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「英才教育」で見えた道

建築家・秋山東一さんは、2003年5月、まだブログの黎明時代にaki’s STOCKTAKINGを開始しました。モノを見る視点、独特な書き口、そして多様な興味の対象は、建築界だけでなく、多くの人に影響を与えてきました。
ブログのエントリーは、2017年9月27日の時点で3880を数え、今なお増え続けています。もともとは、このブログをベースにしつつ、ブリコラージュについて書いていただきたい、という企画を考えていました。
ここでいうブリコラージュは、周辺にあるものの意味・価値を一度リセットし、再定義して使うチカラだと考えました。そのチカラは、ひょっとするとプロとアマの壁も、スーッと超えてしまうものなのでは、と考え、直接秋山さんにお話を伺うことにしました。
聞き手は、町の工務店ネット・佐塚昌則。秋山さんとは、細く長くで、20年ほどのおつきあいです。ふだんの話題は、それぞれの仕事のこと以外に、iPhone、ビール、洋食など、そんな他愛もない話ばかりなのですが、今回は「棚卸し」に先立って、まずは秋山さんと建築という世界の出会いについて聞きました。
もちろん、そこから逸れて、他の話にもなるわけですが、それは読んでのお楽しみ。それでは、はじまり、はじまり。

 

佐塚 STOCKTAKINGをSTOCKTAKINGするという、大それた企画なわけですが…その前に、まずは秋山さんがどうして建築の道に進んだのかを、うかがいたいんです。写真屋さんがルーツなんですよね。

秋山 爺さんは明治時代、米国帰りの写真師で、水戸で写真館をやっていました。親父は、その跡取りになるべく、東京写真専門学校を出て、小西六写真工業(現・コニカミノルタ)で技術者をやっておりました。

 

建築家・秋山東一

2歳の冬。父のカメラケースと。バックは木炭自動車…。戦争中で、まあ、あの頃は何もなくてと母が言っていました。靴が売っていなかったみたい…。

 

佐塚 そうした中から建築を志したのは、どうしてなんでしょう?

秋山 1945年の2月、父親が満映(満洲映画協会)に行っちゃうわけですね。そこでカラー映画を撮るということになって、カラーフィルムの技術者として、新京、今の長春に行ったんです。半年後には戦争に負けて終わる、という時期なんだけど。
そんなわけで、2歳から10歳までの、父親不在の8年間、母親に育てられたんだ。僕が建築方面に進んだのは、おふくろの英才教育のせいですね(笑)。

佐塚 英才教育!(笑)

秋山 小学校1年生のときから、洋画家・喜多村知について、毎日曜日に絵を描かされる、という教育を受けたわけですよ。僕は嫌でたまらなかったんだけど。でも画才はあったみたいで、おふくろはそういう判断をしたんですよね。
それで、都立立川高校に入ったら大学受験を考えるんだけど、あのころはさあ、哲学科に行こうかとか、いろいろ生意気に考えてたんだよな。

佐塚 哲学ですか。高校入学の段階では、建築という方向は決まっていなかったわけですね。

秋山 おふくろがね、「お前、今の成績では東大に行けないよ」、なんていうわけですよ。高校では東大に行くのがひとつの理想というか、生意気な言い方をすると、行って当たり前みたいな雰囲気があったものだから。それで、「絵の試験がある学校に行けばいいじゃない。そういう風な教育をしてきたんだから」って。それで、そうか、絵の試験か。楽勝だよな。なんて思っちゃって。
それで、藝大に行くことがまず決まったんです。

佐塚 なるほど、絵で勝負しようと。
 

秋山さんが東京藝術大学に入学したのは、1962年のことです。僕が、まだ生まれる前の話であり、はじめてお会いしたときにはすでに建築家でしたから、なんだか生まれながらの建築家のような気がしてしまいます。当たり前ですが、そんなことはないのですね。