集熱、蓄熱、断熱・気密のパッシブ三原則
空気集熱によるパッシブソーラーに入る前に
それでは、一番主眼の空気集熱方式について、お話ください。
もったいぶるわけではありませんが、その前にパッシブソーラーの原理について話をさせてください。そこをしっかり知っておくと、太陽熱を利用するということがどういうことか、よく分かりますので……。
早く具体的なお話に入って欲しいけど、そういわれたら仕方ないわね。
パッシブソーラーの原理は三つあります。一つは集熱です。
その家が日陰に置かれていなければ、どの家も太陽熱を集熱しています。太陽エネルギーは、快晴の日に屋根で受けると1平方メートル当り、ざっと1kwになります。
まず集熱。
集熱された太陽エネルギーは、建物に蓄熱されます。屋根に受けた熱は屋根材に蓄熱されます。夏に裸足で屋根を歩くとヤケドしそうに熱いのは、この蓄熱によります。屋根材だけなく、屋根下地にも蓄熱され、屋根裏にこもります。壁に受けた熱は壁材に蓄熱され、窓を通して入った熱は、木の床やタタミ、じゅうたんなどに蓄熱されます。テーブルに日が当たっていると、そのテーブルにも、テーブルの上に置いてある食器にも蓄熱されます。しかし、その材料に熱容量がなければ、その熱はすぐに放熱されます。せっかく得られた熱なので、冬には、その熱を留め置きたくなります。屋根や壁や床を設けるのは、夏には日を遮り、冬には得られた熱を逃がさないためです。より長く蓄熱させるため、その熱を蓄える材料を選ぶことです。
つぎに蓄熱。
蓄熱した熱を留め置くには、放熱を防ぐ断熱・気密をほどこす必要があります。暑ければ窓を開けますね。寒ければ窓を閉めますね。無意識的に、人は暑さ寒さに反応します。
三つ目に断熱・気密。
これら三つの働きを意識的に行うのがパッシブソーラーです。これはパッシブソーラーをやる、やらないは別にして、建物の熱収支を構成しています。
なるほどね、パッシブソーラーをやらない家も、集熱し、蓄熱し、断熱・気密しているわけね。
そこが大切です。パッシブソーラーは、それを意識的に行うことで、よりよい温熱環境をつくろうという方法です。
三つの熱の伝わり方、伝導・対流・輻射。
温熱環境という言葉が、よく出てきますが、よりよい温熱環境とは、どういう状態をいうのですか?
暑くない・寒くない状態、暖房でいうと、頭寒足熱とか、部屋と部屋の温度差がないこととか、いろいろな要素性がありますが、それらは建物と人との熱の伝わり方によって生じる反応のカタチなんですね。
これも三つですか?
そうです。伝導と対流と輻射の三つです。
まず伝導ですが、個人的な体験をお話します。昔、冬山登山をやっていたことがあります。単独行の冬山で、ピッケルの金属部を素手で握ってしまったことがあります。そのとき、一気にピッケルから手を離すと皮ふが剥がれることを、何かの本で読んだことを思い出しました。痺れるほどに冷たかったけど、ガマンして握り続けました。そうしたら、人体の熱が伝わって何事もなくピッケルから手を離すことが出来ました。
スチールは熱伝導率の高い材料で、木のそれと比べると483倍といわれます。余談になりますが、建築基準法では木よりも鉄の方が防火性を認めていますが、木の階段は火災の中を降りられても、鉄は熱伝導率が高いので降りられません。
コンロにヤカンを掛けておくと、とってまで熱くなりますけど、あれですか?
そうです。伝導は、熱源とじかに触れているときに起こる、熱の伝わり方です。
では対流は?
対流は、今のヤカンの話でいうと、温められたヤカンの中の水はどうなって行くでしょうか?
下から上に動きますよね?
それが対流です。空気や水は熱せられると密度(体積あたりの重さ)が小さくなり、軽くなって、上に昇って行くのです。よくかき混ぜないでお風呂に入ると、下の方はまだ水だったという経験はありませんか?
