びおの珠玉記事
第175回
〈衣替え〉と収納 (前編) ――畦上圭子の住まい術
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2009年06月10日の過去記事より再掲載)
衣替え、・・・と申すものの。
9800円のスーツが話題になっていて、9800円のスーツなど、あの松屋銀座が売りだして、あっという間に200着売れたって言うじゃない。
そんなもの着ていて〈衣替え〉 は、今でも有効なのかしら。
だって〈衣替え〉は、モノの出し入れによって、長く着続けるってことがあるわけでしょ。そんなスーツをクリーニングに出して、翌年はまた着るってことになるかしら。その年、着つぶして、新しいのを買った方がいいってことにならない?「激安戦争」とかっ380円のTシャツ、980円のジーパン、て言葉が、広告宣伝物に踊っていて、浅ましいというか何というか、いろいろな価値観の根底が崩れつつあるわけよね。モノを大切に使うといっても、モノ自体が持つのか、持たせる価値があるのかが問題よね。
今ではみんなバカにするブランド品 だけど、むかしロンドンのバーバリーの本店で買った程度の良いシャツを、20年近く、毎年着ていたことがあって、いいモノはいい、って思ってた。霧の多いロンドンで、型崩れしないで着続けられるバーバリーのコートはいいのは分かっていたけど、シャツも縫製がよくて感心したのね。でも、最近はブランド品も、ずいぶんヒドイのがあるわね(笑)。
まあ、あまりブツブツ言っても始まらないので、衣替えの話に入りますか。
まず〈衣替え〉の習慣 はいつからはじまったのか?
これはね、平安時代の宮中行事から始まりました。平安時代は、中国の影響がつよかったのね。この時代に寝殿造りが盛んになるでしょ。あれも中国に倣ったのよ。唐風のおおらかさが受けたみたい。でも、寝殿造りは寒くてね。冬には耐えられないほど寒いの。
それで十二単が流行ったのかも。ほら、重ね着すると暖かいでしょ。でも、これは冗談(笑)。あれは貴族の正装だったの。寝殿造りが寒かったのは、疑いないことだけど。高床で、板の間に敷き畳、気密も何もない、スカスカの建物なので、幾ら暖めてもダメ。やっぱり、重ね着するしかないか(大笑い)。庶民の家は掘立小屋だったけど、小さい家だったこと、囲炉裏があり、土間に菰を敷いて寝ていたから、こちらの方が断然暖かったと思うわ。
寝具 の歴史をみると、掛け布団が出るまでは、昼に着ていた物をかけて寝ていたそうよ。夜着は、鎌倉時代からあったそうだけど。これは後で述べる収納と関係するけど、今のような掛け布団は、江戸時代の後半のことで、布団といえば敷き布団だったのね。
十二単の正式名は、五衣唐衣裳(いつつぎぬ、からぎぬ、も)というの。当時は、十二単と呼びならわされていたわけでなく、唐衣 ・表着 ・打衣 ・五衣 ・単 ・裳の「重ね着」なのね。でも「重ね」という言葉は、袷の表地と裏地で色を違えることを言っていて、こちらは「襲」という言葉があてられていたわけ。十二単で、いろいろな色の取り合わせを「襲の色目」といいました。
襲の色目の名は、季節の風物にちなんで付けられていて、紅梅、桜、山吹、朽葉、松などの植物名、玉虫色などの昆虫名、氷、初雪などの地象などもあって、どれもきれいな日本語なのね。この「襲の色目」は、個人の好みもあって、清少納言は「花も糸も紙もすべて、なにもなにも、むらさきなるものはめでたくこそあれ」(『枕草子』)と言って、紫が好きだったみたい。十二単を着たら、どの位の重さになるか諸説あるけど、冬用で、だいたい20kg程度あったそうね。
十二単は、春用、夏用、秋用、冬用 と〈衣替え〉していたので、季節によって相当違っていたと思うけど。
先に、平安時代は、中国(唐)の影響がつよかったって言ったけど、布(素材)は極上の「絹」 が用いられていました。極上の布は、唐からのインポート素材だったってこと。セレブ(貴族)にだけ許されたゼイタクだったのね。
でも夏用は、正装のとき以外は、絹をまとって、シースルー感覚で薄着してたんじゃないかしら。いくら上等の絽とか紗とか、薄い素材だといっても十二単では、暑くてかなわないからさ(笑)。正装しなきゃいけない日は、もうひたすらガマン(大笑い)。
十二単については、おもしろいサイトがあるので、それを見てください。
http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/1.htm
平安時代 の〈衣替え〉は、唐の風習に倣って、太陽暦にしたがって年4回行っていたの。〈衣替え〉は「更衣」と呼ばれていて、「更衣」は「ころもがえ」とも読めるのね。
