aki’s STOCKTAKINGを
stocktakingする。
第1回
「英才教育」で見えた道
ブログのエントリーは、2017年9月27日の時点で3880を数え、今なお増え続けています。もともとは、このブログをベースにしつつ、ブリコラージュについて書いていただきたい、という企画を考えていました。
ここでいうブリコラージュは、周辺にあるものの意味・価値を一度リセットし、再定義して使うチカラだと考えました。そのチカラは、ひょっとするとプロとアマの壁も、スーッと超えてしまうものなのでは、と考え、直接秋山さんにお話を伺うことにしました。
もちろん、そこから逸れて、他の話にもなるわけですが、それは読んでのお楽しみ。それでは、はじまり、はじまり。
佐塚 STOCKTAKINGをSTOCKTAKINGするという、大それた企画なわけですが…その前に、まずは秋山さんがどうして建築の道に進んだのかを、うかがいたいんです。写真屋さんがルーツなんですよね。
秋山 爺さんは明治時代、米国帰りの写真師で、水戸で写真館をやっていました。親父は、その跡取りになるべく、東京写真専門学校を出て、小西六写真工業(現・コニカミノルタ)で技術者をやっておりました。
佐塚 そうした中から建築を志したのは、どうしてなんでしょう?
秋山 1945年の2月、父親が満映(満洲映画協会)に行っちゃうわけですね。そこでカラー映画を撮るということになって、カラーフィルムの技術者として、新京、今の長春に行ったんです。半年後には戦争に負けて終わる、という時期なんだけど。
そんなわけで、2歳から10歳までの、父親不在の8年間、母親に育てられたんだ。僕が建築方面に進んだのは、おふくろの英才教育のせいですね(笑)。
佐塚 英才教育!(笑)
秋山 小学校1年生のときから、洋画家・喜多村知について、毎日曜日に絵を描かされる、という教育を受けたわけですよ。僕は嫌でたまらなかったんだけど。でも画才はあったみたいで、おふくろはそういう判断をしたんですよね。
それで、都立立川高校に入ったら大学受験を考えるんだけど、あのころはさあ、哲学科に行こうかとか、いろいろ生意気に考えてたんだよな。
佐塚 哲学ですか。高校入学の段階では、建築という方向は決まっていなかったわけですね。
秋山 おふくろがね、「お前、今の成績では東大に行けないよ」、なんていうわけですよ。高校では東大に行くのがひとつの理想というか、生意気な言い方をすると、行って当たり前みたいな雰囲気があったものだから。それで、「絵の試験がある学校に行けばいいじゃない。そういう風な教育をしてきたんだから」って。それで、そうか、絵の試験か。楽勝だよな。なんて思っちゃって。
それで、藝大に行くことがまず決まったんです。
佐塚 なるほど、絵で勝負しようと。