あります、あります。
室内の空気も、それと同じことが起こっています。熱い空気も、水と同じように対流が起こって上に上にと昇って行きます。すると今度は、上にある冷たい空気が下降気流を起こして降りてきます。吹き抜けでストーヴを燃やすと、暖かい空気が上に昇って、階段を伝わって冷たい空気がさあーっと降りて来ることがあります。
では、三つ目の輻射は?
石焼イモは、熱を持った石が放射する輻射熱で焼かれます。熱くなったヤカンや、焚き火の前に立つと、顔がほてるでしょ。あれも輻射熱です。日向ぼっこもね。外気温は同じなのに、太陽熱が身体に移動することで、身体内部がホカホカしてくるのです。輻射熱は、いろいろなところから発せられています。熱せられた石からも、熱いヤカンからも、地球から遥か1億5千万kmも離れ、その表面温度5700℃という太陽からもね。
鉄筋コンクリートのアパートの最上階の部屋が夏に暑いのは、屋上のコンクリートに溜まった輻射熱といわれますが?
屋根の断熱が弱いと戸建住宅でも、天井を通して熱気が部屋に達します。
これからお話する太陽熱による空気集熱式のパッシブソーラーでは、屋根で集めた熱を床下コンクリートに蓄熱して床暖房に利用しますが、これは輻射による暖房です。
直接暖房か間接暖房か?
だんだん核心に入って来ましたね。
はい。大分、遠回りしましたが(笑い)。そこで、もう一つだけ遠回りしていいですか?
え、まだですかぁ?
直接暖房か、間接暖房かという話をしておきます。というのは、これまで日本人のほとんどは、直接暖房の経験しか持っていませんので。
はいはい、お聞きしますよ。
最近でこそエアコンで暖房したり、冷房したりするようになりましたが、その前は石油ストーヴや電気コタツが代表的でした。もっと前は火鉢があり、炭火を使った堀コタツがあり、囲炉裏がありました。これらはみな直接暖房です。部屋は隙間ばかりのザル住宅。いくら暖めても、その熱は逃げてしまって部屋は寒い。だから厚着しました。綿入れの半纏、どてらを着込んで、それでも寒いから鍋物食べて、熱燗で一杯ということになるのだけれど、これらもカタチを変えた直接暖房でした。
お隣の韓国にはオンドル(音突)がありますが、日本は何でずっと直接暖房でやってきたのですか?
朝鮮半島に比べて、日本は耐えられないほど寒くない、ということがあったと思います。微温的というか。だから徹底的に寒さに立ち向かうということがなかった、その結果が直接暖房に留まった理由だと思います。朝鮮半島は、それでは済まない寒さに襲われる土地であり、したがって間接暖房のオンドルに向かいました。
床下に煙道を通して、薪をゆっくり燃やして床面を暖めるんですね?
釜屋(プオク)は、部屋から一段下がった土間にあります。韓国のオンドルの住居に行くと、部屋のなかに紙がべたべた貼ってあって、これは何ですかと聞いたら、暖かい空気を逃がさないための目張りでした。部屋の床は土のコテ仕上なんだけど、ここにも紙がべたべた貼ってありました。韓紙という白い紙でした。オンドルについては『韓国現代住居学』(ハウジング・スタディ・グループ著/建築知識刊)が詳しくて、労作といっていい大著です。真鍋弘さんが編集されました。
ロシアのペチカはどうなんですか?
「雪の降る夜はたのしいペチカ」(北原白秋)ですね。この暖房方式は暖炉に似ていますが、熱を長持ちさせるため、大きな箱型の本体になっていて、その中は焚き口から曲がりくねった長い煙の道があります。その暖かい煙によってレンガを暖め、そのレンガの輻射熱によって家全体をじんわりと暖めます。ロシアでは、春が来るまでずっと焚き続けたといいます。ペチカは、パンを焼いたり、ボルシチを煮込んだり、毎日の料理をつくる場所でもありました。
オンドルもペチカも、間接暖房なんですね。
そうです。ドイツのハンブルグのアパートメントに行ったことがありますが、アパートメント全体が、都市暖房による間接暖房でした。中国・大連のマンションも同じでした。今では集中的な都市暖房が普通ですが、それらはオンドルやペチカの国の暖房法の発展形といえるのではないでしょうか。
北海道はどうなのですか?
