12年の校舎を残して欲しいという声があがり、それらを集めて運動に展開された話を、建築家の大橋智子氏より聞いた。結局は玄関口のアーチ建物だけが残ることになったが、2014年には、キャンパスを御茶ノ水から両国へ移転。そして2018年には、文化学院自体が閉校して一つの歴史に幕が閉じられた。
御茶ノ水駅から明大通りが下りにさしかかるあたりの最初の道を右に入ると「とちの木通り」の名前がついている。このあたり、明治大学や日本大学、駿河台予備校などのビルが入り組んで建っている。文化学院もその一つであった。筆者の事務スペースとして使わせていただいているA-ForumのあるレモンパートⅡビルも、その斜め向かいにある。
今は、BS11の超高層ビルが建っているが、通り側はゆったりとした木立のパティオの一角にアーチのついた箱が残っているのは、幸いである。「関係者以外立ち入り禁止」という味気ない看板が出ていて、せっかくの空間に足を入れることを躊躇させるのは残念であるが、とちの木通りを歩いていても気持ちの良い部分である。大橋氏の解説によると、アーチの玄関は、千代田区が建築物と認定しないということで、容積率の計算にも入らないということから解体を免れたという。これは、自治体としての粋な計らいとも言える。
幹線道路ではないが並木道になっていて、また、レモンパートⅡビルもそうであるが、いくつかのビルの入り口はちょっとした空間のゆとりを持たせているものが少なくない。とちの木通りの橡の木(マロニエ)の印象はあまり強くないのであるが、ニュージーランドのクライストチャーチに滞在した際は、カンタベリーの街路でも、大学内のキャンパスでも、良くみかけた。大木になって赤や白の花が印象的であったことを思い出す。
残念なことに、先月取り上げた同じ神田地区の神保町の小さな事務所ビルの解体工事が遂に始まるとの報告を受けた。大きな通りから入った小さな通りでも、都内では次々と建て替えが大規模化につながっている。時には広場などが設けられているが、容積率のボーナスをもらうための公開空地だったり、公開しているのに、管理上なんとなく入りにくい設計になっていたりする。経済効率を前提としていることが設計にも表れてしまうのだ。
歴史的な建築が緑の中にあることは、ただ通り過ぎる人にとっても、人の集う空間が、そしてそこに過去の営みがあったことを感じさせるのである。もちろん、その建築の思い出を持つ者にとっては、その建築の見える範囲の空間が、記憶を蘇らせ、固有の心地よさを生む。まちの中の建築が、まちのためになる、そんな意識の建築主が多いと、まちをもっと良くするのだと思うのだが。