物語 郊外住宅の百年

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小林一三の大勝負、箕面有馬電気軌道の敷設事業

小林一三は時代の申し子だった

小林は、元銀行員という触れ込みだったので、アテにされたのは資金集めだった。小林は、証券会社設立に誘ってくれた元上司が北浜銀行の役員を務めていたので頼み込んで株式の一部を引き受けてもらった。会社にとっては勿怪もっけもんの話である。彼は、この功績により同社の専務に祭り上げられた。トントン拍子の出世というより、められたというのが実態だった。
この会社の将来は小林の双肩にかかっているというものの、経営実態は火の車である。そこで鎌首をもたげて、窮鼠きゅうそ猫をむが如く反攻に転じるのが、この男の真骨頂である。小林は、どこにそんな知恵が眠っていたんだ、というほどにエネルギーを発揮することになる。
けれども、未成線に鉄路を敷設できる資金を用意するのは容易ではない。乾坤一擲けんこんいってき、彼がった方策は、計画路線周辺の土地を買収することだった。敷設工事費もないのに、くずのような土地を買い集めたのである。奇策も奇策である。
今になって振り返ると快挙と言われるが、そのときの経営状態からすれば暴挙そのもので、大博打だった。普通なら、役員や社員が反対して実行をみない話であるが、どうせ潰れる会社であり、腰掛け社員ばかりであったことが幸いして、小林は自分の思い通りに暴走することができたのである。まるで少年サンデーに掲載されるサクセス・ストーリー漫画のように……。
無論、小林に思惑がなかったわけではない。買収した土地を高く売って、その差益を鉄道事業に回そうと考えたわけで、後になって見ると、小林一三は大した奴だということになるけれど、このときはそんな話を誰も信じていなかった。

箕面有馬電気軌道の車両

銀行員時代の小林は、ホラ吹き男といわれた。信用ゼロだったと伝えられている。
小林が面白いのは、誰にどう思われようと気楽な気分の勤め人でいられる神経の太さで、それを他所よそに、せっせと小説を書くことを愉しんでいた。
ペンネームは逸山人で、群馬の上毛じょうもう新聞の懸賞小説に『お花団子』という時代小説を応募して入選を果たしている。『蒲団』や『田舎教師』などで知られる田山花袋たやまかたいも入選していて、それなりのレベルであったことをうかがわせるが、作家として一本立ちするほどの域ではなかった。小林は、いうところの「軟派青年」だった。慶応義塾時代は芝居見物に明け暮れ、学校よりも熱心に通ったといわれる。
結婚相手は、大阪で若い芸者をしていたコウという女性だった。一度は離婚し、一三は別の女性と結婚したものの、留守中にコウが来たことを知った一三は、コウを追いかけて、そのまま有馬温泉で3日間過ごし、ヨリを戻して再婚している。
コウは、小林家の家系図を見ると「丹羽市蔵の養女」になっている。コウの父親が若死にしたため、俳諧の師匠だった丹羽の養女となり花柳界に身を置くことになったのだった。
一三とコウが出会った場所は花街である。お客と芸者の関係である。花街に出入りし、小説を書き、芝居見物に明け暮れ、放蕩の挙句のすったもんだの末の結婚と離婚と再婚だったわけで、この時点の小林は退廃的で、破滅的であった。
一三は半端でない「軟派青年」であったのであり、この遊び人としての経験が、後年、宝塚劇場や東宝設立の素地になったことを考えると、人生何が幸いするのか分からない。
そんな男が、経営困難な事業を背負わされ、死中に活をもとめて、路線通過予定地の沿線土地31万坪を買い付け、宅地分譲に乗り出したのである。
この分譲開始は、鉄道敷設の前年だった。もし外れたら、すべてがオジャンである。小林にとってそれは、るかるかの大勝負だったのだが、根に遊び人の精神がある彼は、ゼロを知っているつよさを持って事にあたった。小林一三は、日本が産業社会として飛翔する、疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)時代の申し子だったのである。

著者について

小池一三

小池一三こいけ・いちぞう
1946年京都市生まれ。一般社団法人町の工務店ネット代表/手の物語有限会社代表取締役。住まいマガジン「びお」編集人。1987年にOMソーラー協会を設立し、パッシブソーラーの普及に尽力。その功績により、「愛・地球博」で「地球を愛する世界の100人」に選ばれる。「近くの山の木で家をつくる運動」の提唱者・宣言起草者として知られる。雑誌『チルチンびと』『住む。』などを創刊し、編集人を務める。