北海道には、先住民のアイヌ族の前に縄文人の時代があります。江戸時代の中期までは、縄文的なあり方がアイヌへと引き継がれました。彼らの食生活は内地人と異なり、寒さに耐える皮膚の強さを持っていました。アイヌには笹葺きによる丸太構造の掘っ立て小屋があります。チセと呼ばれています。北海道の内陸部は、厳寒期はマイナス40℃位でしたが、チセは屋根も壁も床も笹葺きで、その厚みは20センチ以上あったといいます。その下は土間で、アイヌは夏でも火を絶やさずに燃やし続け、土間の熱環境を保ったといわれています。
北欧のラップランド(北極圏)に住むサーミ族、クヴェーニ族などの生活に似ていたと思います。サーミ族は、アザラシやビーバー、トナカイなどの毛皮を内張りした住居に住んでいましたが、床は土間床でした。
部屋全体を笹や毛皮で包んで、土間があって、そこに熱を蓄熱させるやり方は共通していますね。
そんなふうですね。しかし、明治になってアイヌの家に板床が敷かれるようになり、アイヌ人はそれを嫌ったといいます。明治政府は「文明」を与えようとしたのだけど、板床では寒いわけですから。屯田兵の住居は、酷く寒かったようで、彼らは北海道の寒さに耐えられず、また重労働や粗食による衰弱などによって、たくさんの人が亡くなりました。屯田兵の家が幾つか復元されていますが、それを見ると本州の建物の枠から脱せられないでいたことがよく分かります。
納内屯田兵小屋
1895(明治28)年築 旧所在地:深川市納内町
屯田兵の入植に伴い建築された家。
Photo:Railstation.net
その北海道でも、建物の断熱化が本格的に開始されたのは、ここ数十年と言われていますね?
そうです。屯田兵以降、北海道に移住した日本人は、直接暖房の血が流れていたというのか、そこから抜け出られなかったようです。
真っ赤に燃える達磨ストーヴを囲んで、半袖のシャツになってビールを飲むのが幸せだということが、ついこの間まで信じられていましたから。そこから一歩離れると耐えられない寒さの室内環境でした。そういう暖房方式しか持っていなかったのです。
今の北海道の家は、窓際にいても寒くありません。
北海道防寒住宅建設等促進法(寒住法)が施行されたのは1953年でした。当時の断熱はグラスウールによるもので、30ミリ程度のものでした。そのため、内部結露・表面結露・すがもり(寒冷積雪地特有の雨漏り・降雪後、屋根軒先以外の雪が暖房熱により融けることによって起る)などの問題が起こりました。その後、1980年の省エネ法に基づく省エネ基準によって、住宅の断熱材の厚みが増しましたが、壁体内結露の問題が出たりして、北海道立北方建築総合研究所(旧・寒建)のメンバーなどによる悪戦苦闘の努力を経ながら、徐々に道筋がつけられて行きました。
日本の建物の温熱環境という点で、画期的なことだったのですね?
そうです。未体験ゾーンでした。まだ、内地の建物が断熱・気密が悪かった頃、北海道の人は、本州に行くと風邪をひくと言っていました。
それって、おかしいですね(笑い)。
まあね(笑い)。
実は、空気集熱式のパッシブソーラーが工務店によって取り組まれるようになったのは、北海道釧路での実践がものをいっています。このソーラー方式は、奥村昭雄(建築家・東京藝術大学名誉教授)とその仲間(ソーラー研究会)による前史を持っているわけですが、そしてその取り組みを通じてシステムとして成立を見るわけですが、厳寒期の釧路でシステムが動いている、使えることが、その後の普及にとって大きかったと思います。
伝説的に言われる、「60℃の熱い空気が床下に降りてきた」という釧路からの一報ですね。
その一報を受けたのは私でした。その前に、岡山県の津山での実践があり、無惨に失敗しました。いくら太陽熱を集めても、部屋が一向に暖かくならないのです。隙間ばかりのザルのような家でした。釧路には、断熱・気密で重ねられた技術があり、その箱に太陽熱が入ることで、このシステムの機能が正しく生かされたのです。
もっと太陽熱を!(Part1)