よいまち、よいいえ

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東京都台東区谷中銀座

東京都台東区谷中銀座

馴染みと寄り道と学び

日暮里駅西の「夕焼けだんだん」から「谷中銀座」を見下ろす、ゴチャゴチャにも見える不思議な景色を、外国観光客も含めて多くの人たちが撮影していた。
なぜ、カメラに収めるのだろうか。自分にしては、ここから右へ百余メートル行けば母校の高校へ、左に数百メートル向かえば母校の大学へ着く、いわば馴染みの場所。坂を下ったすぐ左の店は、高校時代に朝から通ったジャズ喫茶、谷中銀座に入った中ほどの店の二階には、放課後よく寄るビリヤード場があり、谷中銀座の先は、「よみせどおり」に直行していて、夕方の空腹を満たしてくれた。

思えば学外の本音の自習の環境であり、友との文化的交流の場で、生き方や発想を芽生えさせる機会もくれた。大学時代も寄り道スポットの一つ、そして卒業後も何かと縁が繋がり、大学教員時代には、毎年一年生たちの見学旅行のルートの一つにもしていた。
フィールドワークの街としても知られたこの地区では、まちづくりの学習や先駆的実践に携わった知人や同窓卒業生との交流もあって、自他ともに学べた場なのだが、絵にしたのは今回が初めてだ。改めてこの地区の価値や今を考えてみることにつながった。

密度の高さと価値

普段着の街が観光化?

ここ1年、朝約一万歩、日本橋と築地を往復するのが平日の日課だが、土日朝は日本橋から一万歩圏のあちこちへ向かっている。谷中までも歩いてみた。電車やバスではわからない連続感が得られるが、朝は車や観光客も少なく静かでストレスなく、挨拶を交わせ、いろいろな発見をするゆとりもできる。

20年くらい前までは、谷中も築地も観光客の姿はなかったが、ガイド付き団体も多く見られるようになって、お馴染みさんや地元にとっては迷惑になることもあるが、なぜに普段着の姿のような街に観光客が増えるのだろうか。答えはそう簡単ではなさそうだが、身近な街のことだから、昔、今そしてこの先も気になるのだろう。

まずは、昔と今の比較からでも良かろう。かつての町や村に、高速道路、高層巨大ビル、ニュータウンなどの従前のスケールを超える構造物や開発が、全国のあちこちにあたりまえのように出現し、かつてのような風景に珍しさやノスタルジックな思いを呼び起こされることもあるのだろう。しかし、かつての姿のままでは、今はありえない。いろいろ変化して現在があり、かつての記憶をも超える何かがあるはずだ。

細やかな工夫の重なりと密度

まずは、かつての街の開発前後の違いなどで、大きい開発の現実の姿のつまらなさに気付きはじめているのではないかと思う。
例えば、巨大高層ビルは立派に見えるよう、単調な繰り返しのスケールオーバーなデザインで、石やガラスやステンレスなど硬くて生き物をも寄せ付けないような素材で覆われ、足元や中は、ガランとしてガードマンやカメラで監視されている。客を呼ぼうとしている商業開発も、多くはテナントミックスと催し等による呼び込みの魅力づくりやワゴンでの決まりきった賑わいづくり、額縁で飾った文化で、知らないうちにいろいろ管理されていることに気付かされる。見え透いたことしかなければ、バカバカしく、息苦しく、もうたくさんだとも感じられてくるだろう。

一方、かつてよく見かけた賑いの街を思い起こせば、八百屋さん、荒物屋さんなど日常に必要な小さな店が軒を並べて、細やかなしつらえや、みずうちなどの心遣いも見えて心もなごむ。店は小さいので、その分、それぞれがそれぞれに工夫した姿の展開が密度高く重なる姿だ。店の物も日や時間によって違い、いたずら坊主、酔っ払いなど通る人も多様で、思いがけないことも起こり、それなりに解決する様もあって、出会いの密度が高かった。

変化の適切なスケール

しかし、今は流通や生活や労働の環境も変化した。路地沿いは建て替えできない、なくなる方向の政策。バブル経済の頃「大きいことが良い」と豪語していた議員もいた。
最近の総理や知事は、国際化に対応して枠を超えたプラス「より高く」の開発を地盤との関係もわからず推進している。小さいことをばかにし、下を上から見下し大きく考えることが羽振り良くなる時代? 幸せが訪れる? 疑問も多い。そんな時代に、かつての街は、そのままでは存続できない。

谷中地区も、高いマンション開発が進められ反対むなしく建設された過去もある。寺町としての歴史があるので、関連する職能や店が継続できる特質もあるが、それなりの苦難や変化も経て今がある。かつての店や住まいは、利用者や様は変わっているものの、小商いを大切にしながらの等身大の変化があり、その変化は興味深く、訪れる人にも歓ばれる。
幸せは、よろこんでもらえることと感じさせてくれる店が多くなったとも感じる。住まいや倉などを額縁で飾らないギャラリーとして提供してくれる変化もある。路地も変わってはいるものの素敵な路地があり、過密な所の小さな場も記念公園として緑が美しくなった。

路地が名所

表と裏の両方をどうしても見たく、ささやかだが、海外でも朝昼、裏路地をよく歩いた。現地の人も入らない中まで入り、びっくりされたこともあったが、幸いにも裏通りでは盗難にも合わなかった。
夜中でも安心できた都市もあったが、しかし、現地の言葉は不確かもあって、それなりに覚悟や緊張をしながらの歩きがほとんどだ。例外もあるが、日本の路地は、鉢植えや自転車、家から一時出している物などが置かれ、建物が朽ちそうでも、ゴミが散らかっておらず荒れた感じはなく、こちらが悪人かもしれないのに、むしろあけっぴろげの場もあり、家の中を覗くのは失礼と思いつつ安心して歩ける。

路地は日本の街の資産ではと思うが、外国人にとっても同様と考える。路地や台地と台地の間の谷からも学ぶことがたくさんあるのだ。栃木で古くは、現場から学ぼうとする田中正造氏の「谷中学」もあったが、東京でも、まちづくりの拠点「谷中学校」があった。いままでの開発の多くは、上から見た平面計画や配置計画が主体で、現地からの学ぶことをせず、路地などに見られる界隈づくりは後回し、あるいは無視に近い。やはり、上から目線の段階から卒業して、権利者たちのそれぞれの工夫や知恵が活かせる界隈づくりなどからのプラン創りや実践が不可欠ではないか。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2016年06月05日の過去記事より再掲載)

著者について

小澤尚

小澤尚おざわ・ひさし
国内や外国の現地でのスケッチとともに、昔の姿の想像図や、将来への構想や設計の図も、ハガキに描き続け、ハガキをたよりに、素晴らしい間の広がりを望んで活動。2004年から土日昼は、日本橋たもとの花の広場で、展示・ライブ活動を行ってきた。 東京藝大建築科卒、同大学院修了。(株)環境設計研究所主任を経て独立し、(株)小沢設計計画室を設立し、広場や街並み整備も手掛けた。宮城大学事業構想学部教授(1997~2013)を経て、設立した事務所のギャラリー・サロン(ギャラリーF)を日本橋室町に開設・運営。2021年逝去。

連載について

建築家・小澤尚さんによる連載「よいまち、よいいえ」。 「いえ」が連なると、「まち」になります。けれど、ただ家が並べばよい、というのものではありません。 まちが持つ連続性とは、空間だけでなく、時間のつながりでもあります。 絵と文を通じて、この関係を解いていきます。