まちの中の建築スケッチ

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東京文化会館
——コンサートホールと広場——

東京文化会館

コンサートホールは大勢の人の出入りがあるので、ゆったりした広場が設計するときには考えられる。JR上野駅の公園口を出ると、すぐに広場になる。以前は、道路を横断しなくてはいけなかったが、今は、広場によって道路が分断された。歩行者優先で良いことである。
東京文化会館に初めてオーケストラを聴きに行ったのは、たしか中学生のときだったように思うので、1961年オープンというから、開館して間もなくだったことになる。その後も、何度も大ホール、小ホールに音楽を聴きに行った。広場を介して、コルビュジェ設計の国立西洋美術館があって、広い上野公園の入り口になっている。東京文化会館も前川國男の代表作だが、このスケッチシリーズも、前川國男の作品を結果的に随分と取り上げている。
戦後の東京の近代建築の走りということになるが、コンクリートの柱が厚みのある水平の強調された屋根を支えた構成は、外からも明解である。広場からロビーへの人の流れも自然に生まれる。裏手に回ると、大ホールの舞台を囲む石張りの巨大な壁が建ちはだかっているが、周辺の木々も大きく育っており、あまり圧迫感はない。また、小ホールの屋根は三角に立ち上がって、外からも大ホールとの対比が感じられ、コンクリートの箱というだけではない変化がある。
上野公園は、不忍池や動物園も有名であるが、科学博物館や都美術館などもあり、まさに文化の香り高いところである。しかし、最近知ったのは、もともと緑地のはずだったのが、特例で東京文化会館を建設してしまったという話を、「都市と緑地」(石川幹子著、岩波書店2001年)で知った。上野公園は、そもそもは、オランダ軍医ボードウィンが上野の山を公園にすべしと建議したことに始まるという。明治末から昭和初期にかけて、ニューヨークやシカゴで実現した大都市のパークシステムは東京でも緑地思想として何度も計画に取り入れられ、関東震災でも上野公園が役に立ったとか、さらには、戦災後の都市計画でも、都内の大公園の筆頭に上野公園が位置付けられた。そんな中、1956年の都市公園法で建蔽率が3%に制限されていたにも関わらず、東京文化会館敷地は公園から除外して超法規的に歯止めを外したのだという。「公園の中に、文化という名の下に様々な施設をやみくもに詰め込んでいく日本的土壌は、こうして上野公園において先鞭がつけられることとなった」(同書p,280)とある。
大田区でも、国分寺崖線の価値ある緑を残す、田園調布のせせらぎ公園で、園内の1300本もの樹木が伐採されて文化施設が建設され住民から疑問が出されている。改めて、都市内の緑地の意味を見直さなくてはいけないと思うと、東京文化会館も、都民にすっかりなじんだ名建築ではあるし、緑に囲まれた名建築としては良い環境にあるが、緑地の社会資産としての価値を議論する種にしてもよいかと、上野公園を散策しつつ思った。


神田さんの新著『小さな声からはじまる建築思想』が出版されました。

書誌情報より
建物の耐震性や構造安全性の専門家として名高い著者は、建築の世界を志して以来、一貫してスクラップアンドビルドではなくストックを活用するまちづくりを提唱し続けてきた。
本書の特徴の一つとして、著者の言葉の端々に「一人ひとりの生活への想像力」が滲んでいることが挙げられる。そのような姿勢は、一体どのように涵養されてきたのだろうか?
転機となった東大闘争、世界的な経済学者・宇沢弘文氏が唱えた「社会的共通資本」の理論が神田氏の建築思想に与えた影響などにも迫る。東日本大震災の発生直後から関わる三陸復興のプロジェクトを通して得た豊富な知見も収録!

小さな声からはじまる建築思想

発行/現代書館
四六変型 184ページ
定価 1700円+税
ISBN978-4-7684-5894-5

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