物語 郊外住宅の百年

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小林一三の大勝負、箕面有馬電気軌道の敷設事業

鉄道の敷設を競い合った時代

小林一三の飛躍のきっかけになったのは、箕面有馬電気軌道の仕事に就いたことだった。
箕面有馬電気軌道の前身は、阪鶴はんかく鉄道である。大阪-神崎-池田-三田-福知山-舞鶴を結ぶ鉄道を計画し、敷設ふせつを出願した会社である。

小林一三

阪鶴鉄道の監査役を勤めていた頃の小林一三

当時の鉄道事業者は、運行以前の揺籃ようらん期にあり、早い者勝ちで申請を競い合っていた。どう見ても鉄道を敷けない場合には、舟運や人力車の連絡便を計画書に書き込んで、計画の蓋然がいぜん性(確実性の度合い)をでっち上げたという。
鉄道国有法により官鉄線が優先されると分かると、彼らは並行して走る支線敷設を競って申請する、という具合だった。
阪鶴はんかく鉄道は舞鶴まで鉄道敷設を申請していたが、先に京都鉄道へ京都-綾部-舞鶴間の認可が下りたため実現しなかった。
つまり、大阪と舞鶴を結ぶ鉄道であることを表した社名は、最初の一歩目で挫折したわけで、この成算見込みのなさに、当時の鉄道屋のいい加減さがよく出ている。というより、そもそもこの社名自体、ハッタリもいいところで、狙いは神崎(今のJR尼崎)-大阪間だった。大阪(梅田)と尼崎間は、今のJR福知山線では一駅で、運行時間は6分の距離である。それさえも認可されなかったのである。
得られた路線は神崎-福知山間で、この路線だけは晴れて認可されたのだった。「晴れて」というのは、当時は、千に三つ当たればいいとされ、そういう連中が砂糖にたかる蟻のように群れをなしていたのである。つまりこれは、彼らにとっては大収穫だったのだ(京都鉄道に下った、京都-綾部-舞鶴間は、最終的に官鉄線が優先され、現在のJR福知山線の原型になっている)。
しかし、鉄道敷設免許を得たからといって、実際に鉄道が敷設・運行されるわけではない。
ほとんど計画書通りに運ばず、遅延すると失効してしまった。阪鶴鉄道は、認可されたものの工事に着手することなく、経営権は箕面有馬みのおありま電気軌道に移譲された。ダメ路線のたらい回しである。しかし、認可を得ている以上、それは「虎の子」であり、商売の最大の種だった。

箕面有馬みのおありま電気軌道は、この虎の子の路線を当て込んで設立された会社だった。狙いは、この路線を進めることにより、池田より分岐し梅田に乗り入れる補助路線を申請することだった。他に申請者がなかったため、これは運よく認可された。この路線認可によって、今の阪急宝塚本線の原型が敷かれることになったのだから、何が幸いするのか分からない。
JR、阪急、阪神のターミナル駅になっている梅田界隈は、今もつわものどもの夢の跡を思わせる土地で、私はこの土地に立つと、独特のニオイを感じて、複雑な場所性——関西特有の胡散うさん臭さを感じるのである。

現在の阪急百貨店の位置から見た2代目大阪駅。大阪市電が走っている。右手前は阪急梅田駅。

話を元に戻そう。
鉄道史的に見ると、箕面有馬電気軌道は主要鉄道が国有化され、中長距離輸送から近郊輸送に方針転換を図る時期に設立された会社だった。電気軌道という社名は、軌道法準拠の電車による運転が認可の対象になった時代を反映している。
しかし、この新会社が認可を得た路線は、沿線人口が少なく、茫々とした荒地と田畑の間を走る路線だった。鉄道収入だけで、到底、成り立ちようのない会社だった。
箕面有馬電気軌道の設立メンバーの多くは、元の阪鶴鉄道の幹部たちである。彼らは、この路線を「ミミズ電車」と自嘲して語り、うまく事が運べば食い扶持ぶちにありつける、といった腰掛け程度の考えだった。そんなやからが巣食っていて、株式の引受手もない状態の中に、小林一三は飛び込んだのだった。