パリ郊外の社会住宅 L’îlot 8 (1)
——Saint-Denisと社会住宅の歴史

ところかわれば

森弘子

昨年9月からパリ第8大学の大学院で教育学を学んでいます。修士1年の前期はおそらくどこの修士課程でも同じだと思うのですが、研究よりも講義に重点が置かれています。私の学んでいる修士課程でも同様で、必修でグループワークの授業がありました。授業名は『Recherche action et intervention sociale』、日本語に訳すと『アクション・リサーチと社会的介入』となります。日本の大学院で建築・都市計画を学んでいた時やその後の建築設計事務所勤務時代に、コミュニティに飛び込んでリサーチをする、まさしくアクション・リサーチをやっていたので、まさかパリで教育学を学ぶために入った修士課程で同じことをすることになるとは驚きでした。

授業では、パリ第8大学のあるSaint-Denis/サン=ドニという街で社会活動しているいくつかの活動団体やコミュニティがあげられ、その中から一つを選び学生5-6名でグループを組み、その活動団体に飛び込んでリサーチをしました。サン=ドニはパリの北部にある郊外の街で、パリのメトロやトラムが通る比較的利便性の高い地域ですが、フランスでも最も貧しい地域の一つで、多くの社会的問題を抱えています。活動団体は、サン=ドニ地区で活動する貧しい女性をサポートするのための団体や、地域で働く機械工の組合などがあり、私はL’îlot8(リロユィット、îlotは小島という意味)というサン=ドニの中心にある社会住宅の組合collectif îlot8(コレクティフ イロユィット)のグループを選択しました。

サン=ドニはパリ20区の北に位置する。パリ中心部からメトロで20分で到着するほど利便性は高い
出典:Google Map https://www.google.fr

蓋を開けてみると、L’îlot8はフランスの社会住宅(行政機関ではなく、HLM(適正家賃住宅)という組織による運営・管理)を多く手がけているその分野では有名なRenée Gailhoustet(レネー・ゲイルウステ)という女性建築家による集合住宅で、建築としても複雑な平面形状をしており、非常にユニークなものでした。collectif îlot8は、社会住宅の住民による組合で、現在はサン=ドニ市が主導している街区の改修事業に対して反対しています。そのようなコミュニティに飛び込んでいきリサーチをし、それをfanzine(ファンジン、冊子・同人誌)にまとめる、というのが私たちのタスクでした。

Marché de Saint-Denis(マルシェ・ドゥ・サン=ドニ)横から見たL’îlot8 copyright: Caroline Perreau

最終的に非常に内容の濃いリサーチとなったので、ここでは内容を「Saint-Denisと社会住宅の歴史」「L’îlot8とRenée Gailhoustet」「L’îlot8の現状」と3回に分けてご紹介したいと思います。

サン=ドニはパリの他の郊外とは異なり、単なる首都の衛星としてではなく、中世の町、王家の墓所、産業革命の中心地、そして大規模な労働者階級の町と、常に時代の変化に対応しながら、奥行きのある進化を遂げてきました。街の中心地にあるバシリカにはフランス王のほとんどがここに埋葬されており、フランス革命における処刑後のルイ16世とマリー・アントワネットもここに眠っています。中世には広場や通り、木造から石造りの建物で構成される都市に多くの職人が住んでおり、Le Lenditの見本市(ランディ、中世ヨーロッパの初期の国際的な市場)を背景に現在の商業的な影響力を持つようになりました。1821年にはサン=ドニ運河が港とパリ北東部のヴィレット流域を結び、19世紀半ばになると、鉄道が開通し、これによりサン=ドニには大規模な化学工場やいくつかの冶金工場が設立され、多くの労働力を集めることになりました。その後二度の世界大戦を経て、スペインや他のヨーロッパ、そしてアルジェリアなどから多くの移民が流入してくることとなります。

サン=ドニ大聖堂(バシリカ) L’îlot8とメトロ13番線の駅のすぐ側にある美しい大聖堂のたもとには、フランスでも随一の貧しい街が広がる 写真右奥にはW杯なども行われる競技場のスタッド・フランスが見える
出典:BASILIQUE CATHÉDRALE SAINT-DENIS
https://www.saint-denis-basilique.fr/Explorer/Histoire-du-monument

そして戦後、第二次世界大戦による破壊により、初めて国家が建設者としてサン=ドニに介入することとなります。フランスで最も乳児死亡率が高く、衛生的にも劣悪で、スラム街や過密な敷地が多く、フランスの他の多くの都市と同様、全てを整えなおさらければならない状況でした。そこで、1945年、安価な社会住宅を供給する組織が設立され、サン=ドニの土地の買収を開始、スラム対策として社会住宅を次々と建設する決定を行いました。ところが、その後1947年の政変で共産党が復興庁から去り、さらに冷戦の影響で事業は滞ってしまいます。しかし、1950年代に入り、旧植民地から大量の資本を再投入しなければならなかった国家は、住宅の大量生産政策に乗り出すことになり、1住戸あたり100万フラン(当時)という社会住宅の大量生産政策に乗り出します。これにより、当初計画されていた多様性やデザインを主軸に置いた都市計画は反故となってしまいました。この頃、サン=ドニの旧市街は8割がスラムとなっており、1953年、市はこの地区の改修を決定、1955年にこのエリアの老朽化した建物の買収を行います。1960年代は社会住宅のプロジェクトが進められているにもかかわらず、ベビーブームや移民労働者の流入により、住宅に対するニーズは減ることはありませんでした。1970年〜1975年には、現在でも郊外でよく見かけるタワー型の大規模な団地が多く建設されました。しかし、建設が進む中、時代の変化と共に社会住宅に対する概念に変化が訪れます。1975年にセーヌ・サン=ドニ県で開発・建設・コンサルタントを行う半官半民の会社 Sodedat(ソドゥダ)が設立されたことで、サン=ドニも大きな変化を遂げることとなります。Sodedatにより、L’îlot8もこのようなサン=ドニと社会住宅の歴史の大きな流れの中で誕生します。

次回はL’îlot8自体とその建築家Renée Gailhoustetについてご紹介します。