びおの珠玉記事

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お花見の起源

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2010年04月05日の過去記事より再掲載)

花見

桜の季節ですね。

毎年、桜が花開くと、その美しさに心を奪われます。
桜の下で、お花見も盛んに行われます。

私たちが毎年楽しみにしている桜、お花見。
その起源を探ってみました。

豊作を願う農耕行事

昔、庶民の間では「山遊び」「磯遊び」が決まった日(温暖な地方では3月3日、寒い地方では4月8日)に行われていました。
これは、忙しい農耕や漁労の仕事に入る前に、春の一日を野山や海辺に出かけて、遊んだり飲食したりする習わしです。
物忌みのひとつで、この日は労働を休まなければならないとされていました。

春は、山から神様がきて田の神になり、農耕が順調にいくように見守ってくれる季節とされていました。山遊びは、その山の神を迎えにいくための風習が形を変えたものでした。
山へ入って飲んだり食べたりするのは、神と人が一緒に食事をする「直会(なおらい)」という儀式でした。

また、お花見といえば桜ですが、「サクラ」は農耕の神、田神(サガミ)がいらっしゃる場所「座」(クラ)を表していて、桜は里に下りてきた神様の居場所を示すものとされました。
人々は桜の咲き具合を見てその年の作柄の豊凶を占ったり、花の下でお酒や食べものを供して豊作祈願をしたりしました。

宮中での花見、日本の季節感や美意識を象徴する桜

一方、宮中では、奈良・平安時代から花見の宴が持たれ、杯を酌み交わし、詩歌を詠んでいたようです。
ただ、奈良時代までは中国文化の影響が強く、「花」といえば梅のことを指していました。
「花」といえば桜のことを指すようになったのは、平安時代です。

平安時代、国風文化の形成とともに、古くから日本に自生していた桜への関心が高まりました。
812年、嵯峨天皇が神泉苑にて「花宴(はなうたげ)」を催します。これが、公式に行われた最も古い花見だとされます。
京都御所、紫宸殿の「左近の桜」が植えられたのもこの時代です。
また、四季の移り変わりに美を感じる日本的情緒を文学として初めて表したとされる「古今和歌集」は、桜を特別なものとして取り上げ、桜の美を確立します。
こうして、桜は日本の季節感や美意識を象徴する花となりました。

時代が下って、1598年、豊臣秀吉が醍醐寺の三宝院で行った「醍醐の花見」は有名ですね。大々的で華麗なものであったことが知られています。

庶民の娯楽としての花見の確立

さて、お花見の起源とされる二つの異なる文化について見てきましたが、このような農民的文化と貴族的文化が江戸時代に融合して、庶民の娯楽としての「花見」が確立されたと考えられています。

江戸の町に一番初めに桜の山が作られたのは1620年代のことで、上野の寛永寺が建立された際、二代将軍徳川家光(在職1623~51)によって、吉野山の桜が移植されました。
元禄(1688~1704年)の頃には上野や浅草が桜の名所になり、八代将軍徳川吉宗(在職1716~45)が王子の飛鳥山、品川の御殿山、隅田川堤、小金井堤などに桜を植え、一般に開放したことで、盛んに花見が行われるようになりました。

このように幕府によって桜の名所がつくられ、二つの異なる起源を持つ花見に、江戸の庶民の旅好き・宴好き・花好きといった性質が加わり、娯楽としての花見が確立されたといわれています。

花見のときには、武士も町人も桜の下で花を愛で、酒を酌み交わしました。
大勢で集まることが好まれ、花見弁当、花見団子、桜餅、酒などを持ち寄ってにぎやかに楽しみました。

奈良県・吉野山の桜

奈良県・吉野の桜

今年も、お花見を楽しみましょう!

このように、古くから、桜は日本人の営みと深く結びついてきたのですね。
私たちが毎年、これほどに桜に心ひかれるのは、それ故でしょうか。

もし、この季節、この花の美しさに無関心でいるとしたら、日本人として、あまりにも惜しいような気がします。

こんな起源があることに思いを馳せながら、今年も桜を愛で、お花見を楽しみたいと思います。

参考資料

・子どもに伝えたい年中行事・記念日(萌文書林編集部 編、萌文書林、2005年)
・子どもに伝えたい食育歳時記(新藤由喜子 著、ぎょうせい、2008年)
・NHK 歴史は眠らない サクラと日本人 第1回「サクラの美の誕生」