天皇の着替えを手伝う役目を持つ女官の職名は、「更衣」と呼ばれていました。女官のなかでは、女御に次ぐ職位だったそうよ。鎌倉時代に入ると、更衣は衣服だけでなく、調度品までとり替えられて、こういう形式化を極度にまで高めちゃうのが、日本人のクセかもね(笑)。
江戸時代 になると、幕府は公式に年4回〈衣替え〉して出仕することを制度化しました。
武家の制服は、旧暦の4月1日から5月4日が袷(裏地付きの着物)、5月5日から8月末日までが帷子(裏地なしの単仕立ての着物)、9月1日から9月8日までが袷、9月9日から3月末日までが綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)でした。武士以外の町人階級の上層部も、だいたいこれに従っていたのね。大奥では、着るもの・着る時期・着る色など身分によってそれぞれ決められていたそうだけど。
明治時代 になると、明治政府は役人・軍人・警察官の制服を定めて、夏服と冬服の衣替えの時期も決めたのね。新暦(太陽暦)が採用されて、6月1日から9月30日が夏服、10月1日から5月31日が冬服という、今の〈衣替え〉の日が定められたわけ。学校や警官やJRの車掌など、制服を着用するところは、今に至るしきたりになったわけね。
このように見ると、〈衣替え〉は為政者の秩序保持 の性格がつよくて、庶民は、そんなに厳密でなくて、ルーズだったと思うわ。春に向かう日は三寒四温で、その日の具合をみて衣服を選ぶように、そのときどきの気候に合わせ、自分の身体と相談しながら選んでいたのよ。それが普通でしょ。
でも、制服や着物 の、〈衣替え〉のしきたりは、今もそれなりに働いていて、〈衣替え〉によって気分があらたまる、という良さはあると思うわ。
雷鳥が羽根の色を変えるように、季節の色を持つのは悪くないと思うのよ。
すゞかけも空もすがしき更衣[石田波郷]
という句があるけど、何だか気持ちが明るくなるでしょ。いいわね、この句。
このように見ると、〈衣替え〉は、旬 をめぐる日本人のあり方と関わってくるわね。
〈衣替え〉というと、衣服だけがイメージされるようだけど。カーテンや、クッションカバー、ベッドカバー、また家具や、食器や、花瓶や、絵画(掛け軸)なども、四季折々に合わせて変えることを含めて〈衣替え〉を考えると、これはもう、住まいネット新聞「びお」の出番だわね(笑)。
〈衣替え〉は、危険がいっぱい?
むかしからの知恵 で、冬服を収納するのは、2〜3日晴天が続いた日を選ぶのがいいって言うじゃない。晴れた日が続けば湿度も低いので、衣類を虫やカビから守るには、そういう日を選ぶのが具合がいいのよ。これは秋の〈衣替え〉についても一緒のことだけど。
むかしの日本人は、みんな染み抜きの達人であったり、着物・和服の取り扱いの達人だったりしたのよ。仕舞う前のお手入れがちゃんとしていないと、〈衣替え〉は困ったことになるからね。
最近は、そういうことにお構いなしに、クリーニング に出して、防虫剤をクローゼットに吊って、それでOKということになっていないかしら?
この頃は、クリーニングした上、保管してくれるサービスもあるそうだけど(笑)。
衣類の〈衣替え〉にあたっては、まず汚れを取る ことね。
衣類を食べる虫は、何でもエサにしてしまう雑食性を持っているのね。衣類に付着した食べ物のカスやしみもエサにしてしまうのよ。トマトや果物の汁、牛乳、紅茶などは、もう大好物。だから、まず汚れを落とすことね。
次に、晴れた日に虫干し にすることね。太陽が持つ殺菌力を活かして虫干しをすると、湿気も消えるし、一石二丁。
それから、これは大切なポイントなんだけど、クリーニングから戻ってきた衣類や、ふとん、毛布などは、蒸れないようビニールを外して仕舞うことね。
それから、収納にあたっては、ぎゅうぎゅう詰めを避けること。収納後は、二週間に一度くらいは戸を開けて、風を通すことね。
悩ましいのは、防虫剤 をどうするかってことね。
というのは、防虫剤が原因で化学物質過敏症を発症した人がたくさんいるので・・・。
化学物質に反応して、頭痛やめまい、皮膚炎を起こすのね。防虫剤には、主成分別に樟脳、パラジクロロベンゼン、ナフタリン、エムペントリンの4つの種類があるっていうから。
このうちパラジクロロベンゼン は、動物実験で肝臓と、腎臓への影響が指摘される、揮発性有機化合物の1種で、特に問題なのね。この化学物質に関しては、厚労省も室内濃度指針値を定めています。この物質を含んだ防虫剤は使わないことね。
ほかの防虫剤を使う場合も、気化したガスは空気よりも重いので、衣類の中に入れないで、上の方に置くことね。
衣服に残留していたドライクリーニング溶剤 によって、皮フ障害に罹ったという人も多くいるの。合成皮革は溶剤が残りやすいので、その種のブランド品を持っている若い人は、気をつけないと皮フをやられちゃうわよ。ドライクリーニングに出したものは、着用前に乾燥させることが絶対に大事。