物語 郊外住宅の百年
第10回
パーカーとアンウィンの住宅地計画
今、われわれは真にポストモダンが求められる時代を生きている。
前回の一文は、それを考えるための寄り道であったが、コルビュジェの時代から遡ること50年、レッチワースにおけるアンウィンとパーカーの仕事を追うことで、引き続き、郊外住宅の百年の来し方を振り返り行く末を案じたい。
アンウィンは、1882年に石炭と鉱山の町、チェスターフィールドの設計事務所に就職し、後にパーカーと出会い、1893年、パーカーの姉エセルと結婚している。パーカーは、1895年にバクストンに事務所を開いていて、翌96年に、この事務所にアンウィンが協働者として合流することになる。
バクストンは、工業地帯のマンチェスターとシェフィールドに挟まれた街である。イギリスでミネラルウォーターといえば「バクストン」といわれる。バクストンは、渾々とおいしい水が湧き出ていて、緑溢れる街である。
イギリスを旅行中、私は「バクストン」を愛飲した。硬めの水質だけど、毎日飲んでいると気にならなくなる。アンウィンが飲んでいた水だと思うと、何んだか元気が出た。
パーカーとアンウィンは、1903年に設立された第一田園都市会社によるレッチワースの指名設計競技に応募した。この街で案を練り上げ、そうして一等賞に選ばれた。
2人の計画は、レッチワースの地形と周囲の樹林帯、川の流れを取り込み、丘陵の稜線に沿って都市の主軸線を構成し、タウンセンターの広場を中心に放射状道路とそれと連絡する環状道路を配置するというもので、自然の地形を押さえつつ、秩序あるデザインを実現するというのが計画のポイントだった。同時に2人は、低密度な住宅地計画技法(エーカーあたり12戸、坪数に換算すると1戸102坪)と、協同出資型住宅方式(低所得層対策のため、借家人と一般投資家が協同出資する方式)による経営方式を提案した。
2人はハワードの著作を読み、講演を聞き、その理念に共感を覚え、それまでに培った知見と設計術を駆使して設計競技に応募した。
作成された計画は、ハワードが描いた直線的・機能的な街路を配した模式図と異なるものだったが、ハワードは計画採用に同意した。設計競技の審査過程時、計画全体の停滞と、経営陣の間で経営のあり方を巡って意見の対立が見られたが、強い説得力を持った2人の提案は、それを突破するインパクトを持っていた。ハワードはこれに乗った。対立していた経営陣も大勢に応じることになり決まった。
2人の提案は内部対立を緩和させただけでなく、レッチワースの空間イメージを創生し、ハワードの田園都市論と一体化することで、大きな反響を呼んだ。
けれども、実際には開発は遅々として進まなかったという。特に生活基盤整備が進まず、予定通りに入居者も入らず、回収も滞り、それが経営陣の対立の火種になっていたのである。
日本人で最初にレッチワースを訪ねた生江孝之の報告『欧米視察・細民と救済』には、建設の話がほとんど触れられていないが、実際には造成現場を見に行ったようなもので、書きようがなかったようだ。
揺籃期というのは、得てしてそういうものかも知れない。お前の前に道はなく、いたずらに混乱を重ね、揉みしだかれ、行きつ戻りつしながら、懸命に取り組んでいたら、それが道になっていた、というものだろう。
アンウィンとパーカーは、田園都市借家人(株)の建築家にも任命された。ハワードは、共働き家族のための集合住宅や、レッチワースで働く独身女性のための共同住宅、高齢者、身体障害者の住宅や、母子・父子家庭のための住宅と託児所など、居住福祉の視点を重視した。
アンウィンとパーカーは、住戸をグルーピングすることで、これらの課題に応えた。この街区構成手法は、後に近代的なハウジング・レイアウト手法として喧伝され世界中に広まるのであるが、そのときは手探り状態で、暗中模索のものだったに違いない。
ハワードの居住福祉重視の背景には、後述するアメリカでの体験が大きく、またロバート・オーエンの「協同の村」など、連綿として続くイギリスのユートピア(理想郷)への夢があり、その核心には社会改良への強烈な意志があった。
このように見てくると、ハワードとアンウィンたちは、強い絆で結ばれ、思想も方法も一致していたように見えるけれど、仔細(しさい)に分け入り見るというと、設計の考え方だけでなく、その背景となる思想においても、ハワードとアンウィンには、大きな違いがあったことに気づかされた。
有り体にいえば、夫婦であっても、仮に心中した愛人関係であってさえ、棺は別々のものなので、2人の考えが違っていたとしても不思議ではないし、ましてそのことによって、成し遂げられた事績の評価が変わるものでもない。
けれども、今を生きるわれわれにとって、彼らに生じた齟齬(そご)が、今に通じるものであるなら、そのことに触れないわけには行かない。
原稿を前に進めるために、まず私は青年期のハワードのアメリカ生活とエマーソンのトランセンデンタリズム(超絶主義)の影響、ベラミーの『顧みれば』のことなどを追うことにした。